2010年6月3日木曜日

ワクチンは万能薬になり得るか?

万能薬(PANACEA)

志知 均
(し ち ひとし)
2010年5月

ヒトのからだの内側や表面には細菌(バクテリア:Bacteria:上の顕微鏡写真)ビールス(virus日本ではウイルスとも発音する。右の模型はHIVビールス)が びっしり寄生している。その99%以上は無害であるが(腸内細菌のように無害どころか健康に必要なものも ある)、わずかの種類のバクテリア(100種位)やビールス(50種位)が手ごわい病原体である。

ヒトの病気は感染性のものと非感染性(遺伝病,内臓の故障など)の ものに大別できる。非感染病をくすりで全治するのは難しいが、感染病の多くは現在の医療技術で 全治可能である。20世紀半ばに抗生物質が発見されてからはバクテリアに よる感染病は恐くなくなった。しかし、世界各地に広まっブタ・インフルエンザ(H1N1)のよ うな
ビールス病は抗生物質 が効かないので恐慌をきたす。(ビールスは核酸とタンパク質 と脂質でできた高分子化合物で生物ではないから抗生物質は効かない。)特定のビールス病を予防する『くすり』ワクチン(Vaccine)しかない。

ワク チン効果は抗生物質の発見より150年以上前に発見された。まさに特異な才能による掘り出し物話(Serendipity)なので、免疫学 の教科書に載っているワクチン発見の記述から抜粋してみよ う。

イギリスの田舎の開業医だったエドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は、ウシ痘(Cowpox)に かかった乳搾りの女性患者から、一度ウシ痘にかかると、ヒト天然痘(Smallpox)にかからなくなると言われていたこ とを知る。調べてみるとその通りなので、確かめるために実験をした。ウシ 痘患者の手から採取した痘膿を8才の男の子の腕に注射し、6週間後に
ト天 然痘の痘膿を注射した。20回注射しても男の子は天然痘を発病しなかった!こんな実験は現在では非人道的だと非難 されてできないが18世紀には可能だった。(左上、18世紀のイラストは、種痘に殺到する人々)

ジェ ンナーは1798年にこの治療法をワクチネーション(Vaccination)と命名して発表した。 この言葉はウシを意味するラテン語Vaccaに由来する。それから80年後の1878年に、ルイ・パスツール(Louis Pasteur右の写真)は、 自分が分離したニワトリのコレラ菌(Pasteurella multocida)の研究を していた。培養中の菌をそのままにして夏の休暇に出かけた。帰ってからニワトリに培養菌を接 種する実験を続けた。その結果は、新しく培養した菌を接種したニワトリは発病して死亡するが、休暇中放置した菌を接種したニワトリは発病しても数日後には 回復し、その回復したニワトリに新しく培養した菌を接種しても発病しなかった。パスツールは、放置された間に毒性が弱まった菌を接種すると新しい菌に対し抵抗性を獲得すると考え、毒性の弱まった菌をワクチン(Vaccine)と命名した。

現在の免疫 学からみれば、ジェンナーの場合はウシ痘
ビールス天然痘のビールス(共にPoxvirusと呼ばれる)が似ているため、ウシ痘ビールス接種でできた抗体が、天然痘ビールスを不活性化して発病を防いだのであり、パスツールの場合は毒性の弱まったコレラ菌(抗原)に対してできた抗体が 同種で毒性のあるコレラ菌を不活性化したと解釈できる。

20世紀には多数のワクチンが薬品会社によって商品化され、色々な感染病の予防に役立ってき た。1963年、メルク社(Merck)の 研究所に勤めるモーリス・ヒルマン(Maurice Hilleman)の娘がオタフクカゼ(Mumps)に罹った。ヒルマンは、娘の喉から綿棒で病原ビールスを採取し、それを抗原としてワクチンを開発した。そのウイルスは、現在もオタフクカゼ・ワクチンの製造に使われており、麻疹(ハシカMeasles)風疹(フウシンRubella)ビールスに対するワクチンと共にメルク社MMRワクチンとして幼児の 予防接種に広く使われている。予防接種のお蔭で、先進国におけるMMRは 事実上撲滅された。

20世紀後半には ワクチンでは治らない癌、心臓病、糖尿病、肥満、関節炎、精神病、老人性脳神経疾患(認知症とも言う)などが、病気のリストの上位を占めるよ うになってから、最近までワクチン製薬の開発に積極的では なかった薬品業界が、活発に研究調査を始めた。勿論それにはそれなりの理由がある。新薬が連邦政府食品医薬品局(Federal Food and Drug Administration: FDA)の 認可を得て処方薬(prescription drug)と して薬局に並ぶまでには、動物実験、臨床実験を数段階経て有効性と副作用の有無が厳しく確認される。そのための費用は一つの薬につき8億ドルを超すといわ れる。従って薬品会社は認可後数年の間に開発費用を上回る収益をあげなければならない。

しかし、新薬が広く使われるようになったとしても、ひどい副作用のケースが出ると生産中止になり兼ねない。(メルク社が開発した関節炎の特効薬ヴァイオックス(Vioxx)は、心臓発作や脳卒中 などの副作用を起す危険があるとして販売が中止された。)

また化学合成薬は合成の特許が切れると安い競争商品が出回って収益が激減する。(例えば、ファイザー社[Pfizer]は、稼ぎ頭のコレステロール降下薬リピトール(Lipitor)の特許が2011年に切れるので、次の目玉商品を開 発することが急務だ。)化学合成薬に比べ、ワクチンの 開発費用は一件3億ドル位に抑えることができ投資効率がよい。またワクチ ンは病原性のないものを使えば副作用はなく、特異性も高い。このような理由でHIV、ヘルペス、ウエスト・ナイル(West Nile)ビールスEBV(Epstein-Barr Virus:リンパ腫を起す)巨細胞ビールス(Cytomegalovirus: 肝炎、肺炎などを起す)H1N1などのビールス抗生物質に耐性になったバクテリア(Pseudomonas, Staphylococcus,M. tuberculosisなど)ワクチン開発が進められている。

従来のワクチンは、弱毒性あるいは不活性にした病原体を使用したが、これに代わる新しいワクチンも開発されている。その一つがDNAワクチンHIVH1N1
ビールス のように突然変異を起こし易いものは安定なワクチンになり 難い。しかし、ビールスの蛋白部分で変化しない部分もある。その部分の情報をになう核酸の部分を、DNAとして大量に作り、それを 接種して体に抗原蛋白を作らせ、更にそれに対する抗体を免疫系につらせようというもので、特性が高く、安定で製造コ ストも低いので大いに期待されている。

ここまで書いてき たワクチンは主として予防ワクチンだ が治 療ワクチンの開発も進んでいる。治療ワク チンとは既に病気になった細胞や組織に特異的に現れる抗原蛋白を標的 にするもので、たとえば癌細胞の表面にある蛋白とか、自己免疫病の発現に関係する免疫細胞に特異的な蛋白が標的になる。老人性脳障害(Alzheimer’s, パーキンソン氏病Parkinson’sなど)は脳 神経細胞の作用が、異物の蓄積で異常になるのが原因で起きることが多いから、それを起こす蛋白が確定されれば、その蛋白を標的にしたワクチンで治療できる。

更に研究が進めば、心臓病や糖 尿病の治療、アルコールや薬物(Drug)依存症の治療、妊娠中絶、老化防止などに有効なワクチンができるかもしれないが、ワクチンが万能薬(Panacea)になるかどうかは将来の課題 である。

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