2011年6月23日木曜日

知られざる有名人

ドン・ブランディング(Don Blanding)という名の人を知らなかったのは私だけで、実はある時期に有名だったことが最近になって判りました。その人のことを教えてくれたのはハワイ在住のアラン・灰田さんでした。

灰田さんはホノルルの本屋で、ある一冊の本に惹かれて買い求めました。1959年のことです。それがブランディングの詩集で、自らのイラストで飾った『フラ・ムーンズ』という初版が1930年の本でした。(右がその表紙)

灰田さんは、それから間もなくロサンゼルスの美術学校へ留学し、宿題に追われながらポリネシア番組のラジオを聞いていましたが、頻繁にドン・ブランディングの詩を流していたので、その都度耳を傾けていました。ブランディングが魅惑されたハワイは、灰田さんの郷愁を誘ったことでしょう。

それから半世紀の才月が過ぎ、灰田さんはハワイに定住し、そしてある日、本棚を整理していたら、かつて愛読した『フラ・ムーンズ』が見付かったのです。その時の灰田さんの感慨は想像に難くありませんが、これがその本の表紙、序文、それと挿絵です。--- 編集:高橋 経


はしがき
また南海の本かね?
また南洋の宣伝かね?
またそよ風が吹き抜ける腰ミノを着けてを浜辺に誘われた話かね?

いや違う。この『フラ・ムーンズ』で私は、「ハワイから美女がいなくなったのかい?」とか、「素朴な島の魅力が文明で失われたのでは?」といった疑問に答えるつもりだ。

近頃たしかに茅葺き屋根の家は見当たらなくなったが、トタン屋根の家にも、いまだに茅葺きの家の雰囲気が残っている。
ハワイの海のブルースは、ワイキキの浜辺でジャズのブルースと調和している。

だからといって、ハワイの水のブルーが淡められたわけではない。




ドン・ブランディングの略歴をざっと一瞥しただけで、その多才にして多彩な62年の生涯、、、詩人、イラストレーター、俳優、コピー・ライター、事業家、随筆家、評論家、講演家、、、などなどに驚かされる。

ドナルド・ブランディング(Donald Benson Blanding)は1894年(明治27年)11月7日、早世期のオクラホマ州生まれ、19才から3年近くシカゴ美術学校(the Art Institute of Chicago)で学んだ。


第一次世界大戦の時期に兵役にあり、1916年(大正5年)に8ヵ月間カナダ陸軍の塹壕作戦に参加し訓練を受けた。何故か所属していた部隊がヨーロッパ戦線へ向かう直前に脱隊し、その1年後、アメリカ陸軍に入隊した。

間もなく、突然ハワイに憧れて移り、アメリカ陸軍の兵役義務が発効する1917年(大正6年)まで住んでいた。以後、兵卒として入隊し、士官昇格の訓練を受け、中尉となり1918年(大正7年)12月に兵役解除となった。

一般人となってから再び美術の道を追求し、パリ、ロンドン、中米からユカタン半島をさすらい歩き、1921年(大正10年)にホノルルに腰を落ち着けた。アーティストの資格で広告代理店に入社し、広告主の『味の素』の文案を詩の形で制作し、ホノルル・スター・バレティン紙(Honolulu Star Balletin)に連日掲載され続けた。(左は『味の素』の広告)詩文の題材にホノルル住民のことや地方の行事を取り上げていたので彼の名が知れ亘り人気が上がった。

こうした機運からブランディングの詩文案が蓄積され、1923年(大正12年)には出版の運びとなった。自費で出した初版の2,000部は忽ち売り切れ、それを補充するため出版社から二版目が発行されるに当たり、更に 新作を追加した。

それが5版目ともなると、ブランディングは地方版や西海岸版だけでなく、ニューヨークのドッド・ミィド社(Dodd, Mead & Co)から全国向けの規模で出版することになった。その結果ヴァガボンズ・ハウス(Vagabond's House)』はニューヨーク・タイムズ紙の批評欄で取り上げられ、詩集の売り上げは商業的に多大な成功を収めた。その評判は1948年(昭和23年)まで続き、各種、各版を総合して15万部を売り尽くした。


1927年(昭和2年)、ブランディングの発案でレイの日(Lei's Day)』をハワイの年中祝日として設定された。

ブランディングは有名になるにつれ、ハワイを愛して執着し常住していながら、世界中の知名人に会うため、しばしばアメリカ本土に赴き、ホテル暮らしを余儀なくされる人生が始まったが、その費用をまかなうに充分の収入を得ていた。


ブランディングの幼な馴染みの思い出に、ルシール・カッシン(Lucille "Billie" Cassin)という女の子がいた。彼女が足を大怪我した時、ブランディングが医者に運んだという逸話がある。そのルシールは、長じてジョアン・クロフォード(Joan Crawford)という芸名で1936年作品の映画素晴らしいハッセイ(The Gorgeous Hussy)』で主演しスターダムに昇った。その時点で二人は再会し、旧交を暖めた。ブランディングの有名度がクロフォードに匹敵したという実証である。


1940年(昭和15年)6月、ブランディングは社交界名門の娘ドロシー・パットマン(Dorothy "Binney" Putnam)と結婚、フロリダ州に新居を構えた。この結婚は1947年に破綻をきたし離婚した。夫妻の間に子供はできなかった。

日本軍のハワイ真珠湾攻撃でアメリカが第二次大戦に参戦した時、ブランディングは楽園が戦争の目標にされたことに心を痛め、各地へ赴き講演をする旅行に出かけた。1942年(昭和17年)4月9日、バタアン半島が日本軍に占領されたニュースを講演中に聞き、その悲痛な心境をバタアンの敗北(Bataan Falls)』と題して16行にまとめた。

時を移さず同月25日、47才だった彼は一兵卒として入隊した。その後11ヵ月、歩兵1208連隊に従軍し、下士官に進級して除隊した。


1957年(昭和32年)6月9日、ドン・ブランディングはロサンゼルスの自宅で心臓マヒで死亡した。享年62才だった。

ある人が彼を評して的確:

   生れながらのアーティスト(Artist by Nature)

   本能で演じた俳優(Actor by Instinct)

   思いがけずに詩人(Poet by Accident)

   選んだ道はヴァガボンド(Vagabond by Choice)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

紙面が限られているので、残念ながらブランディグの作品のごく一部しか掲載できませんでした。