2010年7月26日月曜日

怪的な空の旅

旅客機を利用して遠く離れた知人を訪れる、或るいは本社から支社に出張する、或るいは何かの大会に出席する、、、いずれの場合でも飛行機はスピードの面でも、便利な点でも、近代社会の生活では最も重要な交通機関となった。各航空会社では「快適で愉しい空の旅」をテレビやラジオで謳い続けてきた。利用客は『快適な』事実を体験し、度(旅)重ねて利用し、老若男女を問わず空の旅を享受してきた。

そうした近代交通に影を落としたのが、2001年9月11日(ナイン・イレヴン)の同時多発テロ事件だった。ご承知の通り、保安の目的で搭乗客のチェックが厳しくなり、送迎客はゲートに立ち入り禁止となった。それでも、テロリストはチェックの目を潜って爆発物を身に着けて搭乗することがあった。


快適な』はずの空の旅を『怪的』にしたのはテロリスト達だけではない。特に大都市の飛行場は運行スケジュールは便が年々増加し飽和状態となり、予定通りの発着が遂行されないばかりか、欠航の止むなきに至ることもしばしば起こった。


また、年を重ねた航空機は機械的な不調を起すのは当然であろう。整備が行き届かない故障もしばしば発見された。発見されない不調もあるはずだ。


航空機の弱点の一つは、天候に影響されることである。濃霧による視界の不良化はレーダーでは救えない。雪や氷で滑走路が凍り、機体が文字通り思わぬ滑走をする。雷雨、暴風など悪天候を避けるとしたら、当然運行スケジュールが変更または欠航ということになる。


去る4月にアイスランドの火山が大噴火を起こし、噴煙がヨーロッパの上空を覆い、殆どの飛行場が無期欠航をし、飛行場には何日も身動きのできない旅客がターミナルに足止めとなり動きがとれなくなった事件は未だに生々しく記憶に残っている。

あれやこれやの『怪的な空の旅』に嫌気がさしたからでもなかろうが、セス・スチーブンソン(Seth Stevenson)地上に立って:大地を行く世界一周(“Grounded: A Down to Earth Journey Around the World”』左の写真)という紀行文を書いた。私は彼の心境に同感したのでここにご紹介する。


ジェット機時代を回避して、、、

セス・スチーブンソン(Seth Stevenson)
2010年4月、シカゴ発

アイスランドの火山噴火の噴煙に覆われたヨーロッパの飛行場で、かれこれ一週間も足止めを食わされた挙げ句、やっと運行が再開され乗客たちは目的地へ向かうことができたようだ。

政府の要人、ビジネスマン、一般の旅行者、貴賎の差別なく各々の旅程が混乱し、予定を台無しにさせられた人々は、この復旧に多分胸をなで下ろしたことであったろう。でも私は、ひねくれているかも知れないが、この不慮の事件がもっと長引けばよかった、と思っている。つまり、飛行機の復旧を待つ代わりに、タクシーをつかまえてスカンジナビア半島1万キロを突っ走るとか、馬車を雇ってアルプス越えをするとか、考えてみる ----- そうすることによって、旅が何やらロマンチックな気分を誘ってくれるような気がするからだ。


過去半世紀というもの、空の旅がそのスピードや便利さで、長距離旅行に欠かせない交通機関として独占してしまったようだ。だが、オーソン・ウエルズ(Orson Welles)が書いた素晴らしいアムバーソン一家(The Magnificent Ambersons)』の中で「旅を短急に済ませると、使える時間が限られる」と言っている。正にその通り、飛行機での旅に馴れると、自分の生活にゆとりがなくなってくる。旅の目的が仕事であれ、休暇であれ、予定が切り詰められ、短時間で遠距離の目的地を往復するようになるからだ。(右はシベリア大陸横断鉄道)

言い換えると、空の旅は往復の距離間隔(感覚)を無視することになるのだ。反面、車とか汽車で地上を旅すると、その距離間隔を自分の目の高さで、自分の身長に応じた事象を有意義に甘受するゆとりが生まれてくる。汽車なら展望車の窓から、波に揺られる船ならデッキの上から、移り変わる風景を楽しむ余裕がある。しかし、こうした体験は1万メートルの上空から雲の合間を通してだけしか得られない。(左の写真はオーストラリアの未開地)

といった考えから、私はガールフレンドのレベッカ(右の写真)と共に、飛行機を一切避けた世界旅行を企て実行した。

その旅程の内には、シベリア横断鉄道に乗り、モスクワからウラジオストックまでの大地を通り抜け、オーストラリアの荒れた大平原を車で横断した。こうした旅行を飛行機で飛べば、それぞれが半日もかからないであろう。だが、鉄道や車だったらそれぞれたっぷり一週間かかった。その間に、鉄道ではキャビンで一緒になった親切なロシア人とパンやチーズを
分け合って食べたし、オーストラリアの平原では一軒家のホテルでジャッカルー(jackaroos:アメリカでいうカーボーイ)とビールを呑んだりした。こうした心暖まる思い出は一生鮮明に記憶に残ることであろう。

大西洋航路の船(上左の写真)をご想像あれ。大海原の真ん中で星空を仰ぎ眺めたこと、甲板の手すりにもたれ、水面を見ながら見知らぬ船客と杯を交わし合ったことなど、下船した後でも忘れられない。

旅客船の運行予定は限られているから、貨客船を利用するという方法もある。私たちの旅程の一部では、フィラデルフィアからアントワープを結ぶ貨客船を利用した。あの時はパイロットのブリッジ辺りで船員と知り合い、航路の地図でどこを航行しているのか教えてもらった。食事は食堂で船員達と同じテーブルに坐り、彼らの生活の一端を覗かせてもらった。甲板では翼を大きく広げた海鳥を目の当たりに、また巨大なクジラの潮吹きや、イルカの群れが船と並んで泳いでいるのも見た。(上右の写真)


もし私が車で旅をしている時に、旅客機が頭上はるか彼方を飛んでいるのを見かけたら、あの細長いジュラルミン筒の中に腰掛けている乗客には体験できない数々の素晴らしい風景や出来ごとを見聞できた自分の人生が、如何に充実しているかということに、限りない幸せを感じないではいられないであろう。
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万里の長城、大相撲、姫路城、などもチラリと見えます。

2010年7月21日水曜日

続マティス:『裸婦』の変遷と進化

キャロル・ヴォゲル(Carol Vogel)
7月11付け、NYTの評論から抜粋

(左から)マティス(Henry Matisse)は滅多に裸婦の後ろ姿を描くことがなかった。という訳で、この1908年から1909年にかけて創られた彫像は、マティスを知る人を驚かせた新方向の作品である。モデルは片方の腕を頭に挙げ、彼女の体は壁の面に密着して立っている。近代美術館(The Museum of Modern Art, New York)所蔵

(次に)この彫像は、マティスの作品の中では、高さ6フィート(183センチ)以上という最大のものである。上の4段階を制作するのに足掛け23年かけた。近代美術館の主任キュレーター、ジョン・エルダーフィールド(John Elderfield)の解説によるとマティスは最初、石膏を削り、その原型から二つ型をとった。一つはブロンズで、もう一つは次の新しい段階を始める石膏の原型とした」ということだ。

(この第三段階では)基本的に曲線で始めた裸婦の彫刻は、全体に角張って、背筋は直線的に変化してきた。従って、裸婦の頭、首筋、髪の毛などの細部も曲線部分が削り落とされている。

(最後に制作された)彫像をコンピューターで分析して制作の変遷と進化をみると、立体部分は、より平板になり、裸婦の背筋は柱のように直立し、全体の構成の中心部となった。

マティスが同時代に制作した代表的な作品ダンス
”Dance," Paris, Boulevard des Invalides:1909年)

この作品は、ロシアの美術収集家サーゲイ・シュチュキン(Sergei Shchukin)の依頼による。

2010年7月19日月曜日

マティス:『水浴』の変遷と進化

ハイテクで分析したマティスの『水浴』

キャロル・ヴォゲル
(Carol Vogel)

7月11付け、NYTの評論から抜粋



マティス:1913年〜1917年間の過激な創造(Matisse: Radical Invention, 1913-1917)』と銘打った展示がニューヨーク、近代美術館(The Museum of Modern Art)で今週から開幕する。これには、X線などのハイテクを駆使し、ティが取り組んだ一つの作品を分析した解釈が、この偉大な画家の試行錯誤を明らかにしているのが見所となっている。

アンリ・マティス(Henry Matisse: 右の写真、背景に『水浴』の一部が見える。 George Eastman House, International Museum of Photograp
hy and Film, Rochester)は、フランスが生んだ画家、版画家、彫刻家で、1869年の大晦日に生まれ、1954年11月3日に亡くなった。マティスは、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)、マルセル・デュシャムプ(Marcel Duchamp)と並んで20世紀の独創的な美術家として名を残した。初期には野獣派(Fauve: フォーヴ)を標榜していたが、1920年代には、フランス派の古典的な伝統を擁護する旗頭の存在となった。色彩や形体の表現の強烈さで訴え、半世紀以上に亘って、近代美術を先導する地位を確保し続けた。

今回焦点を当てた展示作品の主題は川岸で水浴する女たち(Bathers by a River)』で、この作品を水彩で描いたのが1909年、下に示すように何度も再制作し、8年後の1917年にどうやら満足できる結果に到達した。今日まで、美術評論家の間で、何故このような変遷や進化が行われたのかが大きな疑問となっていたが、ハイテクを駆使し、その謎がほぼ解けたようだ。


今回の特別展示は、同美術館の主任キュレーター、ジョン・エルダーフィールド(John Elderfield)と、アート・インスティチュート・オブ・シカゴ(The Art Institute of Chicago)のキュレーター、ステファニー・ダレサンドロ(Stephanie d'Alessandro)によって企画構成された。この展示で、美術展示会では稀な作品分析も併せて紹介し、今までは、画家本人だけが胸にたたんでいた試行錯誤の変遷が明らかにされている。

1909年、発端の水彩画
ロシアの収集家、サーゲイ・シュチュキン(Sergei Shchukin)が彼のモスクワの住居に飾るため、3枚パネルの作品をマティスに依頼した。これは、マティスシュチュキンに提出した試案の水彩画である。

1909年3月〜5月:第一段階
レントゲン写真により、第一段階における、滝やせせらぎを背景に4人の水浴女性の構成が浮かび上がった。(青い線が女性達の存在を示す)

1909年秋〜1910年春:第二段階
マティスはこの段階で、女性の位置構成を変更した。エルダーフィールドの観察によると、大きな女体を風景を背景に構成しているのは、いかにも1909年らしい発想だ。だが、マティスはこの段階では満足していなかった。(黄色い線が女性達の存在を示す)

1913年5月:第三段階
エルダーフィールドの観察:マティスが1913年にパリへ戻った時、画面構成を変更する意図が充分だった。彼がパリ不在だった頃、キュービズム(Cubism: 立体派)が頭角を表し始めた時であった。その動きにマティスが注目を払っていたことは確かだ。(赤い線が女性達の存在を示す)

第三段階:写真技術によって再構成
デジタル写真技術を利用し、第三段階の構成を一旦分解し、再び繋ぎ合わせて構成し直した。このプロジェクトのために特殊のソフトが開発された。歪みを修正し、配列を矯正し、多層のイメージを平板にした。大きな白い空間はマティスの影。マティスの肖像はアルヴィン・ラングトン・コバーン(Alvin Langdon Coburn)が記録した。

1913年11月:第四段階でイメージに再び色彩を加える
新しく開発されたイメージング技術は、画家のパレットにある絵具の色彩を再構成することができる。最終的な完成図から色彩を、古いモノクロ写真の断面を、それぞれ抽出してデジタル方式で再制作し復活させる。
エルダーフィールドの観察:当時、マティスの他の作品と比べてみると、いずれも安定した色彩を使っているのが判る。マティスは鮮やかな色彩から灰色まで使い分けているが、パレットの絵具を見ると、画面で見るより遥かに鈍く暗い色が多い。

1916年:第五段階、バンディング(画面の縦割り)
縦割りの各部分をビデオで見せているが省略。 エルダーフィールドの観察:マティスは、キュービズムが台頭する以前に名声を築いていたが、キュービズムは彼を過去に葬るほどの形勢にあった。マティスはその攻勢に挫けることなく自己の制作に熱中し、キュービズム信奉者たちを押し返すほどの野心的な作品を発表し続けた。

1917年:完成
この作品の初期では、女体が流れるような線で描かれていたが、描き直しの繰り返しで、女体の線は直線的で抽象的となり、最後には全てが幾何学的な構成となった。
エルダーフィールドの観察:注意深く観察すると、こうした女体は初期のものの亡霊であることに気付く。従って、ハイテクによる分析で知らされる以前に、この完成画で画家が行った作品の変遷や進化が理解でき納得させられるであろう。

2010年7月15日木曜日

アメリカ人の顔色が変わる

高橋 経(たかはし きょう)
2010年7月15日

原住アメリカ人は赤ら顔

今を去る518年前、1492年10月12日、大西洋を西に向けて航行していたコロンブスの船にいた乗組員の一人が島を認めた。その島は今日のバハマ島(Bahama Island)で、それが『コロンブスのアメリカ大陸発見』として後世まで語り伝えられることになってしまった。


その『発見』は『侵略』につながり、そしてヨーロッパ諸国に広まり、『開拓』という名の下に組織的かつ熱狂的な侵略が実践され、北アメリカ大陸は隅々まで白人の所有するところとなった事実は、どなたもご承知のことであろう。1492年以前には、北アメリカに住んでいた原住民が、理論的には『生粋のアメリカ人』なのだが、通説によると、コロンブスバハマ島に着いた時、インドに到着したと勘違いして、原住民を『インデアン』と思い込んだのだそうだ。『間違い』が改められないと、それが正当化されて今日まで通用していまうのだから恐ろしい。

人種の間違いが正当化されるだけなら、流説に逆らうことなく心ならずも『生粋のアメリカ人』を便宜上『インデアン』と呼ぶことにするが、侵略的な開拓精神が正当化されると、侵略された原住民たちは、自己防衛のために『侵略者』たちの行く手を阻もうと戦うのは当然であろう。不幸にして、彼らの必死な抵抗も空しく、ヨーロッパからの侵略者たちは優位な武力をもって『インデアン』という名の原住民を殺戮し、住居を焼き払い、土地を奪い、残党を追放し、合衆国を築き、『アメリカ人』という人種名まで獲得してしまった。


侵略アメリカ人は白い顔

19世紀の初頭には、太平洋沿岸はまだメキシコの領地だった。当時はまだ野趣に富み、スペインの僧侶たちがミッション(Mission)という布教活動をするために、沿岸各地に点々と教会を設置した以外、住民は貧しいなりに、のどかで牧歌的な暮らしを楽しんでいた。19世紀の半ば、白人の開拓軍は一方的にメキシコ政府に戦争を挑み、一方的に勝ち名乗りを擧げた。当時のメキシコ政府は、カリフォルニアが首都から遠隔で不便だったので、争う気もなく敗退した。


かくして、カナダを除く新世界/新大陸(The New World)』の北米大陸はヨーロッパ系の白人のものとなった。1849年、カリフォルニアで金が発見されたのはメキシコ戦争の直後で、それを知ったメキシコ政府は地団駄を踏んで口惜しんだが後の祭りだった。金発見のニュースが東部に伝わるや開拓民が西へ西へと殺到した。これがいわゆるゴールド・ラッシュ(The Gold Rush)』の到来である。

人や物を、迅速かつ大量に運搬できる将来性を見越し、鉄道が建設されて東西を結び、電信が張り巡らされ、19世紀の末期には産業が発展し、自動車を始め各種の発明が生まれ、アメリカ工業国に変貌していった。

それに先立って南部では、労働力の必要からアフリカ黒人を多数、組織的に誘拐し奴隷制度を築いた。これが南北戦争の切っ掛けとなるのだが、同胞相い争う惨憺たる流血の挙げ句、北軍の勝利で、次世代の公民権運動につながった。

黄色い顔のアジア系アメリカ人


中国人を主とするアジア系の人々が移民してきたのは金発見の直前で、大半は重労働で危険を伴う鉄道建設に貢献した。同時に農業を志す日本の若者も、耕地を求めて続々とアメリカ大陸に移民してきた。人種間の軋轢が生じたのもこの時代の特長であろう。白人優越の思想『開拓民』の間にあったことは苦々しい事実である。

こうした動乱期を経て、アメリカ合衆国は政治経済ともに世界の大国となり、20世紀を迎えた。第一次世界大戦に参戦し、1930年代の不況時代を切り抜け、1939年の秋、ナチ軍のポーランド侵入で火ぶたを切った第二次世界大戦には孤立中立を図っていたが、日本の挑戦に応じて参戦、太平洋戦争で百万人単位の犠牲を払って戦勝にこぎ着けた。


戦後、アメリカの経済発展は、敗戦国日本の復興と並行して上り坂を駆け上がったが、1975年のエネルギー・ショックでやや停滞した。


顔色が変わり始めたアメリカ人

エネルギー・ショックから立ち直った1979年、アメリカ人の顔色に僅かながら変化が見られるようになった。改めて『顔色』を定義付けてみよう。


白人(White; or Caucasian):アメリカ建国当時、国語を英語にするかドイツ語にするかで対立したが、アイルランド人を含むイギリス人が数の上でドイツ系の移民を上回ったので、英語がアメリカ語として採用された、という経緯がある。ヨーロッパから来た移民は、おおむね『白人』として分類される。

黒人(Black; Negro; or Negroid):アフリカから拉致された肌の黒い人々だが、最近では『政治的に正しい(Politically Correct)』
表現として『アフロ・アメリカ人(Afro-American)』と呼び、『黒人(Black)』とは呼ばないようにしている。
スペイン系、ラテン系、またはヒスパニック(Hispanic):といってもスペイン人の移民は考慮されていない。アメリカでは、メキシコ系やプエルト・リコ(Puerto Rico: 西インド諸島の一つでアメリカの自治領)系の人々を指す。
アジア系(Asian):日、中、韓、を始め、東南アジアからの移民で、『本当の』インデアン(インド人)も含まれている。

インデアンご存知、原住民だが、これも『政治的に正しい』表現として『原住アメリカ人(Native American)』と呼ぶようにしている。人口比率が1〜2%と、余りにも少ないので、図表では『その他』の中に含まれている。

今日、2010年の人種別の割合いを1979年と比べてみると、白人比率の後退と、ラテン系の増加が目立つ。今から40年後のアメリカの人口は、国連(United Nations) の予測では4億4百万人、アメリカ国勢調査(The U.S. Census Bureau)の予測では4億2千2百万から4億5千8 百万人と、いずれも1億人前後の増加を見積もっている。

そして、スミソニアン誌(Smithsonian)8月号の報告によると、今から40年先の2050年には白人比率は更に後退し、ラテン系が更に増加すると予測している。それに伴って、僅かながらアジア系の人口比率が増加するというのも見逃せない。黒人人口の比率に余り変化が見られないのは意外な現象だ。

今から40年先、人種や人口の変化もさることながら、社会環境、政治、国際情勢にも大きな変化が起きることであろう。だが、それまで生き延びられるかどうか、という疑問も少なからず残る。


変わるとしたら、戦争や貧困のない平和な地球になって欲しいものだ。

2010年7月11日日曜日

遂に人工細胞ができた!

志知 均(しち ひとし)
2010年7月8日

J. クレイグ・ヴェンター(J. Craig Venter:左の写真)のグループが今年5月に人工細胞(synthetic cell)をつくるのに成功したと発表したニュースは、生物科学者の間だけでなく、TV、 NPR(公共ラジオ)など広くマスコミで最近話題になっている。20人の研究者が10年かけ、4,000万ドルの研究費を使って成功させた。

人工細胞の合成実験は、バクテリアの中では染色体が最も小
さいといわれるマイコプラズマ・マイコイデス(Mycoplasma mycoides以下M. mycoidesと表記:の写真)を使って行われた。この選択にはマイコプラズマ(Mycoplasma)に関するVenterグループの長年の研究成果が土台になっている。まずこのバクテリアの染色体(600,000個のDNA塩基の連鎖)を試験管の中で作成した。次にM. mycoidesと近縁のマイコプラズマ・カプリコラム(M. capricolum)の細胞から染色体を除き、合成したM. mycoidesの染色体を代わりに注入した。この細胞を培養すると野生のM. mycoidesと同じように増殖し、増殖した細胞は、M. capricolumには無く、M. mycoidesに特有のタンパク質を合成した。

この実験では、染色体だけを合成し、その他の部分はM. capricolumのものを『借りて』いるので、厳密には完全に人工的に細胞を作ったとは言えないが、人工の染色体がM. capricolumM. mycoidesに変化させ増殖させた意義、つまり人工遺伝子がコントロールして増殖細胞を作った意義は大きい。(下の図表を参照:ニューヨーク・タイムズ紙から)

「これで生命とは化学物質の相互作用でできる現象でしかないことが証明された」と言う人さえいる。生命の神秘性に対する科学の挑戦が、哲学者、倫理学者、宗教者たちへ問題を提起することは間違いない。


人工細胞をつくる遺伝子工学の技術はあらゆるタイプの人工染色体を導入した細胞を作ることを可能にするので、その有用性(医薬品を作らせるなど)危険性(テロリストが病原菌を作るなど)は測り知れない。一般にはまだ十分認識されていないが、人工細胞の生成は前世紀の原子核分裂による核エネルギーの生成に匹敵する『事件だと指摘する人もいる。

(顕微鏡写真のクレヂット:Tom Deerinck and Mark Ellisman, National Center for Microscopy and Imaging Research, University of California, San Diego
Scanning electron micrographs of M. mycoide)

2010年7月5日月曜日

頭を働かせよう


頭脳を刺激し、働きを活発にする香辛料

医学博士ダニエル・エイメン
(Daniel G. Amen, M. D.)


AARP誌、6月号から転載



最新の科学研究調査によると、下記5種の香辛料が頭脳の働きを刺激することが証明された。

1. ウコン(turmeric):ウコンは、インドで栽培されるショウガ科の植物の根。インド人は、カレー(curry)を常食にしているが、認知症(Alzheimer's desease)の発病率はアメリカの4分の1しかない。今日、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(A University of California, Los Angeles; UCLA)でのネズミ実験によると、ウコンの主成分でありカレー独特の黄色味をつけるカークミン(curcumin)の食品研究調査家たちは、脳皮質に溜まるアミロイド(amyloid: 最下段の『』を参照)の垢(あか)を分解してしまうことが確認された。アミロイドとは、脳神経細胞に蓄積して、正常な神経作用を阻害し、認知障害を起す原因になるタンパク質のことである。

その摂取法の一例:脳の働きを活発にするサラダカレー粉を茶さじで2杯。トリ肉の角切りをコップ2杯。オリーブ油に漬けて炒めた後冷ます。干しぶどう、角切りのリンゴ、みじん切りのアーモンド、細切りにしたセロリ、ロー・ファット(low fat)のヨーグルト、などを混ぜ合わせて召し上がれ。


2. ショウガ(ginger):最近の研究によると、軽い頭痛を訴える偏頭痛患者の80パーセント以上が、ショウガと薬草の混合したものを摂取したら痛みが治まった。摂取後2時間で、48パーセントが回復し、34パーセントが痛みが軽くなった。ミズーリ州スプリングフィールド(Springfield, MO)にある頭痛治療センター(The Headache Care Center)のディレクターで著書も出している医学博士ロジャー・キャディ(Roger Cady, M. D.)「もし頭痛が激しい痛みから遠ざかれば、先ず成功と言えるでしょう」と満足している。

その摂取法の一例:すり下ろしたショウガを茶さじで3杯。それを1コップの沸かした湯に入れてかき回す。火から下ろし、10分間待ち、漉して飲む。


3. ニンニク(garlic):ニンニクが心臓病に効果があると言われたから久しい。ニンニクは又、脳ガンにも効果がるとも言われている。キャンサー誌(Cancer)に掲載された2007年の研究によると、ニンニクの成分は脳のガン細胞を除去する作用を持っていることが確認され、ニンニクを主成分とするガン治療法が確立されるのは遠いことではない、と予言していた。

その摂取法の一例:
茶さじ半分のニンニク粉または、生ニンニクの1片か2片とトマトバジル(basil:シソの一種)と混ぜあわせてマリネード風にして使う。


4. シナモン(cinnamon):テニスや他のスポーツで、運動神経を迅速にしたかったら、シナモンのチューインガムを噛むのが手っ取り早い。最近の研究によると、シナモンを吸収することによって、脳が視覚から得た物事の情報を判断し処理する過程を促進させる、ということが判った。ガムが運動神経を促進させると考えられる理由は、シナモンは血液に含まれている糖分を調節する作用をもっていることで、一挙一動に神経が集中できるのである。

その摂取法の一例:
茶さじ一杯のシナモンを、オートミールなどの朝食にふりかける。


5. サフラン(saffron:アヤメ科の一種でメシベの柱頭を乾燥させた香辛料):鬱病の気ありや?トランキライザーなど、精神安定剤に手を伸ばす前に、刺激の強い薬草を試用することをおすすめする。テヘラン大学(University of Tehran)で研究された実験によると、サフランを一日に2回服用すると、精神安定剤(Prozacのような)と同様の効果があることが判った。

その摂取法の一例:
コップ2杯の米を炊く前の水に、茶さじ半分のサフランを混ぜる。

:この記事では『アミロイド(amyloid)』と『アミローズ(amylase)』をとり違えられたのではないかと思いました.アミローズは確かにデンプンのことです。念のため、研究社の英和辞典を引いてみますと、アミロイドデンプン様物質と書いてありますが、昔はそのように使ったかも知れませんが、今ではアルツハイマー病(認知症)との関係でアミロイドと言えば、厳密にはベータ・アミロイド・ペプチド(beta amyloid peptide)のことを指します。このペプチドは、粘着性が高く、大きな凝集体を作って神経細胞にくっつき、正常な機能を阻害します。(志知 均)