2011年5月5日木曜日

ビン・ラデン:聖戦の軌跡

はじめに:去る5月1日、2001年にアメリカを震駭させたナイン・イレブン(同時多発テロ)の首謀者、オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真)が、アメリカ海軍の特殊軍団によって殺害された。いわば10年近く『世界で最も危険なお尋ね者』として探し求めていた『仇敵』を討ち取ったのだから、当然のように大勢のアメリカ人が喝采し、歓喜に浸っていた。

中でもあの時のテロで近親を失った家族たちが、マンハッタンの南端にかつて聳えていて破壊されたワールド・トレード・センター(The World Trade Center)ツイン・タワー跡のグラウンド・ゼロに集まり、涙して感慨にふけっていた。


感極まった遺族の一部は『仇敵』ビン・ラデンの屍体写真の公開を迫ったが、オバマ大統領は「写真は生々しい画像なので、残存するアル・カエダ(Al Qaeda)を刺激し挑発する恐れがあるし、また我々は、敵の首を優勝杯のように掲げて得意がる気持ちは毛頭ない」と公開を拒否した。これは賢明にして思慮深い判断である。

多言は避けるが、これで前大統領ジョージ・ブッシュが展開した『テロ退治作戦』が終わりを告げたわけではない。『テロの脅威』は依然として存在しているのである。


上に掲げたニューヨーク・タイムズ紙の『ビン・ラデン殺害』に対する一般の反応調査によると、必ずしも全アメリカ人が『仇討ち成功』の喜びに酔い痴れているわけではない。楽観的(右寄り)、悲観的(左寄り)、有意義(上寄り)、無意義(下寄り)、総計13,864点に上る様々な反応の声が紹介されている。もしご興味があったら、このチャートをクリックして本紙につなぎ、小さな四角の一つ一つの背後にある声を読んでみるのも一興であろう。

『聖戦』という言葉は第二次世界大戦中、日本帝国の陸軍が、戦争の正当化すると同時に国民の士気を高揚するために生まれた表現だ。英語に直訳すればHoly War、ビン・ラデンはイスラムの表現『ジハド(Jihad)』と唱えた。いずれにせよ、戦争は『悪の根源』であって、如何に神仏を担ぎ出しても正当化することはできない。それは、戦争を体験した年代の日本人なら誰でも思い知らされた痛恨事であるはずだ。

これはあくまでも私見だが、ビン・ラデンの足跡を辿ってみると、人の『運命』というものが偶然の出逢いから強烈な影響が与えられ、本人の意志と関わりを持ちつつ、或いは全く関わりなく上昇したり、下落したり、思いがけない方向に進んでしまうようだ。ビン・ラデンが『テロ』を志したのは自ら選んだ道だったのは疑いのない事実だが、彼の特異な容貌、人々を魅了するカリスマ的な説得力を知るにつけ、彼は、どんな道を選んだとしても、指導的な立場につく『運命』にあった人物のように思える。

言い換えると、オサマ・ビン・ラデンは、キリストの如く、釈迦の如く、モハメッドの如く、人々の魂を救い、尊敬されるような大人物になる可能性を秘めた他の運命への道があったような気がしてならない。----- 編集:高橋 経

オサマ・ビン・ラデンの足跡
5月2日付け、NYT紙より

1957年:オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真、1998年)は、サウジ・アラビア、ルヤダ(Ruyadh)で誕生。父親ムハマッド・ビン・アワド(Muhammad bin Awad bin Laden)が作った50人の子供たちの内、17番目の息子。

1967年:オサマが11才か12才だった時、富裕な投資家にしてビジネスマンである父親ムハマッドが、サン・アントニオ近くで飛行機事故で死亡。それで巨額の遺産の一部を相続。以来、王室に接近し、王子たちと親交を持ち、15才までに馬数頭を所有。

1975年:サウジ・アラビア、ジッダ(Jidda)にあるキング・アブデル・アジズ大学(King Abdel Aziz University)に入学、将来家族の業務に参加するつもりで土木技術学を専攻。在学中、二人のイズラム学者、ムハマッド・クッタブ(Muhammad Quttub)アブダラァ・アッザム(Abdullah Azzam 右の写真)の影響を強く受け、アル・カエダ(Al Qaeda)を支持する思想に傾いていった。その基本思想は「イスラム教徒は聖戦を遂行する義務がある」ということで「聖戦と銃だけが優先し、講和も談合も協調も必要ない」と結論付けた。

1979年:大学を卒業。その年、ソ連がアフガニスタンを侵略。それに憤慨したビン・ラデンは醵金し、アフガンの戦士たちを経済的に支援した。 (左の写真はアフガニスタン、ジャララバドJalalabadにおけるビン・ラデン 、1988年)

1984年:ビン・ラデンは学者アッザムに協力し、アフガニスタンへ赴く聖戦斗士(holy warriors又はjihadists)が泊れるよう、ペシャワァ(Peshawar)に宿舎を建てた。サウジ・アラビアで集めた献金で準備オフィス(the Office of Services)を建設し、世界中から若い『聖戦斗士』達を集めた。

1986年:ビン・ラデンは、彼直属の訓練キャンプを設置し、別個のテントに50人の過激派ペルシャ湾アラビア人を収容した。彼はそのテントをアル・マッサダ(Al Masadah)と名付けた。ビン・ラデンは彼らを補助するために月々2万5千ドル支出していた。(右の写真は1988年頃)

1989年:アフガニスタンを侵略したソ連が後退したのを転機とし、ビン・ラデンは反抗戦士たちを経済的に援助し、武器や住居を提供し、ソ連の撤退をイスラム側の勝利であるとし、イスラムの政治的な勢力を増大させ『不徳な』政府を『聖戦』の力で追放する作戦を打ち立てた。

1990年8月:イラクがクエィトを侵略。ビン・ラデンは積極的にサウジ諸国にアフガニスタンで戦った兵力や武器を転用供給し、王国を守るよう働きかけた。彼としては敵だと思っていたアメリカ合衆国が、サウジ諸国を援助していることが意外で、しかし不遜と感じていた。

1991年:ビン・ラデンはテロリスト達の隠れ蓑であったスーダンに逃避し、そこで軍資金を作るため、利益を上げるビジネスを始めた。また1992年には、パキスタンから500人のアフガン戦士を呼び寄せ、準備兵力とした。

1992年12月29日:イエメン、アデン(Aden)のホテルに爆弾が炸裂した。そのホテルには、ソマリアへ進攻するアメリカ軍が逗留しているはずだったが、既に出発した後で、その代わりに
オーストリアの旅客が2人死亡した。この事件はビン・ラデンの仕業だと信じられている。

1993年2月26日:ニューヨーク、ワールド・トレード・センター北館へ、トラックで運んだ爆薬を炸裂させ、6名を殺し多数に重軽傷を負わせた。
(左の写真)この事件をビン・ラデンが計画したという証拠はないが、経済的な援助をしたと信じられている。

1994年4月10日:サウジ・アラビア政府は「ビン・ラデンの無責任な行動が当政府の外交上、友好国との間に摩擦を起こす危険があるにも拘らず、彼は当局の指令を無視した」という理由で市民権を剥奪。 (右:先頭がサウジ・アラビア国王ファド Fahdと、背後にビン・ラデンの兄弟二人YahyaとBakrが見える )

1996年~2001年:ビン・ラデンはアフガニスタンを後に支配するようになったタリバン(the Taliban)を経済的に援助していた。続いて、国際的な人種混合のテロリスト配属集団アル・カエダ(Al Qaeda)の一派として、彼個人の組織作りに時間をかけていた。 (左は、タリバン支持者たちのラリー)

1966年6月5日:スーダン政府は、テロリストが国内に安住していることを外交上容認していたが、同国の首都カートウム(Khartoum)に1991年以来居住していたビン・ラデンを国外に追放すべく、国連安全保証審議会(the United National Security Council)に要請した。

1996年6月25日:サウジ、ダーラン市(Dhahran)で、爆薬を満載したトラックを、アメリカ空軍の将兵が宿泊していたアパート群で炸裂させ、最低23人を死亡させ、300人以上に重軽傷を負わせた。(右の写真)表面的にビン・ラデンは関与していなかったが、公にその成功を祝福していた。

1996年7月11日:アフガニスタンでイギリスの日刊紙ザ・インディペンデント(Independent)のインタビューで、空爆でリアダァとダァラン(Riyadh and Dhahran)の26人が死亡した事件に関し、ビン・ラデンは「彼ら(犠牲者)の大敵アメリカを討つ、、、」と発言した。

1996年8月:ビン・ラデンは、アフガニスタンのタリバン本拠地トラ・ボラ(Tora Bora)から「二つの聖なる寺院を占領しているアメリカ軍に対して宣戦」を布告した。それに当って、強大なアメリカの武力と、イスラムの劣った武力の差を補うために新しい作戦を編み出した。「すなわちゲリラ作戦を推進し、軍備ではなく、この国の若者たちの斗志を増強することにある」と書き記した。

1988年から2001年まで:CIA(ジョージ・テネットGeorge J. Tenet長官)はビン・ラデンを捜索。目標はアフガニスタンの捜索隊の協力を得て、彼を捕縛あるいは誘導ミサイルで殺害する
ことにあった。

1998年8月7日:ケニアとタンザニアに設置されていたアメリカ大使館がそれぞれ、数分の差で大爆破され、224人殺された。この爆弾攻撃がビン・ラデンの作戦だったという明白な証拠はないが、西欧の関係者たちは彼の関与を確信している。 (左の写真)

1998年8月16日:連邦政府の検察官たちは、ナイロビィ、ケニア、タンザニアのアメリカ大使館の爆破にビン・ラデンの関与があったという情報を入手したと発表。 (右の写真:200人以上が犠牲になった)

1998年11月4日:マンハッタンの連邦大陪審はビン・ラデンに対し、アフリカの2カ所のアメリカ大使館爆破事件と海外のアメリカ国民に対して犯したテロ行為など、238件の罪状で起訴する意図を固めた。当時のビル・クリントン大統領は、ビン・ラデンを最悪の民衆の敵(Public Enemy No. 1)』と指摘した。(左:アフガニスタンで追従者たちと移動するビン・ラデン)

1999年1月:アメリカ政府はビン・ラデンおよび国際テロリスト集団アル・カエダに対し、アメリカ国民殺害の犯罪行為に対する起訴を更新し公布した。

2000年10月12日:アル・カエダが、イエメンの港で給油のため停泊していたアメリカ海軍の駆逐艦コール(the US destroyer Cole)に攻撃を加え船腹を破壊し、17名の水兵を殺し、39名に重軽傷を負わせた。(右の写真)

2001年9月11日:史上最悪の同時多発テロがアメリカを攻撃した。乗っ取られた4機の旅客機の内2機が、ニューヨークのワールド・トレード・センターの両ビルを壊滅し、3機目はヴァージニ
ア州の国防省(the Pentagon)ビルを大破し、ホワイトハウスを目標にしていたと思われる4機目だけは、乗客の必死の抵抗と犠牲により、ペンシルヴェニアの田園に墜落した。その筋では、ビン・ラデンがこのテロの仕掛人であると断定した。 (左の写真)

2001年9月18日:時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(George W. Bush)は国防省で、9月11日のテロの首謀者ビン・ラデンを有力容疑者として追求し裁判にかけると宣言。さらに、他のテロリストも徹底的に追求し壊滅すると付け加えた。 (右の写真)

2001年10月7日:ビン・ラデンはイスラムのテレビ、アル・ジャジィラ(Al Jazeera)局を通じ「今やアメリカは万能の神から鉄槌を下され、重要な機能を破壊された。その神に心から感謝を捧げる。今回アメリカが味わっている苦渋は、我々が味わっている苦渋のほんの一部にしか過ぎない」と発言。 (左の写真:スーパーは、録音の悪い部分を補助している)

2001年11月3日:アラブやイスラムの多数意見を代表し、ビン・ラデンはビデオを通じ「アメリカ軍のアフガニスタン作戦は、全イスラム民族を敵にしていることに他ならない。アフガニスタン人民はこうした殺戮を受けるいわれはない」と発言。

2001年12月14日:アメリカ軍の援助を受けているアフガンの軍隊は、トラ・ボラ(Tora Bora)地帯の洞穴や峡谷に潜むビン・ラデンの過激派勢力に包囲されていると信じていた。国防省はその地帯がビン・ラデンの根拠地であると想定し、攻撃を加えることに決定。(右の写真:空しい破壊と捜索)

2001年12月31日:ビン・ラデンを目標とし、アメリカ軍の援護の下に捜索隊や戦士らがトラ・ボラ地帯の洞窟をくまなく捜索し攻撃を加えたが得る事無く、冬が迫ってきたので作戦を中断。ビン・ラデンは既に逃亡した後だったようだ。

2006年9月11日:5年間の沈黙の後、ビン・ラデンの最高顧問、アイマン・アルザワァ(Ayman al-Zawahr)は、『ナイン・イレブン』テロの5周年記念に当り、イスラム圏内の共鳴者に、武器を取ってアメリカを攻撃しようと呼びかけ、アル・カエダによる中東での反撃を予告した。(左の写真の右がアルザワァ)

2010年1月25日:ビン・ラデンはテレビを通じ、
前年のクリスマス12月25日に失敗した旅客機爆破の事件には触れず「パレスチナの事情が安定しない限り、アメリカ人は心安らかに眠ることはできまい。アメリカがイスラエルを援助する限り、神の思し召しにより、我々はアメリカを攻撃し続けるであろう」と予告した。

2010年3月26日:ビン・ラデンはテレビを通じ『ナイン・イレブン』テロの首謀者カーリド・シャイカ・モハメッド(Khalid Shaikh Mohammed)を処刑したら、その代わりにアル・カエダが拘留しているアメリカ人を殺してやる、と脅迫してきた。(右の写真)

2011年5月1日:『ナイン・イレブン』以来、10年近くの才月を経たこの日、ビン・ラデン追跡の努力が報われ、アメリカ海軍の特殊攻撃隊がパキスタン、アボッタバド(Abbottabad)の高級住宅地に潜んでいたオサマ・ビン・ラデンを急襲し射殺した。特設テレビでその状況の一部始終を閣僚と共に見守っていたオバマ大統領は、ビン・ラデンの死を確認した後、記者会見で『重要な任務を達成』したと発表し、更に「彼の死で我々の努力が終了したわけではない」と強調した。(左の写真)

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