2011年6月27日月曜日

ある刑事の死

「ある刑事」とは「刑事コロンボ」のこと。言わずもがな、ピーター・フォークのはまり役、当たり役です。私もフアンの一人として、書きたいことは山ほどありますが、この際、朝日新聞の天声人語子が、私の考えととほぼ並行していたので譲ることにします。編集:高橋 経

追悼:ピーター・フォーク(Peter Falk)

天声人語
2011年6月26日付け(原文のまま)


「刑事コロンボ」に犯人が捕まらない話がある。往年の大女優が再起をかけて夫を殺すが、脳の病で犯行を覚えていない。しかも余命は数カ月。これを知った 親友の演出家が自ら身代わりになる。コロンボはうその自白を戒めつつ、「数カ月は持ちこたえてみせる」の言葉にうなずいた▼そんな泣かせる結末や鮮やかな アリバイ崩しが、浮かんでは消える。敏腕刑事を温かく演じたピーター・フォーク氏が83歳で亡くなった。(6月23日夜半) 晩年は認知症だったが、ファンはその姿を忘れまい ▼30を前に公務員から転身、40過ぎに生涯のはまり役を得た。無精ひげ、ボサボサの髪はメーク不要。「車にレインコートにわたしのこのツラ、これだけそろってりゃ十分だ」と自伝(田中雅子訳、東邦出版)にある▼渥美清さん以外の寅さんがいないように、コロンボは氏と、日本では小池朝雄さんの声を併せて完成した。対する犯人役には男女とも大物が使われ、よんどころない事情で殺人に走る成功者たちを、時に切なく演じた▼犯人との知恵比べとは別に、ひそかな楽しみがあった。よれよれのコートの陰から、米国の上流社会をのぞき見る愉悦だ。コロンボが「名ガイド」たりえたのは、俳優の憎めない個性ゆえだろう▼「シャーロック・ホームズのB面」という能書きがお気に入りだったという。以後、「コロンボのB面」とでも呼ぶべき刑事ドラマが各国に生まれた。恐らくは 満足の口笛を吹きながら、ボートをこいで霧の海に去る名優が見える。
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思い出の名場面

(以下は、ニューヨーク・タイムズ6月24日付けから抜粋)

ロサンゼルス警察の警部補コロンボ役で、ピーター・フォークは従来の典型を破り、一見頼りないコミカルなタイプで視聴者を魅了した。上の写真はオスカー・ワーナー(Oskar Werner:)が演ずるハイテクの天才が企んだ完全犯罪と対決する一場面。

私に完全殺人をさせて(Make Me a Perfect Murder)』と題する映画。テレビ局幹部の殺人事件で、その愛人を演ずるトリシュ・ヴァン・ドヴィア(Trish Van Devere:)と会話を交わすコロンボ警部補。

親友ジョン・カサヴェッツ(John Cassavetes:)と協同で1970年に製作した映画『夫たち(Husbands)』の一場面。フォークの右はベン・ガザーラだと思われる。

カサヴェッツ()が主演、監督した酔いどれ婦人(A Woman Under the Influence)』は、精神障害によるある結婚生活を掘り下げた話。重要な脇役をフォークが務めた。上の場面には出ていないが、カサヴェッツの妻役を演じたジーナ・ロウランズ(Gena Rowlands)はアカデミー賞の候補に上った。

後年、フォークは記憶に残る数本の映画に出演した。これはその一つ、1979年製作の義理の親族たち(The In-Laws)』アラン・アーキン(Alan Arkin:)と共演したドタバタ活劇。

さま新婦(The Princess Bride)』フレッド・サヴェジ(Fred Savage:左)の祖父役を演じた。

2002年、ニューヨーク市のロックフェラー・センターで催されたNBC放送局の75周年記念行事に出席したピーター・フォーク。

フォーク
の遺族は、妻のシェラ・ダニーズ(旧姓:Shera Danese)と二人の娘ジャッキー(Jackie)キャサリン(Catherine)

2011年6月23日木曜日

知られざる有名人

ドン・ブランディング(Don Blanding)という名の人を知らなかったのは私だけで、実はある時期に有名だったことが最近になって判りました。その人のことを教えてくれたのはハワイ在住のアラン・灰田さんでした。

灰田さんはホノルルの本屋で、ある一冊の本に惹かれて買い求めました。1959年のことです。それがブランディングの詩集で、自らのイラストで飾った『フラ・ムーンズ』という初版が1930年の本でした。(右がその表紙)

灰田さんは、それから間もなくロサンゼルスの美術学校へ留学し、宿題に追われながらポリネシア番組のラジオを聞いていましたが、頻繁にドン・ブランディングの詩を流していたので、その都度耳を傾けていました。ブランディングが魅惑されたハワイは、灰田さんの郷愁を誘ったことでしょう。

それから半世紀の才月が過ぎ、灰田さんはハワイに定住し、そしてある日、本棚を整理していたら、かつて愛読した『フラ・ムーンズ』が見付かったのです。その時の灰田さんの感慨は想像に難くありませんが、これがその本の表紙、序文、それと挿絵です。--- 編集:高橋 経


はしがき
また南海の本かね?
また南洋の宣伝かね?
またそよ風が吹き抜ける腰ミノを着けてを浜辺に誘われた話かね?

いや違う。この『フラ・ムーンズ』で私は、「ハワイから美女がいなくなったのかい?」とか、「素朴な島の魅力が文明で失われたのでは?」といった疑問に答えるつもりだ。

近頃たしかに茅葺き屋根の家は見当たらなくなったが、トタン屋根の家にも、いまだに茅葺きの家の雰囲気が残っている。
ハワイの海のブルースは、ワイキキの浜辺でジャズのブルースと調和している。

だからといって、ハワイの水のブルーが淡められたわけではない。




ドン・ブランディングの略歴をざっと一瞥しただけで、その多才にして多彩な62年の生涯、、、詩人、イラストレーター、俳優、コピー・ライター、事業家、随筆家、評論家、講演家、、、などなどに驚かされる。

ドナルド・ブランディング(Donald Benson Blanding)は1894年(明治27年)11月7日、早世期のオクラホマ州生まれ、19才から3年近くシカゴ美術学校(the Art Institute of Chicago)で学んだ。


第一次世界大戦の時期に兵役にあり、1916年(大正5年)に8ヵ月間カナダ陸軍の塹壕作戦に参加し訓練を受けた。何故か所属していた部隊がヨーロッパ戦線へ向かう直前に脱隊し、その1年後、アメリカ陸軍に入隊した。

間もなく、突然ハワイに憧れて移り、アメリカ陸軍の兵役義務が発効する1917年(大正6年)まで住んでいた。以後、兵卒として入隊し、士官昇格の訓練を受け、中尉となり1918年(大正7年)12月に兵役解除となった。

一般人となってから再び美術の道を追求し、パリ、ロンドン、中米からユカタン半島をさすらい歩き、1921年(大正10年)にホノルルに腰を落ち着けた。アーティストの資格で広告代理店に入社し、広告主の『味の素』の文案を詩の形で制作し、ホノルル・スター・バレティン紙(Honolulu Star Balletin)に連日掲載され続けた。(左は『味の素』の広告)詩文の題材にホノルル住民のことや地方の行事を取り上げていたので彼の名が知れ亘り人気が上がった。

こうした機運からブランディングの詩文案が蓄積され、1923年(大正12年)には出版の運びとなった。自費で出した初版の2,000部は忽ち売り切れ、それを補充するため出版社から二版目が発行されるに当たり、更に 新作を追加した。

それが5版目ともなると、ブランディングは地方版や西海岸版だけでなく、ニューヨークのドッド・ミィド社(Dodd, Mead & Co)から全国向けの規模で出版することになった。その結果ヴァガボンズ・ハウス(Vagabond's House)』はニューヨーク・タイムズ紙の批評欄で取り上げられ、詩集の売り上げは商業的に多大な成功を収めた。その評判は1948年(昭和23年)まで続き、各種、各版を総合して15万部を売り尽くした。


1927年(昭和2年)、ブランディングの発案でレイの日(Lei's Day)』をハワイの年中祝日として設定された。

ブランディングは有名になるにつれ、ハワイを愛して執着し常住していながら、世界中の知名人に会うため、しばしばアメリカ本土に赴き、ホテル暮らしを余儀なくされる人生が始まったが、その費用をまかなうに充分の収入を得ていた。


ブランディングの幼な馴染みの思い出に、ルシール・カッシン(Lucille "Billie" Cassin)という女の子がいた。彼女が足を大怪我した時、ブランディングが医者に運んだという逸話がある。そのルシールは、長じてジョアン・クロフォード(Joan Crawford)という芸名で1936年作品の映画素晴らしいハッセイ(The Gorgeous Hussy)』で主演しスターダムに昇った。その時点で二人は再会し、旧交を暖めた。ブランディングの有名度がクロフォードに匹敵したという実証である。


1940年(昭和15年)6月、ブランディングは社交界名門の娘ドロシー・パットマン(Dorothy "Binney" Putnam)と結婚、フロリダ州に新居を構えた。この結婚は1947年に破綻をきたし離婚した。夫妻の間に子供はできなかった。

日本軍のハワイ真珠湾攻撃でアメリカが第二次大戦に参戦した時、ブランディングは楽園が戦争の目標にされたことに心を痛め、各地へ赴き講演をする旅行に出かけた。1942年(昭和17年)4月9日、バタアン半島が日本軍に占領されたニュースを講演中に聞き、その悲痛な心境をバタアンの敗北(Bataan Falls)』と題して16行にまとめた。

時を移さず同月25日、47才だった彼は一兵卒として入隊した。その後11ヵ月、歩兵1208連隊に従軍し、下士官に進級して除隊した。


1957年(昭和32年)6月9日、ドン・ブランディングはロサンゼルスの自宅で心臓マヒで死亡した。享年62才だった。

ある人が彼を評して的確:

   生れながらのアーティスト(Artist by Nature)

   本能で演じた俳優(Actor by Instinct)

   思いがけずに詩人(Poet by Accident)

   選んだ道はヴァガボンド(Vagabond by Choice)

2011年6月16日木曜日

皆で唱おう『みちのく美し』


東北再生願うハーモニーを
河北新報、2011年6月9日

服部公一さんが合唱曲制作 山形市生まれの作曲家服部公一さん(78)=神奈川県鎌倉市=が、東日本大震災の復興を願う混声四部合唱曲『みちのく美(うるわ)』を作った。 (編集註:広辞苑によると「みちのく」とは、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の5ヵ国の古称。すなわち奥州、東北地方を指す。)

 シンプルなメロディーに、津波で被害を受けた岩手、宮城、福島の風景を歌詞に盛り込んだ。「鎮魂」と「東北の再生」を曲に託した服部さんは「みんなで集まり、歌を唱い、前を向くきっかけにできたらいい」と願っている。


 服部さんは、甚大な津波被害を受けた仙台市若林区荒浜に親戚がいる。仙台、山形の住民による合唱イベント「仙山コーラス・ジャンボリー」に取り組んだ縁で、仙台に知人も多い。

 服部さんは、テレビなどで伝えられる、慣れ親しんだ風景の変わりようにがくぜんとした。知人の家族も津波で家を流された。「自分にできることはないか」と考えていたところ、楽譜を手掛けるカワイ出版(東京)から震災復興事業『歌おうNIPPON』プロジェクトの一環としてオリジナル曲の依頼を受け、五線譜に向かった。


 かって三陸の風景を題材にした男声合唱組曲『唐桑の海』を手掛けたこともある服部さん。今回の曲には、失われた風景や大切な人を惜しみつつ、がれきの街で咲くスイセン、力強くそびえる磐梯山や岩手山、蔵王連峰の姿うぃ取り戻そうとする東北の再生をうたった。
混声四部合唱曲だが、無伴奏でも、ソプラノ、アルトの女声二部合唱でも唱える。服部さんは「唱うことを通じ、美しい思い出を取り戻し、前に進む力にしてほしい」と話している。 『みちのく美し』の楽譜はウェブサイト『歌おうNIPPON』プロジェクト<http://editionkawai.jp/utaou>から無料でダウンロードできる。(佐藤素子:原文のまま) ---------------------------------------------------------------------------------------------------
編集から:楽譜(PDF)はこちらにも用意があります。ご希望の方にはメールに添付して無料でお送りいたします。楽譜には下記に表示した歌詩と作曲者の手紙も含まれています。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------
混声四部合唱曲『みちのく美し

      我がふるさとに 生命(いのち)ふたたび
      風かおる国 みちのく

      がれきの街に 匂う水仙

      つらい浜辺に季節はめぐる

      とおい磐梯に みどりを求め

      そびえる岩手山 光る蔵王

      ああみちのくよ とわに美(うるわ)し

      燃え上がる生命のくに

      波に洗われ 崖はくずれた

      去り逝(ゆ)きし友の笑顔

      今も聞こえるあの歌声

      大地はるかに こだまは響く

      ああみちのくよ とわに美し

      燃え上がる生命のくに


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作詞、作曲者からの手紙(河合出版のサイトから)  

私は山形市の生まれ育ちで、近年東北6県での音楽活動、特に合唱コンサートが多い。今度の被災地にも音楽の友人がたくさんいるし、さらに親戚に被害者もある。だからこんどの災害には他人事でなくこころを痛めている。

 義捐金の寄付だけでなく何か私に特にできることはないだろうか、と思案していたところにカワイ出版からこの企画の話、よろこんで直ぐ制作したのがこの作品である。

 この作品は混声合唱で書いてあるが、上段( sop. alt.) だけで女声又は同声2部の演奏ができる。ピアノ伴奏だがコード・ネームによりギターでも伴奏可能、それどころか無伴奏でも大丈夫である。

 音域が狭く作曲してあるから、ソプラノ・パートをソロ(ユニゾン)で歌って下さってもいい。

 この作品が被災地の皆さんの慰め、励まし、希望になることを願っている。
服部公一(きた・ひろし)
(カリカチュアは和田誠)

2011年6月15日水曜日

原子力はもうご免だ!

原子爆弾の被爆を受けた世界で唯一の国、日本。その1945年以来今日まで66年間、日本人は原爆反対を訴え続けてきた。そう思っていた私は認識不足だった。原爆反対の一方で、『原子力の平和利用』という美名の下に、同じ日本人の一部が原子力発電を推進し、いつの間にか日本の電力の30パーセントを原発でまかなっていたのだ。編集:高橋 経

朝日の天声人語
6月14日付けで下記の要旨を伝えていた。

「核エネルギーはどこか原理的なところで人間の手に負えなくなる。それを無理に使 おうとするとウソで固めなければならなくなる」と作家の池澤夏樹は書いている。

上映中の記録映像『原発切抜帖』『いま原子力発電は…』は、共に30年ほど前の作品だが、産官学のゴマカシがよく分かり、今の惨状を予言していた。『原発切抜帖』は、広島の原爆投下から新聞 記事だけで構成している。何が起きたか軍部や学者は知っていたのに第一報で「若干の損害を受けた模様」としている。

時代も事情も異なるが、今回の原発事故の情報開示に通じるものがある。菅内閣は「直ちに影響はない」と欺瞞が におう。『原発切抜帖』を製作した土本典昭監督(故)は当時「恐ろしくなったのは、放射能を浴びた人たちが、20年、30年の後に病み死んでいく、その時差でした」と語っている。放射能の怖さは、長く体内に潜む『時限爆弾』である。

嘘がばれぬようにするには上塗りの嘘が要る。一つの嘘をつき通すには別の嘘 を二十発明しなくてはならないと西洋の古言にある。何がウソで何がホントか、当事者にも分からなくなっているようだ。原発の是非 は、54基が日本に存在する現実からではなく、広島、長崎に落とされた非人間的な原爆の破壊力にまで立ち返って考えたい。未来に何を渡すか。この分かれ道、いささかも侮れない。

村上春樹のスピーチ
6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で、村上春樹は非現実的な夢想家としてと題して受賞スピーチを行った。

その要旨は、歴史的な日本の地質上の宿命から、日本人の天然自然に培われた感傷や人生観を説き、今回の東北大震災の被害現実を説明し、福島の原発の修復に手こずっている現状を訴え、広島、長崎の人的被害から、その後延々と禍根を残す放射能の脅威を説き起こし、いかに原発が効率のよいエネルギーだったとしても日本人はノーを叫び続けるべきだった、と結んでる。(スピーチ全文をご希望の方には無料でPDFファイルをメールに添付してお送りいたします)


原発反対の抗議デモ
ニューヨーク・タイムズ:6月11日掲載、たぶち・ひろこ記者の報告から抜粋

東京発:東京をはじめ各地の主要都市で原発使用に反対する抗議デモが繰り広げられた。東北大震災に続き、福島発電所の原子炉崩壊が未だに修復に手こずっていることに国民の怒りが頂点に達したのだ。彼らの怒りは政府の無政策に対してであり、また放射能の汚染が当初の発表より遥かに有害であった事に対してである。(上の写真は6月11日土曜日、東京で。Franck Robichon/European Pressphoto Agency撮影)


母親たちは彼らの子供たちの健康を心配し、農民や漁民たちは彼らの収穫が大損害を受けたことに生活が危機に曝され、その憤懣が無策政府の首脳、管直人内閣にぶつけられた。
(以下、個々の怒りについて例を上げて記述されていますが、読者の殆どがご存知のことと思いますので省略いたします。)

災害の全貌
ニューヨーク・タイムズ:6月11日掲載。
(各項目が本紙にリンクされています。詳しい内容はクリックするとご覧になれます。)

1. 2カ所の原発炉で損壊した部分


3. 危険な燃料貯蔵タンク:プールから注入された水が放射能燃料の軸に貯まると危険な状態になる。 




5. ビデオ報道のクリップ:(26点)





7. 福島原発を起点とした避難地域の指定:アメリカ大使館と日本政府による推薦距離を示す。

2011年6月9日木曜日

100年前のアメリカ

1911年
10年は『一昔(ひとむかし)』、100年は『一世紀』平均寿命が延びた昨今、100才の老人が生存していることに不思議を感じなくなりました。その100才の老人が「オギャー」と生まれたのが1911年、その時のアメリカはどんな社会だったでしょうか?ある人がそれを調べてまとめました。その結果がジェームス・ロッジ(James A. Lodge)を通じて転送されてきましたのでご紹介いたします。

1911年というと、日本は明治44年、明治から大正への過渡期でした。何方か、100年前の日本の社会をご存知でしたらお報せください。日米を対照してみたいと思います。編集:高橋 経

産業、経済、報酬など
1911年はアメリカ工業界が開花した時期。その代表がフォードのT型モデル(下の写真)で、大量生産態勢の申し子だった。

  • ガソリンは薬局でしか売っていなかった。
  • アメリカ全土で鋪装された道路は全長距離232キロ、、、
  • 走っていた乗用車はたったの8,000台。
  • 速度制限は時速16キロ。
アメリカの平均報酬は時給で22セント。(左の写真は時給22セントで働く工場の労働者。註:時代とともに為替レートが変わり、貨幣価値が変動しているので正確な換算ができません。ご推量にお任せいたします。)
従って、平均年収は200ドルから400ドル、といった所だが、、、

  • 公認会計士の年収は2,000ドル
  • 歯医者はやや高く、2,500ドル
  • 犬猫病院の医師は1,500ドルから4,000ドル
  • 機械エンジニアは5,000ドル

  • 世界最高層のビルといったら、パリのエッフェル塔。

生活、物価、医療、その他
  • 男性の平均寿命が47才。
5大死因の順位
  1. 肺炎とインフルエンザ
  2. 結核
  3. 下痢
  4. 心臓欠陥
  5. 卒中
  • 電話を備えていたのは、全米の8パーセントだけだった。
  • 砂糖は500グラムで40セント
  • 卵は12個で14セント
  • コーヒーは500グラムで15セント
  • 全家庭の14パーセントしか浴槽を備えていなかった。
殆どの女性は、洗髪を月に一度だけ、シャンプーとしてホウシャとか卵の黄身を使っていた。

出産は95パーセントの妊婦が
病院より自宅で処理していた。

医者という職業をもつ人々の90パーセントが専門教育を受けておらず、政府の規制水準より低い非公認の医学塾で講習を受けただけだった。

  • 10人に2人は読み書きができない文盲、全米人中、高校卒は6パーセントしかいなかった。
  • マリュワナ、ヘロイン、モルヒネ、などはどこの薬局でも処方箋なしで買えた。薬剤師はヘロインを「肌の色をきれいにし、心を弾ませ、健康を守るのに完璧な薬」と讃えていた。
  • 全家庭の18パーセントが奉公人や住み込みの女中を雇っていた。

まだ無かったもの:電気洗濯機、電気掃除機、テレビ、ラジオ、缶ビール、アイス茶、『母の日』、『父の日』


政治
  • 当時アメリカは45州(現在は51州) ネヴァダ州、ラス・ヴェガス市の人口30名(右の写真)
  • カナダ政府は低所得者の入国を、何らかの理由をつけて禁じていた。
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まだまだ信じられない往事の社会環境があるが、この程度でも充分に100年前の生活が想像できるであろう。
たった今、私がクリックするだけで、世界中の人々に瞬時にして
この記事を送ることができる2011年のハイテク時代と100年前とを比べてみたら、将に隔世の感に堪えない。

2011年6月8日水曜日

犬は人間のパートナー

犬は人間の最高の友(The Dog Is Man's Best Friend)」という言い習わしがあります。犬を飼っている人々に言わせると、『友達』なんてものではない、『家族』同然だ、と胸を張って抗議するでしょう。犬との良縁に恵まれなかった私は何とも言いようがありませんが、ジョセフ・グレィ(Joseph Grey Jr.)から転送された以下の写真を見る限り、犬と飼い主の関係は『家族』を更に超えて「切っても切れないパートナー」という印象を受けました。説明の必要はないでしょう。ご覧ください。編集:高橋 経











2011年6月2日木曜日

14才は天啓の年

[註:広辞苑によると天啓とは「天の導き』、「天が真理を人間に示すこと。天の啓示」とある。編集]

ディヴィッド・ハジュウ
(David Hajdu)

2011年5月23日付けNYTから抜粋

ボブ・ディラン(Bob Dylan)の誕生日は今年5月23日で70才になった。言うまでもないが、ボブ・ディランは、1960年代の後半に売り出したフォーク・ソングの作詞、作曲、歌手である。ここ数週間というもの、幅広い年齢層に深く浸透した大勢のファンが、彼の輝かしい経歴や数々の名作を再生して誕生日を祝っている。

ところで、最近70才の誕生日を迎えたポップ歌手はボブ・ディランだけに止まらない。 ジョン・レノン(John Lennon:)が生きていたら、昨年の10月に70才になる筈だった。(この末尾に掲げた『Imagine』のビデオをご鑑賞下さい)

ジョアン・バエズ(Joan Baez:)は去る1月に70才の誕生日を迎えた。

ポール・サイモン(Paul Simon:)と、ジョージ・クリントン(George Clinton)は、年末前に70才を迎える。

来年になると、ポール・マッカートニィ(Paul McCartney:下左)、アレサ・フランクリン (Aretha Franklin:下左から2人目)、キャロル・キング(Carole King:下左から3人目)、ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)、ルゥ・リード (Lou Reed)、ジミィ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix:下右端)そしてジェリー・ガルシア (Jerry Garcia)等が続々と70才代になる。

これほど同時代に集中して人気ポップ歌手が台頭したのは偶然だったのだろうか?しかし私が彼らの過去を調べて見ると、この『偶然』には確固たる原因があった。

ボブ・ディラン(当時の本名Robert Zimmerman)がミネソタ州の高校(Hibbing High School)で新入生だった14才の時、エルビス・プレスリー(Elvis Presley:)が吹き込んだ初期のレコード(『ミステリー・トレイン』を含む)を聞いて発奮した。天啓とでも言うべき心情だったのであろう。ディランその時を振り返って「エルビスの声を初めて聞いた時、直感的に牢獄から解放されたような感じで、俺は自分の天性を生かし、他人の下では働くまいと決心した」と語っている。

大きなバンドの演奏者だった父を持ったポール・マッカートニー「プレスリーの『ハートブレィク・ホテル(Heartbreak Hotel)』を初めて聞いた時、これだ、と霊感に打たれた」と語っている。1956年、マッカートニーがそれまで使っていたトランペットを捨て、ギターに切り替えた。14才の時だった。


時代は一世紀昔、1911年に遡る。黒人の音楽が流行し始めていた。その真っただ中で白人のアーヴィング・バーリン(Irving Berlin:上左)作曲の『アレキサンダー・ラグタイム・バンド(Alexander’s Ragtime Band)』が売れに売れ、シート楽譜だけでも100万枚も売れた。その曲を聞いて天啓を受け、未来の作曲家/音楽家になったのが、シドニィ・ベシェット(Sidney Bechet)、ジミィ・ロジャース(Jimmie Rodgers)、フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson:上右)である。いずれも当時14才だった。

今から82年前の1929年、音響技術が開発されマイクロフォンの性能が向上し、ラジオ放送などで囁くような音楽が可能になった頃、歌手のルディ・ヴァレィ(Rudy Vallee:上左)がその効果を最大に利用していた。そうしたムードの『囁き音楽』を聞いて育ったのがビリー・ホリデー(Billie Holiday:上中)であり、フランク・シナトラ(Frank Sinatra:上右)であり、いずれも14才だった。

新進タレントを発掘紹介することで人気があったテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー(The Ed Sullivan Show)』ビートルズ(the Beatles)が出場したのが1964年。この世界中を席巻した新しいスーパースターの音楽を聞いていた14才の少年たちの中に、ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen:上左)、スティヴィ・ワンダー(Stevie Wonder:上中)、ジーン・シモンズ(Gene Simmons)、ビリー・ジョェル(Billy Joel:上右)等が混じっていた。

一体、14才という年令にどんな意味が潜んでいるのだろうか?

もし、ボブ・ディランがもう4、5年早く生まれていたら、、、と想像する。プレスリー以前の人気歌手、テレサ・ブリューワ(Teresa Brewer)とか、ヴィック・ダモーン(Vic Damone)の甘ったるい恋歌を聞いていて魅了されただろうか。或は、マーロン・ブランド(Marlon Brando)が演じた反社会的な『乱暴者(The Wild One)』に刺激されて映画俳優を志していたかも知れない。


14才という年令は、少年から青年になる過渡期で、性に目覚め、どんな成人になろうかと自問自答し無意識の内に暗中模索し始める年令である。


「14才とは神秘的な年令で、自分が好む音楽を選び消化する年令です。思春期ホルモンの成熟過程で体験することは、音楽を含む全てが非常に重要な成長要素になります。自己の趣味興味が確立された時、認識能力の成長が頂点に達します。音楽の場合にはそれが自分の自己顕示になります」と、マクギル大学(McGill University)で『音楽の享受、認識と評価(Music Perception, Cognition and Expertise)』調査研究部の主任を務めるダニエル・レヴィティン(Daniel J. Levitin)心理学教授は断言する。


たった今2011年の時点で14才の男女青年が何かの天啓を受け、その道で名を上げ、70才になる2067年には、どんな天才の有名人を祝福することになるのだろうか?考えただけでも夢が広がる。

最後に、今は亡きジョン・レノンを偲びイマージン(Imagine)』をご鑑賞あれ。



[筆者、ディヴィッド・ハジュウ(David Hajdu)はコロンビア大学のジャーナリズム科教授で著書に『Positively Fourth Street: The Lives and Times of Joan Baez, Bob Dylan, Mimi Baez Fariña and Richard Fariña』がある。]