2012年12月26日水曜日

あくまでも透明なカレンダー・ガールズ


2012年もあと数日で終り、新しい2013年が始まります。

このブログは、オバマ大統領の第1期就任前に始め、丸4年経ち、300点余りの随筆、評論や訃報を発表してきました。これも読者の方々のご支援の賜物です。オバマ大統領、2期目の発足に足並みを揃え、多難な年にどのように展開するか、引き続きよろしくご支援をお願いいたします。
第二次大戦当時、アメリカ兵の間で最も人気があったBetty Grable
今年のブログ納めとして、来年のカレンダー・ガールズをご紹介いたします。今から80年ほど昔の1930年頃にモデルを撮った写真家(姓名不詳)は、多分この世に存在していないと思います。当時としては画期的なレントゲン写真の先駆者でしたが、あまり世間から認められなかった作品を、改めてご観賞ください。 編集:高橋 経

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2012年12月19日水曜日

哀悼回顧:ダニエル・イノウエ


ダニエル・ケン・イノウエ
1924年9月7日~2012年12月17日

ハワイ選出の上院議員、ダニエル・ケン・イノウエが昨日88才で亡くなった。

イノウエは、1924年9月7日、ハワイ生まれ、祖父はさとうきび農園へ働きにきた日本移民。

1945年12月7日(ハワイ時間)日本空海軍が真珠湾攻撃で日米戦争が始まり、日系アメリカ人は『敵性国民』と断定され、本土西海岸の日系人11万人が僻地に撤去させられた。

ハワイの日系人は、撤去の対象にはならなかったが、適齢期の二世たちはアメリカへの忠誠を示す手段としてアメリカ軍隊に志願した。イノウエもその一人で、訓練の後二世部隊の一員としてイタリア戦線に赴き『ゴー・フォー・ブローク(Go For Broke)』のスローガンを掲げて奮戦し、フランスを解放し、アメリカを勝利に導いた。二世部隊の働きはアメリカ陸軍史上で最も勇敢で英雄的な行動であったと評価され、数多くの勲章を授与された。

イノウエはこの戦闘中に重傷を負い右腕を失った。

以下イノウエの豊富な経歴を抜粋し、略歴だけご紹介する。

◆ 1947年、除隊。


マーガレットと結婚
◆ 1948年、マーガレット・アワムラ(Margaret Awamura)と結婚。二人の間には息子が一人。

◆ 1950年、初志は医者だったが、片腕では不都合な職業なので変更し、ハワイ大学で経済と政治学を学び、後にジョージ・ワシントン大学法律部門で学位をとって卒業した。

◆ 1954年、ホノルルで公共検事補佐を務めたあと、ハワイ選出の民主党代議士に選ばれた。

◆ 1959年8月21日、アイゼンハワー大統領時代、ハワイはアメリカ50番目の州に昇格。その1週間後、イノウエはハワイの代議員となった。

◆ 1962年11月7日、民主党の議席が空いたのでイノウエはその席に就き上院議員となる。日系人では初めての議席であった。

◆ 1968年8月26日、イノウエは、シカゴで開催された民主党全国大会で主席として演説する。この間、ジョンソン大統領、ハンフリー副大統領らと親交を持つようになる。


ウォーターゲート聴聞会:右端がイノウエ議員
◆ 1973年5月、ウォーターゲート事件起こる。テレビで公開された事件の聴聞会に上院議員の資格で委員となり、席上鋭い質問で追求し、頭角を顕わした。結果としてニクソン大統領はその地位から失墜した。


◆ 1987年5月、イラン+コントラ事件の公聴会が始まる。イノウエは議員で構成された聴聞委員会パネルの委員長を務める。イノウエはこの事件に関して「肌が凍るできごとで、不正きわまりない違法行為である」と決めつけた。


◆ 1988年2月:北アフリカの仏領からのユダヤ難民を北米に受け入れる問題に関して、イノウエ議員は、政治献金にからんで反対の立場をとっていたが、人道上の見地から考え直し、8百万ドル計上したユダヤ人教育施設の建設を支持することにした。


C-17輸送機
◆ 1993年6月:クリントン政権下で、軍隊のコントラクター救出にからんで、国防省がマクドネル・ダグラス製(McDonnell Douglas Corp.)のC-17輸送機を購入する計画を立て、議会はがそれを認める段階になっていた。当時軍部の支出を監査する委員パネルの委員長を務めていたイノウエ議員は国防長官宛に同機の購入をうながす書簡を送った。同社はその後15年間生産を継続した。

◆ 1997年10月24日:初任から40年間議員活動をしてきたイノウエ議員は、出身州ハワイのために多額の予算を獲得してきた。その支出には、豪華回遊客船とか、第二次大戦で奮戦した日系アメリカ人将兵を顕彰する博物館の建設などが含まれていた。

◆ 2000年6月:アジア系アメリカ人21名が功労を認められ、最高の功労賞が授与された。イノウエ議員も大戦中の英雄的行動が認められ、その授賞者の一人となった。


◆ 2008年11月:イノウエ議員は、議会で最も有力者である上院議員長の椅子に就いた。この地位によって、イノウエ議員に対する陳情その他、職責上の負担が重くなってきた。

◆ 2012年12月17日:50年余りに及びアメリカ政治界で議員として活躍し、近年健康を損ない治療を受けた末に死亡。

ダニエル・ケン・イノウエのご冥福を祈る。 編集:高橋 経

2012年12月17日月曜日

『金』そして『乱』

ゆく年の印象を一字で表す年中行事に『』が最高票で選ばれたそうだ。
(次のビデオは朝日新聞から拝借)


なるほど、そういうものかと対岸の火事の気軽さで『』という字を起点にいろいろと連想してみた。

』を[キン]と発音すると鉱物の『』で、『』とすると「鉱物一般」ということになる。『』とすると更に値打ちが出て、キラキラした『』の意味合いが強調されるので、おとぎ話や小説作家たちは好んで使ってきたようだ。勿論『』の値打ちはエジプトの太古から、カリフォルニア州の『ゴールド・ラッシュ』を経て今日まで、綿々として不動の価値を持続している。

』を[カネ]と発音すると、むしろ「通貨」という意味合いをもってくる。だが通貨としての『』は存在するらしいが、流通しているのかどうか、一度もお目にかかったことがない。江戸時代の通貨、、、といっても庶民には縁がない小判が『』で鋳造されていたらしいが『』ではなかったようだ。『』は『』その他の貴重品を仕舞っておく一種の[物入れ]だが、その名とは無関係で『』が収まっているかどうかは疑わしい。

』は化学的には『24』であり、の職人は仲間同士では[ヤキ]と呼んでいる。『の指輪』は、『』だと柔らかくて摩耗が早いから、わざわざ『にして『』の割合を減らして、18とか14にするのだそうだ。

』の字が付く名前、例えば『太郎』、『次郎』、『』、『』などは親達が子供を『持ち』にしよう願って付けたのに違いない。『』という女性名が見えないのは、[苗字]の『』に独占されたしまったからであろう。

いずれにしても、『』は『』にせよ、[通貨]にせよ、それをたくさん蓄えている人は『持ち』であり、そうなりたく追求に余念のない人々は『』主義者である。『』に縁のない人々は『は天下の回りもの』とうそぶいているが、待っているだけで『』が庶民の方に回ってくるとは思えない。

政治と『』は本来、無関係なはずだが、どうやら『回り』のよい政治家の方が[権力]を獲得するのに有利なようだ。日本では衆議院選挙で、アメリカでは大統領選挙でも史上最高の『』がバラ巻かれたようだ。再選されたオバマの競合相手だったロムニーは[億万長者]で、『』の使い方に関する限り、オバマを上回っていたので、マスコミの予想は互角で「若しかしたら、ロムニー大統領」が実現するかに見えたが、オバマの半分しか票が得られず、敗退してしまった。この結果は『』以外の不慮の理由があってもたらされたものだが、『権政治』は東西を問わず共通する現象のようだ。

他人の『』を預かって利益を上げるのが銀行であり、証券会社であり、ひいては資本主義国家の企業殆どである。彼らの目標は、如何にして[利益を上げるか]、、、つまり『儲け』をすることが第一で[社会への貢献]は二の次、三の次にされているのが情けない。いずれも近世の『術師』の集合である。騙されないようご用心。

かくして日本の善良なる国民の多数が『』の字に票を投じたのだろうが、『』を選んだ人々がいたことも忘れてはならない。日本の国会の様子を観察していると、正に『』の一字に尽きる。今回の選挙で、自民党が大勝したそうだが、『』に陥らず、『』や『』を匂わせず、原発の存廃を良識で処理し、沖縄の苦慮を自国の問題として対処してもらいたいものだ。  ------- 編集:高橋 経

2012年12月13日木曜日

追悼:ラヴィ・シャンカァ

ラヴィ・シャンカァ(Ravi Shankar: 92)
1920年4月7日~2012年12月11日

ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカァ、1970年頃
インド人のラヴィ・シャンカァはしばしばパンデット(Pandit: 賢者)という敬称で呼ばれていた。シタァ(sitar)という長大な弦楽器を使い作曲し演奏し、伝統的な曲も含め、インド音楽を欧米に広め人気を博した。ビートルズ(the Beatles) が敬愛し、特に故ジョージ・ハリソン(George Harrison)がその楽器に魅了され、教えを乞い習得した逸話は広く知られている。

シャンカァは若い頃、兄のウディ・シャンカァ(Usaipur Shankar: 1900~1977)が率いる舞踊グループについてヨーロッパ演奏旅行に同行した。18才になって踊りを止め、シタァの指導を受け、その演奏法を習得した。1944年、24才になったシャンカァは作曲を始め、1956年までオール・インディア・ラジオ(All India Radio)を通じて発表した。

以後、活動的に欧米で演奏活動を続け、ヴァイオリニスト、メニュイン(Yehudi Menuhin)ビートルズ等と親交をもち交流するようになった。また欧米の音楽をシタァ向けに編曲し交響楽団と共演し、1970年代から1980年代にかけて国際的な存在となった。

本国のインドでは、1986年から1992年までインド上院議会の候補メンバーとして奉仕、1999年には市民では最高のバァラ・ラトナ賞(Bharat Ratna)を授賞した。

2000年代になっても引き続き演奏活動を続けていたシャンカァの死後は、共演していた娘のアノウシュカ(Anoushka) が、父親ラヴィの跡を継ぐことになる。

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“Ravi Shankar I Am Missing You” 『ラヴィ・シャンカァ、貴方を偲んで』3:58分をご観賞ください。

2012年12月11日火曜日

軍国日本の復活?!


今を去ること67年前の1945年(昭和20年)、米英その他連合軍と戦っていた日本は惨敗を喫し、国土の大半は焼失して廃墟と化し、3百万人の生命が犠牲となり、北は樺太を含む島々を、南は沖縄以南の領土を失った。ダグラス・マッカーサー元帥を総司令官とする占領軍が日本の政治を司り、日本軍は全て武装を解除し、天皇は神格を放棄して人間宣言をし、新しい憲法が発布された。

沿岸警備船の訓練に派遣されたアフリカやアジアの代表
その新憲法の骨子は、「日本は武力を放棄して『永遠に』平和国家となり、一切の戦争に介入しない」ということであった。しかし、この憲法は『ザル法』だったようだ。敗戦の悪夢が覚めやらぬ内に、非常事態が生じた際の国防、という名目で『自衛隊』が誕生した。経済の復興に伴い自衛隊の軍備は増大し、曽ての大日本帝国陸海空軍の武力を遥かに凌ぐ戦力を備えてしまった。近代的武力で欠けているものといえば、『長距離弾道ミサイル』と『核潜水艦』である。
船内を見学し勉強する代表たち
だが北朝鮮からの脅威であるミサイルを、未然に空中で爆破してしまう『対空ミサイル』装置は確保している。
それでも自衛隊は、日本独特の天変地異が発生する度に出動し、被災者の救助に当たったため、国民は彼らの『武力』はともかく、『援助活動』には敬意を表し、感謝している。
かくして日本は敗戦以来67年間、世界のどこかで常に起きていた紛争をよそに、憲法を守り『平和国家』を享受し続けてきた。正に、古くはなったが新憲法サマサマである。ところが世界の情勢は、憲法をタテに他国の紛争に無関係でいられなくなった。それは多分、米英をはじめとする『大国』が、紛争に苦しむ『自由国家』を保護するために膨大な予算を費やし、軍隊を送っているのに、『経済大国』である日本が知らん顔をしているのは不都合である、という非難が出てきたため、敗戦以来、今年初めて自衛隊の海外派遣の予算が計上され、東南アジアその他の国々を援助し始めた。
東京湾でパトロールの実習中


こうした動向は敗戦で誓った『永遠の平和国家』の理想とは反するものであるが、中国の圧力に屈しないため、という理由もうなずけないことはない。殊に、東シナ海の無人島同然の尖閣島の所有権問題となると、『保護者』である筈のアメリカが後押ししてくれない限り、日本は自力で所有権を護らねばならなくなる。これが野田首相の言い分であり、『自衛隊』『国防隊』に格上げするだけで、『攻撃』でなくあくまでも『防御』が目的なのだというのである。
同時に『災害援助』から一歩進めて、他国の国防を援助する計画も進められている。その計画の内には、領海の拡張に積極的な中国の圧力から護るための水上飛行機とか、浅い沿岸を警備するに適したディーゼル発動機潜水艦を提供(有料で)することが含まれている。

これに対して国民の反応は半信半疑といったところだ。敗戦から67年経った今日、戦中戦後を体験した世代は2割前後で、以後この割合は減るいことはあっても増えることはない。とは言うものの、『軍国日本』の復活を戦争体験者が反対し、無戦派が賛成しているとは限らない。例えば、石原慎太郎は敗戦当時12才で敗戦の悪夢を体験しているはずだが、尖閣島問題に関する限り好戦的な姿勢を示している。
北京での反日デモ
中国での激しい『反日デモ』も日本を挑発するに充分な要素だ。
領土問題は尖閣島の他に、竹島問題あり、永年停滞し続けている北方領土、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)島など、日本にとっては頭痛の種が山積みしている。
もともと土地も海も、誰のものでもなかったのだから、誰も『所有』することなく、自由に上がって釣りなど楽しむことはできないものだろうか。いずれにせよ、武力で解決することを避けて、外交で妥協してもらいたいものだ。 編集:高橋 経 (写真、地図はニューヨーク・タイムズから。コー・ササキ撮影)

2012年12月6日木曜日

追悼:ディヴ・ブルーベック

第38回グラミー賞受賞式で演奏:1999年 

 ディヴ・ブルーベック

Dave Brubeck
1920年12月6日~2012年12月5日

売り出し当時のブルーベック:1950年代
生まれはサンフランシスコ湾岸地区。1960年代からジャズ・ピアニストとしては最も進歩的な作曲家として、92才の誕生日(12月6日)を目前にして亡くなるまで活躍を続けた。クラシックの素養を身につけていたが、飽き足らずジャズに熱中し、創作的なジャズの新風を巻き起こした。ブルーベックを一躍モダンなクール・ジャズのトップに不動の地位を築いた出世作はテイク・ファイヴ(Take Five)』。YouTubeでは、他の著名な音楽家たちも『テイク・ファイヴ』を演奏しているし、また2010年にブルーベック自身が再演している。だが、1966年に公演した『テイク・ファイヴ』のビデオがモノクロながら当時を偲ぶに最も適切だと判断したのでお贈りする。5分22秒、当時の観客と共に堪能し、稀代のジャズ作曲家の冥福を祈っていただきたい。 編集: 高橋 経


Paul Desmond−サックス, Joe Morello−ドラムス、 Brubeckの後ろは Gene Wright−ベース

2012年12月3日月曜日

ナイアガラの滝、101年前のできごと



ジェームス・ソマーズ(James Sommers)が、母親から聞いた話。


観光客で賑わうナイアガラの滝 

「あの頃,私の従姉のソフィア(Sophia)がナイアガラの滝の傍に住んでいてね、、、。ある朝、目が覚めた時、いつもと違う『何か』を感じてね。それが何なのか、直ぐには判らなかったんだけど、やっと、いつも聞こえる筈の『音』が聞こえないことに気が付いたの。その『音』とは、ナイアガラを流れる水が滝に落ちる時のすさまじい轟音を、ソフィアは絶え間なく聞いていたのです。
「奇妙に思って表へ出ました。もちろん冬の真っ最中、オーバーを着て、手袋をはめ、耳まで覆う帽子を被り、ブーツをはきました。裏庭を出ただけで目の下に見えるナイアガラの川と滝を見た時、ビックリして開いた口がふがりませんでした。川も滝もすっかり凍って動いていなかったからです。」

1911年、冬のできごとだった。





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