2010年5月29日土曜日

メモリアル・デーに寄せて

5月31日、月曜日は『メモリアル・デー(Memorial Day: 戦没者追悼記念日)』でアメリカの祝日です。各地で在郷軍人に関わる各種の行事が執り行われます。第一次大戦の最後の生き残りの老兵が100才で他界したとニュースで報道され、第二次大戦のベテランがハワイの真珠湾に集まり、戦艦アリゾナの記念碑での追悼は年中行事になっています。つい数時間前テレビでは日米合作映画、真珠湾攻撃にまつわる状況を描いた『トラ、トラ、トラ』が放映されました。

そうした環境の中で、日系二世のキャシー・ヤマダが書いた小さな記事がカリフォルニアのサンルイス.オビスポ紙(San Luis Obispo Press)に掲載され光っていました。今回は、その記事をご紹介いたします。


彼女は夫と共に32年間ブラジルの日系移民の布教に従事した後引退し、現在はアロヨ.グランデ(Arroyo Grande)に住み余生を送っています。-------編集、高橋-------

第二次世界大戦で奮戦した二世たち
キャシー・ヤマダ(Cathy Yamada)

今年も巡ってきたメモリアル・デーに当たり、私は日系アメリカ人の一人として、第二次大戦中、戦闘に参加した二世アメリカ軍人たちに敬意を表さない訳にはいきません。彼らは、その家族たちが『敵性国民』というラベルを貼られ、家や財産そ放棄させられ、捕虜収容所のようなキャンプで暮らすことを余儀なくされていながら、アメリカの軍隊に志願して入隊したのです。

戦後何年も経ってから私の父はやっとアメリカの市民権を取得し、私の子供たちは偏見や差別に苦渋することなく自分達が望む道に進むことができるようになりました。


今やアメリカ人は全て、こうした控え目で目立たない日系アメリカ兵士たちの英雄的な行動を知って認める時です。彼らのスローガンはその気構えと実践を示すゴー・フォー・ブローク(Go For Broke: 当たって砕けろ)」でした。私は、このメモリアル・デーに当たって、彼らの貢献を感慨深く思い起こします。

私は、安普請の(捕虜)収容所にいる二世兵士の母親が、息子が戦死した通知を受け取った時の心情を考え浮かべると胸が痛みます。

442連隊に所属していたマスダ・カズオ軍曹は、イタリーのカッシノ(Cassino)で戦死した後、優秀功労賞の勲章が授与されました。でも軍隊の規則に従い、ジョセフ・スティルウエル将軍(General Joseph Stillwell)は、移民の母親にでなく、アメリカで生まれたカズオの妹に勲章を手渡したのです。(右の写真は、上記と同様の状況だが、該当の人物であるかどうかは確認できなかった)


1944年の秋迷子のテキサス大隊(The Lost Battalion)』として知られる戦闘中の事件がありました。約300名のテキサス大隊がフランスのボスゲス山(Vosges Mountain左の写真)の戦線でナチ軍に包囲され、後方との連絡が遮断されて孤立してしまったのです。100442合同連隊が6日間かかった血みどろの戦いで2000人の死傷者を出し、やっとテキサス大隊を救出することができました。

この功績が認められ、ジョン・ダァルキスト将軍(General John Dahlquist)が戦場へ赴き、11月12日に表彰式が行われました。そこに整列した第100第442の合同連隊は、本来なら4500名の内500名だけでした。それに気が付いた将軍は「他の兵隊はどこへ行ったのだ?」と不満をもらしたのです。合同連隊の指揮官だったヴァージル・ミラー大佐(Colonel Virgil Miller)
頬に涙を流しながら「閣下、これが全員なのです。」と答えたということです。

『迷子のテキサス大隊』救出作戦は、230年に亘るアメリカ軍隊史で10指の一つに数えられる偉大な功績となっています。究極的に、二世部隊は7つ連隊賞を始め、数多くの大統領賞を、連隊全員14000人はその英雄的な戦闘の貢献や功績で、個人賞として合計18000個のメダルや勲章を授与されました。アメリカ軍隊史で、二世部隊は最も多く顕彰された連隊として記録されています。(右は、トルーマン大統領から握手を求められた二世負傷兵。トルーマンは、公式の閲兵の際「君達は、敵軍と戦ったばかりでなく、偏見や差別とも戦って、いずれも勝ち取った」と二世部隊を賞賛した。)

別の二世たちが6000人、太平洋戦線でアメリカ軍隊の一部門である超秘密情報機関、ミリタリー・インテリジェンス・サービス(The Military Intelligence Service MIS: 軍事情報機関)で活躍していたことも特筆に価いします。二世兵士の仕事は、日本兵捕虜の訊問(左の写真)や、第一線での暗号解読などが含まれていました。

こうした二世兵士たちが獲得した日本軍の情報はアメリカ軍の作戦を有利に導き、戦闘期間の短縮を可能にしたと言われています。チャールス・ウイロビー将軍(General Charles Willoghby)は、これで起こりうる死傷者の数を大巾に減らすことができた、と認めています。


ジョージカルビンサイトウ兄弟は、共に二世兵として入隊しました。ご他聞に洩れず、彼らの家族は収容所暮らしを余儀なくされていました。

カルビンが戦死した時、ジョージは収容所にいる父親に手紙を書き送りました。その一部には「、、、カルビンの活躍のお陰で何人もの兵隊が救われました。、、、お父さん、今僕ら兄弟が入隊したことを不満に思っていた貴方を説得するのに最適な時だとは思えません。でもカルビンが命を捧げた今、僕の胸の中だけに収めている訳にいかない事があるんです。僕たちが志願して入隊したことを『愚かな間違いだ』などと誰にも言わせないでください。僕は、この戦闘に参加して以来、時が経過するにつれ、過去の事(差別され迫害を受けたこと)がどんなに辛かったとしても、僕らの決心は正しかった、と確信が持てるようになったのです。アメリカという国は本当に素晴らしい国です。だから、もう決して僕らの決断を非難しないでください」と訴えていました。


悲しいことに、ジョージ・サイトウは、この手紙を送った3ヶ月後に戦死しました。


今日、我々は非常に不安定な国際情勢の中で生きています。私はこうした社会情勢にあってこそ、軍隊の活躍や犠牲者のお陰で我々の安全が守られているということを真剣に考える必要があると思います。第二次大戦の折りに命を賭けて我々の自由(freedom)を守って死傷した軍人たちに栄冠を捧げます。


今年、 2010年のメモリアル・デーに当たって、私の心は、国の為に命を捧げた多くのジョージ達カルビン達に対する感謝の気持ちでいっぱいです。

二世部隊』に敬礼。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

二世たちの命を賭けた戦闘は、一口に『愛国心』で片付けられません。彼らは『敵性国民』というラベルを否定すべく、アメリカを守るために命を賭ける行為によってのみ、国家への忠誠を立証できると信じたのです。その心情に思い当たると、胸が熱くなります。事実、彼らの戦闘ぶりが報道される度に、白人の間にわだかまっていた日系人への偏見が雲消霧散していったのです。