2011年5月30日月曜日

カーボーイとサムライ

高橋 珂那(たかはし かな)
のブログProject Hot Air Balloonから抜粋転載
Monday, May 2, 2011

馬を手馴づけ、鞍を載せ、巧みに乗りこなす調教師の、元祖ホース・ウイスパラー(the horse whisperer:『馬に囁く人』とは馬と意志の疎通ができる人)バック・ブラナマン(Buck Brannaman)が、人々に馬についての全てを教える人生を描いたこの比喩的な物語は、今日の社会に最適な話題だと思う。


そのドキュメンタリー映画バック(Buck)』サンダンス国際映画祭(Sandance Film International Film Festival: SFIFF)観客賞(The Sundance Audience Award Winner)を獲得した。その選択には、私も諸手を挙げて賛成する。奇妙なことに、この映画は映画祭が予定していた選択作品には含まれていなかった。それが会期の最後の瞬間に飛び入りしたのだ。だから観客はスクリーニングへ入場した時点では、上映されるまで何を見せられるのか知らなかった。


ユタ州ソートレーク市の郊外、パーク・シティ(Park city)で開催されたサンダンス国際映画祭は、期間11日、世界から寄せられ選ばれたた数多くの出品作品が、朝から晩までマラソン上映される。その全てを観るのは不可能ではないが不条理なので、私は私なりのペースで鑑賞することにしている。それにしても、自分が住む街で映画館へでかける場合と違い、一本平均1時間半の映画を観るのに行列に並んだり、上映後の製作者たちとの質疑応答に残ったり、次のスクリーニングまで歩き回るなど、何やかと4時間はかかる。


また良い映画を観た後は、別の映画は観ないで後味をかみしめるのが楽しい。逆に、顔に唾をかけられたような胸くその悪い映画を観た後は、口直しに2本目を観る。たまに3本目に挑戦することもあるが、まあ一日平均2本が私のペースだ。「食べ放題」のレストランのつもりでやたらに映画を観ると、うんざりして不快になるのオチだ。

今日は、私にとってラッキーだった。先ず『バック』はカタログに載っていなかったので観ないつもりだった。でも連れの友達メグの熱心さに引きずられ、それに妙に「何が出るかお楽しみ」に惹かれて行列に並んだ。『バック』の内容は前記の通りで、思いがけない拾い物だった。

それが終わって息をつく暇もなく、二本目の日本映画十三人の刺客(13 Assassins)』に駆け込んだ。

筋書きから見ると『十三人の刺客』は、どちらかというとクラシックな日本の時代劇の典型であるが、随所に近代的な映画手法を駆使している。従って、私のように『チャンバラ映画』好きだったら、充分に活劇の興奮を堪能できる傑作だ。


こうした切ったり張ったりの荒っぽい活劇が、『バック』のように孤独なカーボーイを地味に描いた映画をかみしめて観た後でも、全く違和感を感じさせないで、私の胸の中で協調しているのは奇妙だったが、偽りのない実感だ。

更に奇妙なのは、あの激しい『チャンバラ映画』の後、半日以上も経っているのに、カーボーイ、バックの人生への私の思いが未だに抜け切っていなかったことだ。私はバックの物語りにある種の感動を受けた。あえて私は、今年のサンダンス国際映画祭で『バック』が最も感動を与えた。といっても過言ではないと思う。

誰だって同時に二つの人生は歩めないとバックは言う。彼は過去にこだわらず、彼の目的に向かって人生を歩んでいる。それがバックの『賢明さ』であることを私は認識させられた。そうして、バックは私を画面の中へ引きずり込んでいったのだ。これが疑いもなく映画の醍醐味であろう。

『十三人の刺客』を観て劇場を出た時、大勢の観客たちが非道な主君の暗殺に成功した刺客たちの首尾に歓声を上げているのを見た。

そしてその夕刻、サンフランシスコへの帰り道、私はアメリカの特殊攻撃隊がオサマ・ビン・ラデンの暗殺に成功したニュースを聞き、アメリカ各地で、その成功に歓声をあげている群衆をテレビで見た。


二つの『暗殺』という偶然に、私は自分の耳目を疑いながらオバマ大統領の報告を三度も聞いていた。

事実は小説より奇なり、なのか?事実とフィクションは並行しているのか、いずれにしても双方、貨幣の両面のようだ。だが私は、異常な物語を劇場で鑑賞する時でも、異常なニュースをテレビを通じて知ることでも、落ち着いて考察することにする。いずれも台本が書かれ、校正され、編集されて、製作者の意図が伝えられることには変わりはないからだ。

しかし、現実の世界では私はむしろ、立ち騒ぐ群衆を制したり嘲ったりして「落ち着いて坐っていろ」と言う側に立ちたい。

2011年5月24日火曜日

腹の虫で自閉症が治った!

志知 均 (しち ひとし)
2011年5月

昨年4月に自閉症(Autism)に関する小文をこのブログへ寄稿した。アメリカでも日本でも自閉症と診断される子供の数は増加し、ますます社会問題になってきている。最近、アメリカと韓国の自閉症研究者が協同して韓国の5,526人の児童対象に6年間かけて調べた結果が発表された(Time誌 5/23)。それによると、自閉症発症率は2.64%(ほぼ100人に3人)で、従来いわれた発症率(110人に1人)よりはるかに高い。

東洋人の子供は欧米人の子供に比べておとなしく、受動的で、強く自己主張しないなどの特徴がある。それを研究者は自閉症の徴候と診断に加えたのかもしれないが、それを割引きしても東洋人の発症率は高い。

自閉症はMMRワクチン『はしか(Measles)、オタフク風邪(Mumps)、風疹(Rubella)』接種が原因だと主張したアンドリュー・ウェークフィールド(Andrew Wakefield)の説は否定されたが、免疫の関与が完全にないとはいえない。昨年の小文でも述べたが、食物(小麦、牛乳、トウモロコシ、砂糖、柑橘類など)に対するアレルギーが自閉症の発症と関係があるとの報告がある。しかしあまり注目されていない。(右の写真:自閉症の兆候の一つに、オモチャなどの『もの』を直線的に積み重ねたり、並べたがる傾向がみられる。)

ところが、最近、腸内寄生虫による免疫抑制作用により、自閉症が完治したという驚くべきケースが報告された。自閉症(Autism spectrum disorders)にはいろいろなタイプがあるので、免疫抑制ですべてのタイプが治る保障はないが、自閉症治療の従来の常識では考えられない治療法なので以下に紹介しよう(主な部分はThe Scientist 7月号に載ったBob Grantの記事による)


ニューヨークの投資会社ではたらくスチュワート・ジョンソン(Stewart Johnson)の息子のローレンス(Lawrence)は2歳半の時に自閉症と診断された。その後10年間、ローレンスの病状は年とともに悪くなるばかりで、あらゆるタイプの治療薬(発作防止薬、セロトニン再回収阻害剤、抗精神病剤、リチウムなど)はもちろん、食事療法、音楽療法など効果があるといわれる治療はすべて試みたが、一時的によくなる程度で無効であった。主治医に相談してもよい治療法はなかった。( 左の写真:前掲の写真の子供と同様に、オモチャを直線的に並べる性癖がみられる。)

万策つきたスチュワートは、ウェブサイト(PubMedやMedLine)で何か治療に役立つ情報がないかと必死になって探した。その結果、自閉症の治療とは直接関係のないある研究に注目した。


それは、ブタの腸内寄生虫(Helminth)を使って免疫抑制を惹起し、自己免疫病であるクローン氏病(Crohn’s disease)潰瘍性大腸炎を治療した報告と、自閉症患者の脳のグリア細胞(Glia cell)が免疫細胞で損傷されているという知見であった。

スチュワートはこれらを結びつけて腸内寄生虫による免疫抑制作用で自閉症が治療できないかと考えた。あまりにも突飛なアイデイアなので、主治医は最初は取り合わなかったが、この寄生虫はからだに有害ではないし、効果がなくて元々、とスチュワートに説得されて、FDA(連邦政府食品医薬品局)の許可を取り、ドイツの会社からこの寄生虫(ラテン語名はTrichuris suis)の卵を輸入した。(右および左下の写真は、同種の寄生虫)

ローレンスに2,500個の卵を2週間毎に飲ませたところ、8週間で自閉症の症状が改善しはじめ、10週間後には、症状は完全に消滅した!現在20才になるローレンスはこの寄生虫の卵を飲み続けているおかげで、正常な若者として生活しいる。このエピソードについて更に詳しいことを知りたい方は、ウエブサイトautismtso.comや昨年出版された自閉症の教科書』(Textbook of Autism Spectrum, E. Hollander, A. Kolevzon, J.T. Coyle, eds, Arlington, VA:American Psychiatric Publishing, 2010)を参照されたい。

寄生虫がどうやって自閉症を治すのかの疑問に答えるには免疫系についての知識が少し必要だ。簡単に説明すれば、免疫系は外部からの異物(微生物、ビールス、花粉など)や身体の損傷で生ずる刺激に応じて活性が高まる免疫細胞それを抑える免疫細胞、それに細胞同士で情報交換する因子(サイトカインなど)で成り立っている。活性の高まり()とそれの抑制()のバランスがうまく保たれていれば健康状態である。

ところがの働きが強くなりすぎると身体を守ってくれる筈の免疫系がかえって害するようになり病気になる。自己免疫病のクローン氏病では免疫の陽作用が強くなり腸壁を破壊する。腸内で孵化した寄生虫はの働きをする免疫抑制細胞(T regulatory cellと呼ばれる)の増殖を促しクローン氏病を防ぐ。腸内孵化した寄生虫による自閉症の治療効果も同じようなメカニズムによると考えられるが、腸内で増えたの免疫細胞 がどのようにして脳におけるの免疫作用を抑えるのか、まだ十分わかっていない。

発展途上国(例、インド)からの移民が先進国(例、イギリス)で定住するとクローン氏病などの自己免疫病にかかりやすくなるといわれる。また第二次大戦前後で比較すると、アメリカの『田舎』の子供たちの大腸炎が増えてきている。これらは衛生環境がよくなったために、腸内寄生虫がいなくなったのが原因と考えられる。不潔な生活環境がよいというわけではないが、寄生虫(寄生菌や寄生ビールスも含めて)とうまく共生するのが健康によいことは再考に値する。(左図は、自閉症喚起援護運動のリボン)

寄生虫にせよ、癇癪の虫にせよ不愉快なことがあって腹の虫がおさまらない時、うまく共生しないと健康に悪いからご注意を。

2011年5月19日木曜日

コーヒー好きのモナ・リザ?


モナ・リザ(Mona Lisa)と言えばどなたもご存知、ルネッサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作である。謎を秘めた『モナ・リザの微笑』、、、あの微笑の秘密は?

ある高名な画家が「あの微笑は謎でも神秘でもないよ。真相は些細な一瞬だったのだ。ダ・ヴィンチのアトリエでモナ・リザがポーズをとっていた時、魚屋がご用聞きに来てドアを開け、彼女と目が合っのでウインクした。ポーズの最中のこと、彼のウインクに応えるわけにいかず、中途半端な笑いを浮かべてしまった、というわけだよ」
シタリ顔で解説した。

その画家の言うエピソードの真偽はともかく、『モナ・リザ』の肖像は何百年もの間、万人に愛され、高く評価され続けてきた。その複製が何百枚、何千枚、あるいは限りなく作られ、頒布されたことだが、中には変った手法でその『微笑』を再現する試みも行われている。


今回の作例は、オーストラリア、シドニーのある画家(たち?)による作品である。その思いもよらぬ『手法』を、4段階に別け、最後の段階で種明かしをする。


ゆっくり落ち着いて鑑賞していただきい。




お判りですか?この肖像は3,604杯のコーヒー・カップで構成されている。濃茶色から薄茶色までの微妙な濃淡の違いは、ミルクとコーヒー混合の比率で調合された。綿密な計算と、恐るべき根気の成果である。

この情報は画家のジョー・グレィ(Joseph Grey Jr.)から頂いた。

2011年5月13日金曜日

されど、女の子は強し

可愛い子ちゃんの、でっかいガン!
今夏シーズンの映画情報
映画評論家:A. O.スコット(A. O. Scott)、マノーラ・ダーギス(Manohla Dargis)報告
2011年4月27日付け、NYTより抜粋

いつもながら、今年の夏シーズンを目指し、若い観客を動員すべく、息もつかせぬアクションに満ち満ちたヒーロー達の映画が勢揃いする予定だ。それらはお馴染みのトール(Thor:北欧神話で活躍する戦いの神)』、『グリーン・ランタァン(the Green Lantern)』、『キャプテン・アメリカ(Captain America)』、『野蛮人コーナン(Conan the Barbarian)』、などが混じっている。いずれも筋骨隆々とした男性たちの熱演だが、最近では女性のアクション・ヒロイン達の進出も見逃せない。

こうしたアクション女優の進出は、彼女らの社会的な権限が強化されたとか、拡張された象徴として見るべきなのだろうか。それとも女性解放とか女性崇拝の思想の現れなのだろうか?


この傾向について、二人の映画評論家の観察に耳を傾けてみよう。


マノーラ・ダーギス:女性が敵役の男性を失墜させるのに、陰険で手間のかかる策謀を使ってスキャンダルの罠に陥れるより、手っ取り早く銃を使う暴力を選ぶようになった。既に公開されたハンナ(Hanna)』、『不意討ち(Sucker Punch)』、『スーパー(Super)』、『私を入れて(Let Me In)』、『尻を蹴飛ばせ(Kick-Ass)』などを見れば一目瞭然だ。個人的には、一部のシーンは効果的で好きだが、全般的に強烈な暴力シーンには夢中になれない。(以下省略)

A. O. スコット:こうした女性が活躍するアクション映画で見る限り、主役の怒りが画面に溢れている。題材は、男性の暴力に耐え兼ねた女性が逆襲の挙に出る、といった筋が多い。スティグ・ラーソン(Stieg Larsson:右の写真彼の作品については、昨夏、志知均さんが随筆でご紹介下さった。当のラーソンは、映画化された自身の作品を見ることなく亡くなった。)『ミレニアム:3部作(Millennium Trilogy)』の主人公サランダー(Salander)を例にとると、女性達が横暴な官僚の圧政に反抗するという社会構造の図式が主題となっている。

私が思うに、こうした映画製作の背景に非現実的な空想があり、同時に近代社会への不信感は拭われない。言い換えると、混乱、空想、パニック、現実否定などなどが不安定に入り交じった不信感である。

現実否定とは、若い女性本来の女性らしさとその脆さを否定しようとする試みのことだ。ハンナに登場する十代の娘は社会から隔離された北極で父親に育てられ、生まれて初めてのキスを体験し、愛人を疑うこともなく立て続けに複雑な自己防衛の技術(空手、柔道など)を体得し、、、。それに続く筋書きは入り組んでいるので説明を省くが、愛人に裏切られたハンナが心身共に傷つくことなく立ち直れたのは、彼女が体得した技術の副産物だったのか、それともCIA(Central Intelligence Agency)経験がある父親の血を引いていたからなのだろうか?

(以下数々の映画を例に挙げているが省略し、数編を一こま毎にご紹介)

尻を蹴飛ばせ(Kick-Ass:2010年)』で殺し屋を演ずるクロー・グレィス・モレッツ(Chloë Grace Moretz)

スティーグ・ラーソン(Stieg Larsson)作、『ミレニアム3部作(2009年)』の3部で主役リスベス・サランダー(Lisbeth Salander)を演ずるヌーミ・ラペィス(Noomi Rapace)の無表情な表現

同上、第3部ドラゴンの入れ墨がある女(the Girl with the Dragon Tatoo: 2009年)』ヌーミ・ラペィス(Noomi Rapace)
ビルを殺せ:1部(Kill Bill Volume 1: 2003年)』でユウバリ・ゴゴ(Gogo Yubari)を演じるクリヤマ・チアキ

ハンナ(Hanna: 2010年)』でハンナを演じるサオアス・ローナン(Saoirse Ronan)

ザ・プロフェショナル(The Professional: 1994年)』で、父親役のジーン・リノ(Jean Reno)からガンの手ほどきを受ける娘役のナタリィ・ポートマン(Natalie Portman) 

不意討ち(Sucker Punch:2011年)』アビー・コーニッシュ(Abbie Cornish)

スーパー(Super:2010年)』エレン・ページ(Ellen Page)

2011年5月5日木曜日

ビン・ラデン:聖戦の軌跡

はじめに:去る5月1日、2001年にアメリカを震駭させたナイン・イレブン(同時多発テロ)の首謀者、オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真)が、アメリカ海軍の特殊軍団によって殺害された。いわば10年近く『世界で最も危険なお尋ね者』として探し求めていた『仇敵』を討ち取ったのだから、当然のように大勢のアメリカ人が喝采し、歓喜に浸っていた。

中でもあの時のテロで近親を失った家族たちが、マンハッタンの南端にかつて聳えていて破壊されたワールド・トレード・センター(The World Trade Center)ツイン・タワー跡のグラウンド・ゼロに集まり、涙して感慨にふけっていた。


感極まった遺族の一部は『仇敵』ビン・ラデンの屍体写真の公開を迫ったが、オバマ大統領は「写真は生々しい画像なので、残存するアル・カエダ(Al Qaeda)を刺激し挑発する恐れがあるし、また我々は、敵の首を優勝杯のように掲げて得意がる気持ちは毛頭ない」と公開を拒否した。これは賢明にして思慮深い判断である。

多言は避けるが、これで前大統領ジョージ・ブッシュが展開した『テロ退治作戦』が終わりを告げたわけではない。『テロの脅威』は依然として存在しているのである。


上に掲げたニューヨーク・タイムズ紙の『ビン・ラデン殺害』に対する一般の反応調査によると、必ずしも全アメリカ人が『仇討ち成功』の喜びに酔い痴れているわけではない。楽観的(右寄り)、悲観的(左寄り)、有意義(上寄り)、無意義(下寄り)、総計13,864点に上る様々な反応の声が紹介されている。もしご興味があったら、このチャートをクリックして本紙につなぎ、小さな四角の一つ一つの背後にある声を読んでみるのも一興であろう。

『聖戦』という言葉は第二次世界大戦中、日本帝国の陸軍が、戦争の正当化すると同時に国民の士気を高揚するために生まれた表現だ。英語に直訳すればHoly War、ビン・ラデンはイスラムの表現『ジハド(Jihad)』と唱えた。いずれにせよ、戦争は『悪の根源』であって、如何に神仏を担ぎ出しても正当化することはできない。それは、戦争を体験した年代の日本人なら誰でも思い知らされた痛恨事であるはずだ。

これはあくまでも私見だが、ビン・ラデンの足跡を辿ってみると、人の『運命』というものが偶然の出逢いから強烈な影響が与えられ、本人の意志と関わりを持ちつつ、或いは全く関わりなく上昇したり、下落したり、思いがけない方向に進んでしまうようだ。ビン・ラデンが『テロ』を志したのは自ら選んだ道だったのは疑いのない事実だが、彼の特異な容貌、人々を魅了するカリスマ的な説得力を知るにつけ、彼は、どんな道を選んだとしても、指導的な立場につく『運命』にあった人物のように思える。

言い換えると、オサマ・ビン・ラデンは、キリストの如く、釈迦の如く、モハメッドの如く、人々の魂を救い、尊敬されるような大人物になる可能性を秘めた他の運命への道があったような気がしてならない。----- 編集:高橋 経

オサマ・ビン・ラデンの足跡
5月2日付け、NYT紙より

1957年:オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真、1998年)は、サウジ・アラビア、ルヤダ(Ruyadh)で誕生。父親ムハマッド・ビン・アワド(Muhammad bin Awad bin Laden)が作った50人の子供たちの内、17番目の息子。

1967年:オサマが11才か12才だった時、富裕な投資家にしてビジネスマンである父親ムハマッドが、サン・アントニオ近くで飛行機事故で死亡。それで巨額の遺産の一部を相続。以来、王室に接近し、王子たちと親交を持ち、15才までに馬数頭を所有。

1975年:サウジ・アラビア、ジッダ(Jidda)にあるキング・アブデル・アジズ大学(King Abdel Aziz University)に入学、将来家族の業務に参加するつもりで土木技術学を専攻。在学中、二人のイズラム学者、ムハマッド・クッタブ(Muhammad Quttub)アブダラァ・アッザム(Abdullah Azzam 右の写真)の影響を強く受け、アル・カエダ(Al Qaeda)を支持する思想に傾いていった。その基本思想は「イスラム教徒は聖戦を遂行する義務がある」ということで「聖戦と銃だけが優先し、講和も談合も協調も必要ない」と結論付けた。

1979年:大学を卒業。その年、ソ連がアフガニスタンを侵略。それに憤慨したビン・ラデンは醵金し、アフガンの戦士たちを経済的に支援した。 (左の写真はアフガニスタン、ジャララバドJalalabadにおけるビン・ラデン 、1988年)

1984年:ビン・ラデンは学者アッザムに協力し、アフガニスタンへ赴く聖戦斗士(holy warriors又はjihadists)が泊れるよう、ペシャワァ(Peshawar)に宿舎を建てた。サウジ・アラビアで集めた献金で準備オフィス(the Office of Services)を建設し、世界中から若い『聖戦斗士』達を集めた。

1986年:ビン・ラデンは、彼直属の訓練キャンプを設置し、別個のテントに50人の過激派ペルシャ湾アラビア人を収容した。彼はそのテントをアル・マッサダ(Al Masadah)と名付けた。ビン・ラデンは彼らを補助するために月々2万5千ドル支出していた。(右の写真は1988年頃)

1989年:アフガニスタンを侵略したソ連が後退したのを転機とし、ビン・ラデンは反抗戦士たちを経済的に援助し、武器や住居を提供し、ソ連の撤退をイスラム側の勝利であるとし、イスラムの政治的な勢力を増大させ『不徳な』政府を『聖戦』の力で追放する作戦を打ち立てた。

1990年8月:イラクがクエィトを侵略。ビン・ラデンは積極的にサウジ諸国にアフガニスタンで戦った兵力や武器を転用供給し、王国を守るよう働きかけた。彼としては敵だと思っていたアメリカ合衆国が、サウジ諸国を援助していることが意外で、しかし不遜と感じていた。

1991年:ビン・ラデンはテロリスト達の隠れ蓑であったスーダンに逃避し、そこで軍資金を作るため、利益を上げるビジネスを始めた。また1992年には、パキスタンから500人のアフガン戦士を呼び寄せ、準備兵力とした。

1992年12月29日:イエメン、アデン(Aden)のホテルに爆弾が炸裂した。そのホテルには、ソマリアへ進攻するアメリカ軍が逗留しているはずだったが、既に出発した後で、その代わりに
オーストリアの旅客が2人死亡した。この事件はビン・ラデンの仕業だと信じられている。

1993年2月26日:ニューヨーク、ワールド・トレード・センター北館へ、トラックで運んだ爆薬を炸裂させ、6名を殺し多数に重軽傷を負わせた。
(左の写真)この事件をビン・ラデンが計画したという証拠はないが、経済的な援助をしたと信じられている。

1994年4月10日:サウジ・アラビア政府は「ビン・ラデンの無責任な行動が当政府の外交上、友好国との間に摩擦を起こす危険があるにも拘らず、彼は当局の指令を無視した」という理由で市民権を剥奪。 (右:先頭がサウジ・アラビア国王ファド Fahdと、背後にビン・ラデンの兄弟二人YahyaとBakrが見える )

1996年~2001年:ビン・ラデンはアフガニスタンを後に支配するようになったタリバン(the Taliban)を経済的に援助していた。続いて、国際的な人種混合のテロリスト配属集団アル・カエダ(Al Qaeda)の一派として、彼個人の組織作りに時間をかけていた。 (左は、タリバン支持者たちのラリー)

1966年6月5日:スーダン政府は、テロリストが国内に安住していることを外交上容認していたが、同国の首都カートウム(Khartoum)に1991年以来居住していたビン・ラデンを国外に追放すべく、国連安全保証審議会(the United National Security Council)に要請した。

1996年6月25日:サウジ、ダーラン市(Dhahran)で、爆薬を満載したトラックを、アメリカ空軍の将兵が宿泊していたアパート群で炸裂させ、最低23人を死亡させ、300人以上に重軽傷を負わせた。(右の写真)表面的にビン・ラデンは関与していなかったが、公にその成功を祝福していた。

1996年7月11日:アフガニスタンでイギリスの日刊紙ザ・インディペンデント(Independent)のインタビューで、空爆でリアダァとダァラン(Riyadh and Dhahran)の26人が死亡した事件に関し、ビン・ラデンは「彼ら(犠牲者)の大敵アメリカを討つ、、、」と発言した。

1996年8月:ビン・ラデンは、アフガニスタンのタリバン本拠地トラ・ボラ(Tora Bora)から「二つの聖なる寺院を占領しているアメリカ軍に対して宣戦」を布告した。それに当って、強大なアメリカの武力と、イスラムの劣った武力の差を補うために新しい作戦を編み出した。「すなわちゲリラ作戦を推進し、軍備ではなく、この国の若者たちの斗志を増強することにある」と書き記した。

1988年から2001年まで:CIA(ジョージ・テネットGeorge J. Tenet長官)はビン・ラデンを捜索。目標はアフガニスタンの捜索隊の協力を得て、彼を捕縛あるいは誘導ミサイルで殺害する
ことにあった。

1998年8月7日:ケニアとタンザニアに設置されていたアメリカ大使館がそれぞれ、数分の差で大爆破され、224人殺された。この爆弾攻撃がビン・ラデンの作戦だったという明白な証拠はないが、西欧の関係者たちは彼の関与を確信している。 (左の写真)

1998年8月16日:連邦政府の検察官たちは、ナイロビィ、ケニア、タンザニアのアメリカ大使館の爆破にビン・ラデンの関与があったという情報を入手したと発表。 (右の写真:200人以上が犠牲になった)

1998年11月4日:マンハッタンの連邦大陪審はビン・ラデンに対し、アフリカの2カ所のアメリカ大使館爆破事件と海外のアメリカ国民に対して犯したテロ行為など、238件の罪状で起訴する意図を固めた。当時のビル・クリントン大統領は、ビン・ラデンを最悪の民衆の敵(Public Enemy No. 1)』と指摘した。(左:アフガニスタンで追従者たちと移動するビン・ラデン)

1999年1月:アメリカ政府はビン・ラデンおよび国際テロリスト集団アル・カエダに対し、アメリカ国民殺害の犯罪行為に対する起訴を更新し公布した。

2000年10月12日:アル・カエダが、イエメンの港で給油のため停泊していたアメリカ海軍の駆逐艦コール(the US destroyer Cole)に攻撃を加え船腹を破壊し、17名の水兵を殺し、39名に重軽傷を負わせた。(右の写真)

2001年9月11日:史上最悪の同時多発テロがアメリカを攻撃した。乗っ取られた4機の旅客機の内2機が、ニューヨークのワールド・トレード・センターの両ビルを壊滅し、3機目はヴァージニ
ア州の国防省(the Pentagon)ビルを大破し、ホワイトハウスを目標にしていたと思われる4機目だけは、乗客の必死の抵抗と犠牲により、ペンシルヴェニアの田園に墜落した。その筋では、ビン・ラデンがこのテロの仕掛人であると断定した。 (左の写真)

2001年9月18日:時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(George W. Bush)は国防省で、9月11日のテロの首謀者ビン・ラデンを有力容疑者として追求し裁判にかけると宣言。さらに、他のテロリストも徹底的に追求し壊滅すると付け加えた。 (右の写真)

2001年10月7日:ビン・ラデンはイスラムのテレビ、アル・ジャジィラ(Al Jazeera)局を通じ「今やアメリカは万能の神から鉄槌を下され、重要な機能を破壊された。その神に心から感謝を捧げる。今回アメリカが味わっている苦渋は、我々が味わっている苦渋のほんの一部にしか過ぎない」と発言。 (左の写真:スーパーは、録音の悪い部分を補助している)

2001年11月3日:アラブやイスラムの多数意見を代表し、ビン・ラデンはビデオを通じ「アメリカ軍のアフガニスタン作戦は、全イスラム民族を敵にしていることに他ならない。アフガニスタン人民はこうした殺戮を受けるいわれはない」と発言。

2001年12月14日:アメリカ軍の援助を受けているアフガンの軍隊は、トラ・ボラ(Tora Bora)地帯の洞穴や峡谷に潜むビン・ラデンの過激派勢力に包囲されていると信じていた。国防省はその地帯がビン・ラデンの根拠地であると想定し、攻撃を加えることに決定。(右の写真:空しい破壊と捜索)

2001年12月31日:ビン・ラデンを目標とし、アメリカ軍の援護の下に捜索隊や戦士らがトラ・ボラ地帯の洞窟をくまなく捜索し攻撃を加えたが得る事無く、冬が迫ってきたので作戦を中断。ビン・ラデンは既に逃亡した後だったようだ。

2006年9月11日:5年間の沈黙の後、ビン・ラデンの最高顧問、アイマン・アルザワァ(Ayman al-Zawahr)は、『ナイン・イレブン』テロの5周年記念に当り、イスラム圏内の共鳴者に、武器を取ってアメリカを攻撃しようと呼びかけ、アル・カエダによる中東での反撃を予告した。(左の写真の右がアルザワァ)

2010年1月25日:ビン・ラデンはテレビを通じ、
前年のクリスマス12月25日に失敗した旅客機爆破の事件には触れず「パレスチナの事情が安定しない限り、アメリカ人は心安らかに眠ることはできまい。アメリカがイスラエルを援助する限り、神の思し召しにより、我々はアメリカを攻撃し続けるであろう」と予告した。

2010年3月26日:ビン・ラデンはテレビを通じ『ナイン・イレブン』テロの首謀者カーリド・シャイカ・モハメッド(Khalid Shaikh Mohammed)を処刑したら、その代わりにアル・カエダが拘留しているアメリカ人を殺してやる、と脅迫してきた。(右の写真)

2011年5月1日:『ナイン・イレブン』以来、10年近くの才月を経たこの日、ビン・ラデン追跡の努力が報われ、アメリカ海軍の特殊攻撃隊がパキスタン、アボッタバド(Abbottabad)の高級住宅地に潜んでいたオサマ・ビン・ラデンを急襲し射殺した。特設テレビでその状況の一部始終を閣僚と共に見守っていたオバマ大統領は、ビン・ラデンの死を確認した後、記者会見で『重要な任務を達成』したと発表し、更に「彼の死で我々の努力が終了したわけではない」と強調した。(左の写真)

2011年5月1日日曜日

アメリカ南部から北上した竜巻

はじめに:世界的に『史上最悪の』天災、人災が頻発している。東日本大震災のほとぼりが冷めやらぬ4月半ば、アメリカ南部から東北部にかけて大雨による河川の氾濫から洪水によって何千何万という家屋が水浸しとなり、乾く間もなく大小400に及ぶ竜巻に席巻され、これまた何千何万という家屋が吹き飛ばされ破壊され瓦礫の山と化した。

もし誰かに「選べるとしたら、地震、津波、洪水、山火事、台風、竜巻の内どれがよいか?」と聞かれても返答に窮する。


この場合は津波を伴った東日本大震災の惨状と、アメリカ南部を破壊した竜巻の猛威と、どちらが被害が大きかったか、という論議する気持ちは毛頭ない。それは無意味な比較であろう。いずれの場合でも、想像を絶する天然の猛威から逃避する術もなく、多数の死傷者や、家屋財産を失った犠牲者を出したことには変わりないのである。


従って、下掲のアメリカの地図と日本の地図を並べたのは被害状況を比べるためではなく、読者に被害地域の規模の概念を視覚的に納得して頂くためである。別のご参考のため、両国の緯度は正しい位置に設定した。

我々人類にとって将来の課題は、こうした天災を予測するのは可能だとしても、抑えることが不可能である限り、その猛威から如何に被害を最小限度に留めるかにかかっている。編集;高橋経
ニューヨーク・タイムズ紙
アラン・マクリーン(Alan McLean)、アーチー・ツエイ(Archie Tsei)による報告
4月29日付けの記事から抜粋

去る4月14日から、昨28日までの2週間に大小の竜巻がアメリカ南部諸州から東に向かって北上し、家屋から人畜に至まで容赦なく上空に吹き飛ばし、破壊の限りを尽くして通り抜けた。その破壊力は2トンの大型車を吸い上げ、地上に叩き付ける強さ、と言ったら想像がつくであろう。
(下掲のアメリカ東半分の地図は、竜巻が破壊した地点を示す。東日本震災の地図と並べたが緯度だけは対応している。)

記録された風速は時速320キロ以上、それはジェット機が飛行する早さだと思ったら間違いない。従って警告予報が出されたら、直ちに地下室などに避難しないと逃げ遅れて空に吸い上げられる運命になる。こうして命を奪われた人々が400名もいたが、この数字は救出作業が進むにつれて更に増えるであろうと予想される。

高圧線の鉄塔もテネシー州だけでも200基以上が破壊され、70万人の利用者が停電の状態にある。最も被害が大きかったアラバマ州でも26万所帯が停電の憂き目に遭っている。


家を吹き飛ばされた人々は、文字通り着の身着のまま、家財道具はおろか、所持品の全てが空の彼方に飛ばされていった。よほど運が良くてそれが見付かったとしても、数10キロも離れた地点に落下していることであろう。


以下は竜巻一過、現状のほんの一部:

被害が最悪だったアラバマ州、タスカルーサ町(Tuscaloosa)を視察するオバマ大統領「こんな酷い天災は見た事が無い。政府としては、犠牲者たちを生き返させることはできないが、物質的な損害はできるだけ補助しよう」と約した。 

家屋を破壊されたタスカルーサのシーダー・クレスト(the Cedar Crest)フォレスト・レーク(Forest Lake)付近の惨状。-----空中から撮影

4月21日の竜巻で、6州に亘って襲来した竜巻で285名が死亡し、その内アラバマ州だけでも195名が犠牲になった。----- 写真はタスカルーサにて

この竜巻で、何千人もが負傷し、無数の人々が住居を失った。それでも残留品の中から使えそうなものを何とか回収している。

被害状況を調べるプラット市(Pratt City)の住民。

息子の家の瓦礫から所有物を回収する両親。
-----ジョージア州、バートウ郡(Bartow County)にて

姪の家に避難した婦人が、竜巻一過で引き揚げる。といっても、帰る家が残っているかどうか心もとない。-----ジョージア州、バートウ郡にて

被害に遭った母親の家を見舞い、状況を調べて抱き合う息子と母親。-----ジョージア州、ケイブ・スプリング(Cave Spring)にて

テネシー州、グリーンヴィル(Greeneville)のボランティア達がキャンプ・クリーク地域(the Camp Creek Community)の瓦礫を捜索。

唯一つ残された土台の床に立ち、呆然として隣人と恐怖を語り合う住人。-----アラバマ州、バーミングハム市の西郊外。プレザント・グローブ(Pleasant Grove)にて

『竜巻が接近』
画面をクリックすると動画のスクリーンに移動します。 多分ケイタイで撮ったビデオのため画面が不鮮明ですが、その状況の理解には役立つでしょう。-----2分28秒-----