2011年2月22日火曜日

三保文江を偲ぶ

[はじめに:先日公開した『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』に寄せて、3人の読者から貴重なご感想を頂きました。今回はその一つ、他界した三保文江が在日中、東京三田の普連土学園に在職していた大津光男事財務理事の回顧記事をお送りいたします。編集

大津光男(おおつ みつお)
2011年2月

「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(ペトロの手紙二1章5~7節)

人間は、どんなに聖人と言われていても、いかなる時でも、誰からも好かれ、愛され、慕われる人は、皆無に等しい。イエス・キリストにしてもそうだった。ジョージ・フォックス(George Fox)も同じだった。

多様な意見を認め合うキリスト教フレンド派(Religious Society of Friends: 以下、クエーカー、友会、友会徒などとも言う)の中にあっても、意見を同じくする人もいれば、少数意見で去っていく人もいた。クエーカー史上のアメリカでの分裂以外他国のことは知らないが、日本の場合、年会総会などでは意見の相違が顕著に現れることが多々あった。(上の写真:前列左から三保文江、上代タノ、鮎澤巌、後列左から松野左武郎、石田トシ、小泉一郎。上代、鮎澤、小泉は普連土学園歴代理事長、松野は財務理事、石田は校長であった。)

それは、組織として活動する以上、一致点を見出すまで、とことん議論をいとわないのがクエーカーの生き方であるからこそ存在しているものだった。


2010年10月31日、ハワイで亡くなった三保文江と私ども夫婦との間には、公的にも私的にも半世紀以上にわたる長い親交があった。

『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』の記事を読み、彼女が内心の光に導かれて、イエスを信じる者として、一生を正直に、平和を築くために生きて来たことを思う時「but、、、この記事は少々どうかね、大津君、、、」という彼女の声が耳に聴こえて来る。

Yes, 私が飾りなく伝えれば、三保文江は、ゆるぎのないフレンド派の信仰に基づく非暴力者、平和主義者ではあった。だが、好感を持たれて多くの友を得ることができ、それが彼女の大きな財産となっていた半面、時には歯に衣を着せない厳しい言動があり、それが故に誤解を招くことも間々あった。

しかし、どんなに反対の意見が出されようと、その場に居合わせるということは、そこに彼女が存在している、謂わば、彼女にとっては神によって生かされているという信念でもあった。それが三保文江の生き方だった。

筆者の手元には、今2通の葉書が残っている。

1通は1991年6月25日付で、もう1通は1993年1月5日付だ。前者は、三保文江が普連土学園を1991年3月末に退職し、ハワイに戻った時の挨拶状で、後者はその2年後のいわば賀状(右下のコピー)だ。挨拶状は日本語で、賀状は英語でそれぞれ書かれている。挨拶状は、建前ではなく彼女の本心を伝えており、まず、転載して彼女の霊に捧げたい。

三保文江は、ハワイで生まれ、1940年に初来日した日系二世だった。日本での生活が半世紀以上にわたってはいても、上掲の葉書の文面に見られる如く、日本語に堪能であった、とは言い難かった。

筆者と話をするときには英語交じりの日本語だった。いつも、大津君、yes、、、, oh no! but*****ね。と言い、*****には 『peacefully』『in the Bible』 とか『I think,』あるいは『I am sure』その他の英単語が混在していたが、自分の考えを伝えるものだった。

それは、信仰の先輩としての言葉であり、後年は職場での同僚としての意見だった。また、自分の考えを書面では英語で書いていたが、前記のように日本語で表記することは苦手だった。だから、普連土学園に在職中は外国からの来客の通訳をよくしてくれたものだったが、その場限りになってしまっていた。今では、日本語で彼女の書き残している論文や随想を、すぐに探し出すことは困難になっており、かえすがえすも残念である。

ところで、筆者の手元には、もう一つの資料がある。三保文江の手書きの履歴書である。履歴書は、普連土学園の評議員になっていた1978年のものである。その履歴書は、実に簡潔だ。まるでクエーカーとしての生き方を凝縮したようなものである。決して自分を誇ったりしない。学歴欄は英文だが、それらをまとめて並べてみると次のようになる。
                      1914年大正3年12月2日生まれ
                      1939年6月 ハワイ大学卒業
                      1953年6月 イェール大学神学部卒業
                      1955年~56年 普連土学園講師
                      1960年~63年 普連土学園講師フレンズセンター主事就任
                      1964年春 ウッドブルック大学
                      1964年~68年 普連土学園講師
                      1965年 国際基督教大学評議員
                      1968年~69年 ウッドブルック大学
                      1970年~91年 普連土学園講師
                      1971年 東京女子短期大学講師
                      1971年 法政大学講師
                      東京月会会員
                      日本YWCA会員 

戦争中、日系二世として日本で苦難を味わった三保文江は、広島の惨劇を目にし、危うく惨事を免れたことに神の意志を感じて、平和主義者になった。アメリカに戻ってイェール大学神学部(Yale Univ. Divinity School)を卒業し、1954年にアメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service committee: AFSC)の一員として来日した。が、その後、宣教師ビザを取得して1955年から普連土学園の非常勤講師としても、聖書の授業を担当し始めた。

私や妻が初めて三保文江に会ったのは、この時期のことだった。

2年間の契約が切れて、再び米国に戻った三保文江は、4年後、フィラデルフィア年会日本委員会から派遣されて1960年6月に来日し、エスター・B・ローズ(Esther Rhodes)の後任として、フレンズ・センター主事に着任した。同時に、ハワイのホノルル月会から東京月会に転会して、キリスト友会日本年会の諸活動、特に教務委員として積極的に協力することにもなった。

一方、宣教師としては、普連土学園でも再び非常勤講師として聖書を教えることになったのである。この当時、大学に通っていた私は、折に触れて彼女と話す機会があった。キリスト友会日本年会のヤング・フレンズの指導にも当っていたことがあり、水戸や下妻など茨城県下の集会を訪問していたからだった。

三保文江が最初にウッドブルック(Woodbrooke College:左の写真はその一部)に行った1964年に、私は就職して名古屋に行った。それからの10年間は、彼女との交流はもっぱら書簡になった。残念ながら、それらは現在残っていない。彼女も、キリスト友会の役員には全く就任せず、独自の活動を行っていた。

三保文江は、1967年12月末でフレンズ・センター主事契約を終了した。そして、翌1968年3月末には普連土学園の非常勤講師も辞めて、再びウッドブルックに行って研修を積むことになった。

ウッドブルックとは、イギリスのバーミンガム(Birmingham)近郊にあるクエーカー研修センターのことである。周囲にはいくつかの大学があり、緑に囲まれた自然の豊かな研修センター内でも宿泊しながら、朝夕の沈黙、瞑想の礼拝や、あるいは宿泊者同士の交わり、その他のプログラムへの参加を通じて、クエーカーに関するあらゆる研修が可能である。したがって、そこでも彼女は「生かされている喜び」を味わい、クエーカーとしての自己研鑽につとめたのである。

このセミナーに1年間出席した後、彼女は世界の友会徒を訪ね歩いた。まるで、クエーカー史上のミニスターのように交流を深めた後、今度は、宣教師ビザではなく、ワーク・ビザを取得して1970年に日本に戻った。そして、普連土学園の非常勤講師として生徒には聖書やクエーカー思想(Quakerism)を教え、父母の会では聖書と英会話の勉強を受け持ち、1991年3月末に完全に退職するまで、学校と海外の友会徒とのつながりを英文で認める役割を担ってくれたのである。この間、1973年度~74年度、77年度~80年度、普連土学園の評議員としても、尽力してくれていた。

私は、会社を辞め1985年に普連土学園に転職し、三保文江とは6年間、職場を共にする機会に恵まれた。彼女の印象は、少年時代、青年時代と全く変わらなかった。

三保文江は、普連土学園では非常勤であったから、他の時間を彼女の信仰に基づく諸活動に当てていた。彼女に言わせれば、oh, no!と言われるだろうが、彼女は沈思黙考型というよりは、ある面では衝動的かどうか適切な言葉が浮かばないが、霊に動かされる行動的な女性であった。男勝りの活動派だった。そこには、国際人としての活躍があり、平和主義者としての活動があった。それゆえに、多方面で多くの友を得たのである。中には、普連土学園の卒業生やご父母たちも大勢いた。

かかる事情もあり、彼女の訃報は私から日米の関係者に伝えた。米国の関係者とはAFSCの職員として来日していた人々である。一様に、彼女の地上での働きに感謝し、関係者は思いを新たにして、その霊の安からんことを祈っていた。

三保文江は、すでに世を去った。が、世界の平和と安定とは全く先が見えない。

それゆえ私には、oh, no! but,だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさいと彼女が今なお語りかけて来るのである。

彼女のご冥福を心からお祈りして、生前のご厚誼を感謝し追悼文としたい。

訂正公開された『追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯』記事中「彼女はその生涯を奉仕に捧げた。彼女は伝道師であり、教育者で学校長であり」で、
学校長とあったのは明らかな間違いで、ホノルルの追悼礼拝会の略歴では、訂正があったことを付記しておきたい。大津

2011年2月18日金曜日

生命を保つには、、、。

健康度を図る「快眠」、「快食」、「快便」

志知 均(しち ひとし)
2011年2月


ギリシャ神話の女神エオス(Eos)は若者チソヌス(Tithonus)に恋をした。エオスは人間のチソヌスが自分と同じように永遠の命が得られるようにゼウス(Zeus)に願い出た。その願いがかなって二人は幸せな歳月を過ごしたが、そのうちにチソヌスは年老い病気になりみにくくなってしまったが死ぬこともできなかった。エオスゼウスチソヌスが老いないように頼むことを忘れたから! (右の写真は、古代ギリシャの壷に描かれたチソヌスを追うエオス)

永遠の命はなくとも、老後まで健康な人生を送りたいと願うのは誰しも同じである。40歳台になるまでは事故死が多いが、50歳台ではガンや内臓の病気で死ぬことが増え,65歳以上になると死因は第一に心臓病,次がガン、脳卒中、呼吸系疾患と続く。

死因とならないまでも、アルツハイマー氏病(または認知症:Alzheimer’s disease)パーキンソン氏病(Parkinson’s disease)などの脳神経系疾患は人格の崩壊をもたらす。このような病気になるかならないかは20%が遺伝子、80%が生活態度(life style)環境因子できまるといわれる。

健康によい生活態度の第一にあげられるのが口に入るものへの注意、即ち禁煙、節酒、低脂肪繊維性の健康食ビタミン剤その他の栄養補助剤などへの対応の仕方。第二に適宜の運動。第三にパズルなどによる頭の体操。これらすべてを生活態度に取り入れても個人差があるから健康でいられるとは限らない。たとえ医者の定期健診を受けているとしても自分の身体のことは自分で責任をもつことが大切である。

そこで健康度の尺度として三つのことに注意するのをおすすめする。即ち「快眠、快食、快便」の生活をしているかどうか?


快眠

われわれの身体は明暗リズム(12時間・12時間のリズム、circadian rhythm)に支配されているから、このリズムから外れないため毎日決まった時間に就寝し決まった時間に起床するのが快眠につながるが、なかなか実行されないのは残念だ。睡眠は身体の休息のために不可欠である。

特に目覚めている間に酷使する頭脳の『整理と調整(リセット)』のために必要である。睡眠は眼球が早く動くREM (rapid eye movement)段階熟睡(deep sleep)段階に大別される。夜眠っている間にはREM/熟睡のサイクルが4-5回繰り返される。REMは目覚めている間に脳の海馬(hippocampus)を通して記憶として蓄えられた情報を大脳各所に分散整理する段階で、古い記憶が引き出されることもあり、夢を見る。情報の整理がある程度進むと熟睡段階に入る。悩み事や心配があると脳の扁桃(amygdala)が興奮状態を続けREM熟睡を妨げる。

それを防ぐためには、就寝前に精神的なストレスを減らすことが大事で、生活の不安に関する議論や、テレビの暴力番組などは避けて、静かな音楽でも聴きながら「明日は明日の風が吹く(聖書を読む人なら、一日の苦労は一日で足れり。)とくつろぐのが賢明である。


快食

睡眠中は頭脳活動が低下するのに対し、のはたらきは活発になる(左図の青い部分が腸)。そこで快食について述べよう。ひとくちで言えば腹八分目で消化器系にあまり負担をかけない食べ方が快食だが、消化について、特に腸と腸内細菌との関係を理解することが大切だ。腸には1,000種以上のバクテリアが共生している。

消化を助けるだけでなくビタミン合成もしてくれる有益バクテリア繊維性食物を好み、病気を起こす有害バクテリア動物脂肪糖分の多い食物を好む。低脂肪で繊維性の食物が健康食といわれるのはそのためだ。有益なバクテリアは腸の免疫性を助けてくれる。たとえば、腸内主要細菌(Faecalibacterium prausnitzii:右の電子顕微鏡写真)は免疫抑制作用をもち腸粘膜の慢性炎症を起こすクローン氏病(Crohn’s disease)の再発を防いでくれるし、非病原性嫌気性菌(Bacteroides fragilis:左下の電子顕微鏡写真)大腸炎(colitis)を予防してくれる。

抗生物質を経口摂取すると腸内の有益バクテリア有害バクテリアも大打撃をうけ下痢が起きることがある。有益バクテリアが早く回復するにはプロバイオ錠剤(probiotic)を摂取するのが有効である。 快食には腹八分目と上に書いたが、腹を空にするため時々絶食(断食)するのは健康によい。絶食すると腸だけでなく、その他の内臓も浄化される。たとえば、絶食開始24時間以内に肝臓、膵臓、腎臓、筋肉、心臓などで自己分解(autophagy:右下の電子顕微鏡写真)が高まる。

自己分解とは細胞レベルでの浄化のことで、絶食時には栄養やエネルギー生成のため、古い細胞を自己分解させる。(食物がなくなると蛸が自分の足を食べるが自己分解と言えないことはない。)

筋肉脂肪組織(adipose tissue)細胞
自己分解で供出したグルコースやケトン体は肝臓を経て脳へエネルギー源として送られる。その結果、肥満の防止になる。絶食により脳でもある程度の自己分解が起きる。アルツハイマー氏病パーキンソン氏病などでは脳神経細胞に粘性の高い凝集蛋白が付着するのが病因のひとつであるが、自己分解はそれらの蛋白の蓄積を防いでくれるようだ。

快便

廃棄物(garbage)を調べるとその家庭の生活が判るように、検便は消化器系に異状はないか、出血はないかなどを知る上で参考になる。詳しいことは(うさん臭い話になるから)省略する。

記憶違いがあるかもしれないが「寝て起きて、食べてまた寝て、また起きて、あとすることは、死ぬばかりなり」という歌がある。最後のところを「あとすることは、出すばかりなり」として、それが順調に繰り返され、頭の働きも正常であればあなたの健康度は良好であることまちがいない。

2011年2月15日火曜日

空を飛ぶファッション

鳥のように飛べたら、、、というのは人類の儚い(はかない)夢でした。1903年12月17日、ライト兄弟の飛行機が初めて空中に浮かんで以来、今日ではジェット機が世界中を飛び回っています。

でも、ある人々はそれでは満足できず、独りで「鳥のように自由に」空を飛びたいのです。その夢に近付いたのがスカイ・ダイビングで、上空から地上へゆっくりと天下り、最後にパラシュートで着陸するまでの間に『鳥』の飛翔を実感して味わうことができます。

それに改良を加えたのがフライング・スーツです。スカイ・ダイビングに比べて遥かに長時間にわたって滞空できる、というのが売り物です。

先ず上図のスタイルからご覧ください。価格は500ドルから1500ドルまで、スタイルは『怪人』、『スーパーマン』など、華やかなデザインです。

危険が伴うので、可成り熟練した技術が要求されますから万人のスポーツとは言えませんが、何はともあれ、上の写真をクリックして、ビデオでその飛行感覚を味わってみてください(訳6分30秒)。安全は保証付きです。高橋 経

もっと詳しいことは、フライング・スーツの発売元、フェニックス(Phoenix)のサイトをご覧ください。

2011年2月14日月曜日

キューピッドを選ぶ

今日はヴァレンタイン・デー。愛をこめて相手のハートを射止めるのがあなたのキューピッド。一口にキューッピッドと言っても我々俗人と同じで千差万別、選ぶなら矢張りあなたの性格に適ったキューピッドを選ぶべきだ、と考えたのがデザイナーのジ・リー(Ji Lee: 出版物に『Talk Back』と『Universe Revolved: A Three Dimentional Alphabet』がある)、千差万別の内から12人のキューピッドを想定してニューヨーク・タイムズに発表しました。

さて、あなたならどのキューピッドを選びますか?自己判断にも役立つでしょう。お試しください。 編集:高橋


2011年2月8日火曜日

追悼:日系二世フミエ・ミホの生涯

はじめに:フミエ・ミホ(三保文江)はいわゆる『有名人』ではない。だが、知る人ぞ知る、彼女は敬虔なクリスチアンで、その生涯の殆どを社会奉仕に捧げ、昨年10月31日(ハワイ時間)に96才で亡くなった。以下はハワイのカマカマカ紙(Ka Makamaka)に掲載されたフミエ・ミホの略伝である。編集:高橋 経

フミエ・ミホ(三保文江)
1914年12月2日〜2010年10月31日
善良で忠実なる僕(しもべ)よ、よくやった。、、、
---マタイ伝:25章-21より---

三保文江の一生は非凡な信仰と勇気の伝記に満ちてる。彼女はその生涯を奉仕に捧げた。彼女は伝道師であり、教育者で学校長であり、ヒロシマ原爆投下の目撃者であり、その生存者であり、世界平和と無暴力の支持者であり、そして人道主義に情熱を捧げてきた。


文江は、1914年(大正3年)マウイ島のワイルク(Wailuku)で生まれた。両親はカツイチアヤノ・三保、当時人口が増加の一途をたどっていた日系人たちに日本語を教えるために広島から移民してきた。
文江は、8人兄弟姉妹の5番目であった。

文江は少女時代をワイルク/カフルイ(Kahului)地区で育ち、1933年、マウイ高校を卒業し、2年後ハワイ大学に入学した。彼女はイースト・ウエスト・センター(The East-West Center)の前身であるオリエンタル・インスティチュート(The Oriental Institute)に参加し積極的な活動をしていた。

文江が高学年になった頃、ハワイ大学で最初の国際哲学会議が開催され、その席上で有数な哲学者、高倉淳二郎(名前の漢字は未確認)と知り合い、東京帝国大学(現東大)で仏教を学ぶことを薦められた。その薦めに従って文江は1940年に渡日した。残念ながら、当時の大学は女性に対し教育の道を閉ざしていたため、文江は止むなく、女子大で英語を教えることに計画を変更した。

翌1941年、日米戦争が勃発し、
文江は帰米できず、その後7年間抑留され、挙げ句の果てにアメリカ市民権を剥奪されてしまった。後年、文江はその当時の身辺をあの戦争中は我が家族は散り散りに分断され、不協和、不統一、絶望に揺すぶられた日々だったと回想している。

1945年、
文江と姉(妹?)月江の家族は東京の住居を引き払い、広島県に疎開することにした。時は正に原爆投下の8月6日、偶然、文江たちは広島行きの汽車に乗り遅れてしまい九死に一生を得た。あの瞬間、(乗り換えの)駅は広島市から僅か16キロしか離れていなかったので爆発音が聞こえ、目が眩むほどの閃光が見え、続いてパステル色のキノコ雲が、巨大なチューリップのように高く高く上空に広がっていった。原爆の実態を知らなかった文江、その不思議な光景を見ながら「あのアメリカ軍は何て美しいカモフラージュを発明したんだろう」と思っていた。

広島に着いた
文江は、それから何日も何週間も、数え切れないほどの被爆屍体や、重軽傷を負った 被爆者たちを次々と焼け跡から運搬していた。その作業をしている間中、文江「何で私だけが命拾いをしたのだろうか?」と自問し続けていた。

こうした自問を繰り返している内、
文江は心の中で、一生を平和と正義に捧げようという気持ちが固まり始めていた。開戦以来、心ならずも日本に抑留状態になりハワイへ帰れずにいたアメリカ市民の文江だったが、1947年にやっとホノルルへ戻ることができた。

帰国3年後、
文江は仏教を捨て、通称クエーカー(Quaker)』キリスト教友会(The Religious Society of Friends)に入会し、YWCAが後援する奨学金を得て、イエール神学校(Yale Divinity School)で学んだ。文江は校外実習としてニューヘイヴン(New Haven)の貧民街や、ノース・カロライナ州の孤児院で働いた。1953年に学位を得て神学校を卒業し、ニュー・ハンプシャー州、ニュー・ロンドンのコルビー・ジュニア・カレッジ(Colby Junior College)で宗教学を教えた。

1954年から1956年まで、アメリカン・フレンズ奉仕団(The American Friends Service Committee)に採用され、東京で難民救済事業のディレクターとして働いた。その後マウイに戻り、ラハイナ・メソジスト教会(The Lahaina Methodist Church)で日本語の牧師を2年間務めた。


1960年、東京へ宣教師として赴任し、1967年までフレンド・センター(The Friends Center)の会長を務めた。その後、ウッドブルック・カレッジ(Woodbrook College)で4学期だけ修学し、1968年、再び東京へ戻り、普連土学園(フレンドがくえん:右下の写真)その他の学校で英語と聖書教育に携わった。(左の写真:左が文江、学園の教師、役員と) 同時に1991年に引退するまでYWCAでも活動を続けていた。

1992年、文江の兄弟で故人となったポール・カツソ・ミホが、生前平和と正義の社会運動に捧げていたことを記念し、イェール神学校平和樹立奨学金のためにカツソ・ミホ基金を設立した。基金は文江の日本の友人から寄付を受けたものであった。

文江は、国際的にも活躍し、しばしば、平和、正義、人道主義、そして無暴力の立場を強調するクエーカーを代表していた。彼女の発言は核武装や大量破壊兵器に反対する声として反響を呼び大きな影響を与えている。

2011年2月5日土曜日

気がかりな風景


アメリカの冬は「ロシアの豪雪ほど厳しくない」と多寡をくくっていたら、このところ寒波が到来し、南はテキサス州から北は東海岸の北部に至るまで、雪害や氷結に襲われ、死者数十名、負傷者多数、停電、倒木、交通マヒが続出した。どうやらこの寒波は峠を越えたようだが、その傷跡は惨憺たるものであった。

その状況はすでに報道でご覧になったことと思うから、気晴らしに今回は話題を逸らして変わった風景をお届けする。編集:高橋 経Photo credits: Tim Jean/The Eagle-Tribune, via Associated Press; Chip Somodevilla/Getty Images; Charles Rex Arbogast/Associated Press

雪を笑顔で受けとめよう。

この人、パラシュートを背負ってるんだろうね。

孤独なひと時を楽しむのはいいけれど、、、。

トンネルの崩壊?いや地滑りだよ。

「柵に腰を下すな」だって。誰がそんなことを?

逆さで裏返しの表示は読みにくい。では水面をご覧なさい。

ヨガのウルトラ版。

水清くして、ボート宙に浮かぶが如し。

風が強い日は帽子を飛ばされないように、、、。

字が読める犬の反抗。(註:『NO』という字の上に座り隠している)

2011年2月1日火曜日

ありがとう、オバマ大統領!

日本の政情が安定していない。管首相への期待が失望に代わっているようだ。

一方、アメリカの政情は、最近の中間選挙で民主党の議席の多くが共和党に奪われ、下院議長だったナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi)は、その座を共和党のジョン・ベイナー(John Boehner)院内総務に譲る羽目になった。

オバマ大統領の人気は、就任以来人気は下降線を辿っていたが、これは、彼の政治手腕が期待外れだったからではなく、むしろ低所得の一般国民のために、保険制度の改革を実践し、高額所得者の税率を上げようとしたため、超巨大企業の保険会社、薬品会社、金融機関、そして増税に反発した中産階級(主にティ・パーティ)が非難したためである。

また、低所得者の中にも、不況に悩み、失業に喘いでいる人々の一部が、景気回復や雇用の促進が容易に実現しないことに不満を抱いていることも事実だ。


しかし、永年かかって積もり積もって天文学的な数字になった国家の債務と、9年もかかって未だに解決しないイラク、アフガニスタン戦争の尻拭いまで、内憂外患を背負いながら、オバマ大統領の活躍は涙ぐましいほど真摯だった。 アメリカでの民主党、共和党の支持率は五分五分のシーソー・ゲームであるから、従ってオバマの努力を買って支持しているのはアメリカ国民の半分だと思えば間違いない。以下に掲げるオバマ大統領を礼賛するアルバムは、その熱狂的なオバマ支持者から転送された。その思い入れを割引きしても、充分信頼に値いすると判断し、ここに公開する次第である。編集:高橋 経
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大統領ありがとう、、、

、、、ホワイト・ハウスを明るくする笑顔に、

、、、いつも国民のことを憂い、考えていることに、


、、、かつての大恐慌の二の舞を食い止めてくれたことに、


、、、常にユーモアを湛えていることに、


、、、最高裁判所に女性を何人も登用したことに、


、、、ホワイト・ハウスを『人民』のハウスにしたことに、


、、、2010年には、ブッシュ時代より遥かに多い100万以上の雇用を創り出したことに、


、、、一般国民を分け隔てなく心配してくれることに、


、、、家族を大切に愛していることに、


、、、素晴らしい夫人が
大統領を支えてくれることに

、、、保険制度の改正を果たしたことに、


、、、『昨日の敵は今日の友』(註:クリントン夫人とは大統領候補で争った)過去を水に流し彼女を国務長官に抜擢したことに、


、、、世界中を駆け巡り
国際外交関係の円滑化に努力していることに、

、、、国内の事件に東奔西走して解決の道を探っていることに、


、、、市民と楽しみを分ち合っていることに、


、、、しかし一旦重要案件に取り組むと容赦なく正義の味方となり、


、、、文化を尊重する知性を身に付けていることに、


、、、閣僚(左はHarry Reid)の意見に耳を傾けることに、


、、、誰にも親しみを持って接することに、


、、、恵まれない人々を慈しむ優しい心を持っていることに、


、、、若い国民に勇気と自信を与えるに積極的であることに、


、、、破産した自動車産業を救い、140万人を職場に復帰させたことに、


、、、現役の将兵を励まし勇気付けることに、


、、、戦争による犠牲や代償に心を痛めていることに、


、、、10万人の兵士たちをイラクから撤退させたことに、


、、、この世の中で最も厳しく、困難で、孤独な重い職務を担いながら、温情と尊厳さと誠実さで政敵を憎まぬ姿勢を崩さず、

、、、そして、リンカーン大統領の言葉人民のための人民による人民の国家を信条とし、 純粋に我らの大統領である貴方に心から感謝の気持ちを捧げたい。