2009年12月30日水曜日

2009年に逝った48人の人々

[お断り:48人が全てではありません。一部の業界内で知られている人々:例えば企業の幹部や重役、絵画やデザインのような専門業界、などの物故者は国際的に知名度の高い方以外は除きました。日付けは日本時間とアメリカ時間の両方を適宜に使っていますので多少の誤差があるかも知れません。ご諒承ください。]

新年に先立って、2009年に亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

1月8日:牟田梯三、俳優、80才:★1月14日;リカルド・モンタルバン(Ricardo Montalban)、米俳優、88才:★1月16日アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)、画家、91才:★1月27日ジョン・アップダイク(John Updike)、米作家、76才

1月27日柿沢弘治、元外相、80才:★2月2日山内一弘、野球選手、監督、76才:★2月21日中村又五郎、歌舞伎俳優、94才:★3月25日遠藤幸雄、五輪金メダルの体操選手、72才

3月27日藤間紫、日本舞踊家元、85才:★5月2日忌野清志郎、ロック歌手、58才:★5月3日高英男『雪の降る街を』などの歌手、90才:★5月8日藤沢秀行、囲碁棋士、83才

5月11日三木たかし『津軽海峡冬景色』などの作曲家、64才:★5月21日トーゴ・タナカ、二世ジャーナリスト、93才:★5月23日盧武鉉(ノムヒョン)、韓国前大統領、62才:★5月26日栗本薫『グイン・サーガ』などの作家、56才

5月27日石本美由起『憧れのハワイ航路』などの作詞家、85才:★5月30日ロナルド・タカキ、二世、少数民族学者、80才:★6月25日マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)、ポップ歌手、50才:★6月25日ファラ・フォーセット(Farrah Fawcett)、米女優、62才:

6月27日永田七恵、マラソン選手、53才:★7月1日カール・マルデン(Karl Malden)、米俳優、97才:★7月6日ロバート・マクナマラ(Robert McNamara)、元米国務長官、93才:★7月17日ウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)、ニュース評論アンカー、92才

7月21日若杉弘、新国立オペラ芸術監督、74才:★8月1日コラツォン・アキノ(Corazon Aquino)、元フィリッピン大統領、76才:★8月2日古橋広之進、世界新記録を出した水泳選手監督、80才:★8月3日大原麗子、女優、62才

8月8日ロバート・タカスギ、二世、US地方裁判官、78才:★8月12日山城新伍、俳優、70才:★8月13日レス・ポール(Les Paul)、米エレキ・ギター発明者、奏者、94才:★8月18日金大中(キムデジュン)、元韓国大統領、85才

8月25日エドワード・ケネディ(Edward Kennedy)、米上院議員、77才:★9月14日パトリック・スゥエージィ(Patrick Swayze)、米俳優、57才:★9月16日メリー・トラヴァース(Mary Traverse)、ピーター、ポールと共にフォーク歌手、72才:★9月21日庄野潤三『夕べの雲』などの作家、88才

9月25日土井正三、野球選手、67才:★9月25日アリシア・デ・ラローチャ(Alicia de Larrocha)、スペインのピアニスト、86才:★9月29日中山悌一、バリトン歌手、二期会創立者、89才:★10月7日アーヴィング・ペン(Irving Penn)、米写真家、92才:

10月20日原田康子『挽歌』などの作家、81才:★10月21日南田洋子、女優、76才:★10月29日三遊亭円楽、落語家、76才:★11月10日森繁久彌、俳優、96才

11月13日田英夫、元参院議員、86才:★11月16日水之江滝子、女優、94才:★11月24日丘灯至夫『高校三年』などの作詞家、92才:★12月13日ポール・サミュェルソン(Paul Samuelson)、米経済学者、94才

2009年12月29日火曜日

笑う門には、、、

2009年が終わります。日米ともに政権交代、不況はそれなりに落ち着いたものの先行きの光明が見えません。泥沼の戦争はいつ果てるとも見通しがつきません。それでも我々は何とか希望をつないで生きています。嫌なことは『忘れて』とは申しません。忘れないまでも、『棚上げ』にして楽しいことを考えましょう。例えば無欲に生きる動物たちや、無邪気な子供たちのこと、私どもの心配事は彼らには無関係です。少なくとも私どのの悩みを彼らに分かつ替わりに、彼らの無邪気さを分けてもらったら、何となく気持ちが落ち着いて楽になるでしょう。

[ここに掲げた写真は、不特定多数の方々から転送に転送を重ねて届いたもので、残念ながら撮影した人々の名は不明です。]

おかしな奴ら
これ首輪?(左);「のどが乾いた」(中);寝相が悪いゾ(右)

ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ(左);おっと危ない(中);くたびれた(右)

友愛精神で

犬とひよこ(左);犬とオウム(中);猿とハト(右)

踏まれても友(犬と猫)(左);「お先にどうぞ」(中);にらめっこ(右)

シカとウサギ(左);踏まれても友(ニワトリと猫) (右)

子供たち

ダンスはお上手(左);2才のマリリン・モンロー『7年目の浮気』に出演 (右)

「起してェ」(左);「舐められてたまるか、舐めてやる」 (右)

眠れ、眠れ、眠れ良い子よ

犬が笑う、猫も笑う、そしてあなたも

「来年のことを言うと、、、」 笑う門には良い年がくる

2009年12月28日月曜日

日本人の執着(こだわり)

[編集註:この記事は、あくまでも筆者の個人的な観察であり感想ですが、その底に日本人が気が付かない国民性を明快に指摘している部分があります。外国人の目に映った日本人批評を素直に理解してみてください。それから、文中に『おたく』という言葉が出てきますが『おたく仲間』とか『おたく族』など、新語として使われているようです。]

ロジャー・コーエン(Roger Cohen)
12月14日付けNYTの随筆から

東京発:私は日本(製)トレッドミル(乗ったベルトが廻り、屋内の定位置で走る運動ができる機械:右下の写真)に乗り、目の前の計器のスクリーンを見つめながら走り始めた。計器がスピードを示すのは勿論だが、食べ物や飲み物のイメージが現われ、その都度カロリーが表示されるのに思わず目を見張ってしまった。

私の歩行速度が早くなるにつれ、それによって消費されるカロリーとそれに匹敵する飲食物がスクリーンに現れる仕掛けである。35カロリーでクリーム付きのカプチノ、75カロリーでマグロの握り鮨2個、126カロリーでアイスクリーム・コーン、150カロリーでビール1杯、204カロリーで優雅なコップになみなみと日本酒、325カロリーでチーズケーキ、といった具合。カロリーが450に達した時、汗だらけの目に映ったものは、コロッケ夫人(a Croque Madame)が推奨する卵焼きがのったサンドイッチだった。その先何がスクリーンに現れるか、私の理解力が及ぶところではない。


今まで行った日本以外のジムでは、こんな度を過ぎた表示をする計器を見せつけられたことはなかった。私が奇妙に思うのは、こうした画像で示す飲食物は避けるべきだ、という暗示なのか、または運動が済んだ後で味わってみろ、という積もりなのか、それとも「苦あれば楽あり」の哲学をまざまざと見せてくれているのか、製造者の意図は測り兼ねる。そうでなければ、製造者は単に、ニューヨークのレストランで表示している例のカロリー計算表の類いとして組み込んだに過ぎないのだろうか?

これは私には納得がいかないことである。私が冷えたビールをゴクンと呑むとか、握り鮨を口に入れた時の舌ざわりを想像しながら遊び心に執着したスクリーン画面に見入っている自分自身に、何やら妙に日本人的になったような感じがしてしまう。これは、ビデオ・ゲームの画面に熱中して取り組んでいる世界中のガキ共のことを言っているのではない。少なくとも私の知っている範囲で、これほど幻想や現実逃避がコンピューターを通じて強烈に生活に溶け込んでいる国は見たことがない。


実際、日本語におたくという言葉があって、それは電子的なものとか、変わった趣味とか、漫画本とかに限らず、カミカゼから変態的なセックスに至るまで、あらゆる題材の何かに興味をもち偏執狂的に執着する傾向がある社会全体を意味する。


パトリック・スミス(Patrick Smith)はその著書日本:その再評価(Japan: A Reinterpretation)』の中で「おたくとは、私的な個人における最終的な言葉である。それは保護された自我を傷つける誰かを拒絶し、真っ当に親密な人間関係を築く能力がないことを認めることである」と解説している。 我々が、テクノロジーに刺激され、自己中心主義に凝り固まり、自分だけの世界に閉じこもって、コンピューター中毒
世界に溺れているおたくの一人一人になってしまう、という状況を考えてみるとよい。

私が思うに、この傾向を助長している四つの要因経済的な満足感(不況にも拘らず依然として残っている)、近代化の後遺症(ハイテクの負の面);全体的な慣習への順応性(大和民族の一員であることの安心感);無目標(無希望、絶望につながる)、などが考えられる。日本は経済的に豊か過ぎ、国家の目標と共に退屈過ぎ、(規則に)拘束され過ぎ、陰鬱過ぎているため、遊び半分の逃避主義や風変わりな執着(こだわり)に魅せられて夢中になるのだと思う。

確かに日本は経済的に恵まれている。かれこれ20年前に大きなバブルが崩壊して以来、デフレの不況にありながら、実際には日本で個人資産の総額は約1468兆円(約16兆ドル)と、世界で二番目の高額水準を示している。その額は、経済恐慌に対処するに充分であるが、その一方、且つては予測できた(安定した)雇用関係が崩れかかってきている。


また、日本は少し停滞している。大日本会社(Japan Inc.)』が発展途上にあり、東京のアメリカ領事館でマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)が駐日大使だった頃は「日米は相互に障害なく世界で最も重要な結束関係にあり、、、」と言明でき、日本が(経済的に)アメリカを乗っ取るのではないかという危惧さえあった。今やそれは昔話となり、中国経済が脅威となっている時代である。


言い換えると、日本は近代化が終って、ヨーロッパの条件を受け入れるアジアの窓口という沈滞期に陥り、世界で不安定な地域の一つとなった。私が三井物産の幹部コヤマ・オサム氏に「遠からず中国が世界第二の経済大国になるであろう」という話をしたら、彼は「それは構いません。我々は皆さんによく話すのですが、日本は且つてドイツを追い越して世界第二位の経済大国になったのですが、それによって得たものはありませんでした。我々の地位は下がりつつあります」と答えた。


数々の出来ごとが、新たな無関心さを日本企業の戦士たちに吹き込んでいる。その無関心さは蔓延した画一主義と共存している。日曜毎に宮城周辺が通行止めになると、当然自動車は走っていない。にも拘らず歩行者は赤信号が青に変わって歩行のサインがでるまで横断歩道を渡らずに待っている。人々の笑い方まで画一的で、壁が笑っているみたいだ。

最後に、陰鬱ムードは国家的な現象のようだ。最近、半世紀に亘る自民党の政権独占に終わりを告げ、鳩山由紀夫民主党が当選したにも拘らず、誰も私に、日本の、そして日本企業の雇用問題の最悪時期はもう過ぎて景気が回復する、などとは言わない。鳩山首相は新時代を友愛の時代と呼んでいた。また彼は、アジア諸国が日本の自己的な主流から脱する新勢力になることについて語っている。だが、その姿勢に国民は感激の色を示していないようだ。


ではこうした、野心(将来の希望)が限られて心地よい完全主義社会に残された道おたく』的
逃避であり、点心料理がトレッドミルの画面に出てくるような『くたびれ儲け』の運動中に私が発見したゲームであるのだ。「一体、この食い物が何だというんだ?」私がたまりかねて隣の機械を使っていた男に聞いた。彼は即座に「そんなものは食うな、ってことさ」と答えた。

その『彼』とはニューヨークの弁護士で、オノ・ヨーコの代理人だった。私が彼に振り向いたら、当のヨーコがトレーナーの手を借りて背伸びの運動をしている所だった。彼女の微笑みは絵のように穏やかだった。

愛さえあればよい(ビートルズのヒット曲『All You Need Is Love』から)友愛さえあればよい-----特にエレクトロニックに執着し、人間性を孤立させている日本には、それさえあればよい

2009年12月22日火曜日

チキンという名の渡り鳥

[年末、年始にかけての話題は何と言っても『食べ物』に限ります。今回はニューヨークで比較的新顔、アジア系レストランのご紹介をいたします。見るだけでは、舌にもお腹の足しにもなりません。お出かけになって賞味するのも良し、それができない方のために、この末尾に『韓国風フライド・チキン(Yangnyeom Dak)の調理法』を付け加えました。ご自分で料理なさるのも一興でしょう。編集記]


ジュリア・モスキン(Julia Moskin)探訪 10月6日付け、NYT掲載から抜粋

アメリカ南部伝統のフライド・チキンの味覚が、急速にニューヨーク市内に広まり、イースト・ヴィレッジのレッドヘッド(The Redhead, the East Village)、トリベカのロカンダ・ヴェルデ(Locanda Verde, TriBeCa)、ブルックリン、キャロル・ガーデンのバターミルク・チャンネル(Buttermilk Channel, Carroll Gardens)などに定着した。味付けについては、バターミルク漬けか塩もみか、油揚げは深揚げか浅揚げか、などの論議がやかましく交わされているようだ。が、本質的な論議点-----南部のフライド・チキンの味付けがどれほど影響を与えたか、については異論があるようだ。


[たかがチキン、されどチキン、面倒な解説はこの際飛ばして、ニューヨークで人気のあるフライド・チキンを一見展望してみた方が百聞より手っ取り早やそうだ。]

手羽屋(てばや)の店主で調理人、39才のオカモト・コウジは、チェルシー(Chelsea)で和風味の手羽(てば)を売り物にしている。南部風味のフライド・チキンがニューヨークを席巻している中で、手羽屋のチキンは香辛料とショウユをたっぷり使って一味違った風味を出している。

オカモトが料理する手羽は、まずショウユ、ミリン、黒こしょう、ゴマに漬けて下味を整えられ、2回油揚げされる。オカモト「一回目の揚げは、風味をとじ込めるためで、二回目はカラっとさせるために揚げます」と説明する。

オカモトの唐揚げニンニクとショウガの下味を付けたモモ肉、衣(ころも)はサツマイモの澱粉を使っている。

中華街、コンジー・ヴィレッジ(Congee Village: 粥之家)のマネージャー、エディ・イー(Eddie Yee)「下味を付けず、包丁も入れないで揚げたチキンには風味なんかありません」と言い切る。(上の写真:左側の客が、同店のニンニク味フライド・チキンに箸をつけるところ。)

コンジー・ヴィレッジでは、チキン丸ごと白酢とモルト・シロップに漬け、中身には5種類の香辛料、鳥用味つけの素、ニンニク/ショウガ、などを擦り込み、扇風機の前に5時間ほど吊るして乾かす。最後に丸ごと油でどっぷりと揚げる。

油揚げのあと、包丁で小さく切り分ける。上からツヤ出しニンニクをかけると、カラっとした皮を伝わって肉に広がっていく。

仕上がりはフライド・チキンに香辛料が滲み込み、カリッとした甘みがでる。

モモフク・ヌードル・バー(Momofuku Noodle Bar)の晩餐向けフライド・チキン-----予約客に限る-----は、アメリカで従来風のフライド・チキンに米粉を使い、塩味のオールド・ベイ調味料をたっぷり効かせた味付けとなっている。(写真では皿の左側の部分) 他に、二度揚げし、韓国風に香辛料を効かせた赤味肉がコースの一部に入っている。

モモフクの山盛りのチキンには、4種類のソース、中国料理のパンケーキ風の包み、それに大根、伏見芥子(ふしみからし)、シソ、ミント風味の新鮮な野菜のボウル、が付いてくる。

ファティ・クラブ(Fatty Crab)の2店では、調理人コーウィン・ケイヴ(Corwin Kave)が料理する、衣が薄く香辛料を擦り込んだチキンの準備には5日かけている。

ケイヴのチキン料理は蒸気オーヴンから始め、支那鍋で仕上げる。下味にはインド産のウコン、フェンネル、ショウガ、魚脂ソース、薫製シロップなどを使っている。

ニューヨークに限らず(世界的に広がった)南部的な衣の厚いフライド・チキンの類い(例えば、ケンタッキー・フライド・チキンなど)「ジャンク・フードにしか過ぎない」ケィヴは言い切る。
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◆ニューヨーク・タイムズ推奨のフライド・チキンの店ご案内 (南部的フライド・チキンの店を含まない)

Congee Village(粥之家): 100 Allen Street (Delancey Street), (212) 941-1818, congeevillagerestaurants.com. House special crispy garlic chicken: whole, $18; half, $9.

Fatty Crab: Upper West Side: 2170 Broadway (76th and 77th Street), (212) 496-2722, fattycrab.com. Fried chicken with Thai chilies and smoked palm sugar is an occasional special, $22 to $25, depending on the kind of chicken.

Kyochon: 156-50 Northern Boulevard (157th Street), Flushing, Queens, (718) 939-9292. Original and spicy versions; $19.59 for a whole chicken.


MAMBí
: 4181 Broadway (177th Street), Washington Heights, (212) 928-9796. Pollo frito, served with rice and beans; $9.35.

Momofuku Noodle Bar(モモフク・ヌードル・バー)
: 171 First Avenue (10th Street), East Village, (212) 777-7773, momofuku.com. Fried chicken dinner, by online reservation; two chickens and unlimited sides, $100.

Teba-Ya(手羽屋)
: 144 West 19th Street (Seventh Avenue), Chelsea, (212) 924-3335. Fried wings in black-pepper soy sauce; $5.75 for eight.

Umi Nom: 433 DeKalb Avenue (Classon Avenue), Clinton Hill, Brooklyn, (718) 789-8806, uminom.com. Salt-and-pepper wings with Anaheim chilies; $10.

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韓国風フライド・チキン(Yangnyeom Dak)の調理法
セシリア・ハェジン・リー
(Cecilia Hae-Jin Lee)著
『即席で易しい韓国料理(Quick and Easy Korean Cooking)』から抜粋


所用時間:下味付けに1時間、料理に30分

[材料、4-6人分
◆小さめな白タマネギ1個を粗めにきざむ。

◆ニンニク2片、細かくきざむ。
◆塩を茶さじに半分、その別にふりかけ用にもう少し。

◆黒コショウを茶さじに4分の1、その別にふりかけ用にもう少し。
◆骨抜き皮抜きのモモ肉8-10個、または手羽24個。
◆韓国チリ・ペースト、大さじ3杯またはそれ以上。
◆ケチャップ大さじ3杯。

◆砂糖を4分の1コップ(計量用の)。
◆煎ったゴマ粒を大さじ2杯、またはそれ以上。

◆レモン半分からジュースを。

◆揚げ鍋に野菜油をなみなみと。

◆小麦粉を半コップ
(計量用の)
◆澱粉(でんぷん:日本では片栗粉だが、アメリカではトウモロコシの)
コップ3分の2(計量用の)

[調理法]
  1. 中ぐらいのボウルに、刻んだタマネギ、ニンニク、塩、コショウを混ぜる。その中にチキンを入れ、肉の表面を刻んだタマネギその他でかぶせる。ボウルにフタをして1時間ほどねかせる。
  2. 大きなボウルに、チリ・ペースト、ケチャップ、砂糖、ゴマ、レモン・ジュースを入れ、よく混ぜ合わせる。味わってみて、辛み、甘み、強みなどを調節し、肉を入れて下味をしみ込ませる。
  3. 揚げ鍋に油をたっぷり入れて(4センチ前後)、350度(摂氏177度)になるまで熱する。小麦粉と澱粉を浅いボウルの中で混ぜ、塩とコショウを加える。
  4. 下味が整ったチキン肉をとり、粉のボウルに入れて軽く粉をまぶし、ゆっくりと熱した油の中に落し、時々ひっくり返しながら、黄金色の茶色にカリカリになるまで(5-7分位)揚げる。揚がったチキンは、ペーパー・タオルの上に移し、余分な油を沁み取る。油の温度を確保しながら、残るチキン肉を揚げる。
  5. (揚げた手羽の場合だけ)油の温度を375度(摂氏191度)に上げ、もう一度30秒から1分ぐらい更にカリカリになるように揚げ直し、ペーパー・タオルの上に移して余分な油を抜き取る。チキンがまだ熱い内に、刷毛でチリ・ソースを付ける。ゴマを振りかけ、熱い内に賞味するとよい。

2009年12月21日月曜日

三船敏郎を偲んで

三船敏郎の12回忌に寄せて
ご存知、三船敏郎(みふね としろう)が他界したのが12年前のクリスマス・イヴ。今改めてその経歴を振り返ってみると、生い立ち、軍隊での体験、映画界に入るきっかけ、男性的な風貌と強烈な個性の出世作でゆるぎない名声を獲得し、そして受賞の数々、それは幸運というより三船の人格に対する当然の評価だった。

三船敏郎のプロファイル

1920年(大正9年)4月1日
、中国山東省で
写真業、三船徳造(とくぞう)の長男として生まれた。三船敏郎は本名。父親から教えられ写真の技術を身に付けた。大連中学を卒業してから入隊、日本陸軍の航空写真を扱う偵察員となる。その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、同部隊で鷺巣富雄(さぎす とみお)や、大山年治(おおやま としはる東宝の撮影技師)と知己を得る。戦争末期、熊本、隈之庄の特攻隊基地で特攻兵が『死出の旅』に向かう直前の肖像撮影に従事中、終戦を迎えた。

復員し職を求め、東宝の大山を訪ねたら撮影助手の代わりに俳優志望をすすめられ、不本意ながらニューフェィスに応募し、黒沢明(くろさわ あきら)山本嘉次郎(やまもと かじろう)の票を得て合格した。(その詳しい経緯は最下段の『余談』を参照)俳優としてのデビューは1947年(昭和22年)、谷口千吉(たにぐち せんきち)監督銀嶺の果て1962年(昭和38年)三船プロダクションを設立、1965年(昭和40年)東宝から独立、1981年(昭和56年)三船芸術学院設立。晩年は軽い認知症にかかっていた。1997年(平成9年)全機能不全で東京都三鷹市で没、享年77才

代表的な出演作品(合計約150本の出演から)

黒沢明監督『酔いどれ天使』1948年(昭和23年右の写真);『良犬』1949年(昭和24年左の写真);『羅生門』1951年(昭和26年);『七人の侍』1954年(昭和29年);『宮本武蔵』1954(昭和29年);『蜘蛛の巣城』1957年(昭和32年);『無法松の一生』1958年(昭和33年);『用心棒』1961年(昭和36年);『椿三十郎』1962年(昭和37年下右の写真);『天国と地獄』1963(昭和38年);『赤ひげ』1965(昭和40年);『座頭市と用心棒』1970(昭和45年);など。

外国映画に主演または出演した作品

価値ある男(メキシコ)』1961(昭和36年);『グラン・プリ(米)』1967年(昭和42年)『太平洋の地獄(Hell in the Pacific)』1968(昭和43年);『レッド・サン(仏)』1971(昭和46年);『ミッドウエー(米)』1976(昭和51年);『太陽にかける橋(英)』1976(昭和51年);『ウインター・キルズ(米)』1979(昭和54年);『1941(米)』1979(昭和54年);『将軍(米)』1980(昭和55年);『仁川インチョン(米韓合作)』1980(昭和55年);『最後のサムライ(米)』1980(昭和55年);『カブト(米)』1980(昭和55年);『シャドウ・オブ・ウォルフ(仏加合作)』1994(平成6年);『ピクチュアー・ブライド(米)』1995(平成7年);他。

ヴェネチア国際映画祭男優賞2度受賞し、世界のミフネ』と呼ばれた。

素顔の三船敏郎
-----アラン灰田の回想-----

私は
1975年まで、世田谷の成城、三船敏郎さんの近所に住んでいた。奥さんが生け垣の手入れをしているのを見かけることはあったが、あの大俳優と知己を得るなどとは夢にも考えていなかった。

1975年、私は子供をハワイで教育する目的でホノルルに引っ越した。それを知った伯父の高校時代の親友リチャード崎本医師が、コナ『世界カジキ・マグロ釣り』のトーナメントに参加するよう招待してくれた。崎本医師は2万人以上の赤ん坊をとり上げたベテランの産婦人科医師で、55フィート(約17メートル)の船を所有し、トーナメントの常連だった。魚釣りでは、私はむしろ潜って突く方が得意だったが、それ以来そのトーナメントに毎年参加し、1977年には、616ポンド(約280キロ)の大物カジキを釣り上げ、その年のチャンピョンとなり、デューク・カハナモク・トローフィーを獲得した。(右の写真は、受賞したアラン灰田。左はミス・コナに選ばれた女性。)

その頃、三船敏郎さんが喜多川美佳(きたがわ みか)さんを連れ、彼が以前から懇意にしていた崎本医師の招待に応じてホノルルに現われ、トーナメントに参加した。会場はビッグ・アイランドコナで、いつものように崎本医師は船をクルーに運ばせ、私達と共にホノルルから飛行機で合流した。その日は、私が
三船さんをコナ空港へ迎えに行った。彼らのバッゲージ6点が全てルイ・ヴィトン製で、それらを三船さんがいとも無造作に扱っていたことに目をみはった。これが大俳優と知遇を得た時の第一印象である(下左の写真:中央が三船、その右隣は崎本医師)

たまたま私がコナ沿岸に面した家を持っていたので三船さんと喜多川さんに泊まっていただいた。ちなみに、その家は以前ジョン・ウェインが結婚式を挙げたという曰く因縁が付いている。そこで前代未聞の饗宴が始まったのである。

先ず、三船さんが満州時代に身に付けたという9コースの中国料理のお手並みを見せてくれたこと。次に、三船さんがふらりと出掛けて行き、巨大なジョニィ・ウォーカーの瓶を抱えて帰ってきたこと。その大瓶を
三船さんが嬉しそうにテーブルの上にドンと置いた時、私たちは思わず喝采を送った。その超大瓶のウイスキーは酒店の看板だったのを、店主にねだって買い取ってきたということだった。こうした三船さんの素顔に近々と接してみると、映画での登場人物そのままなのに驚かされた。

強烈に私の記憶に残っている三船さんの役柄は無法松の一生松五郎だったが、目の前の三船さんのイメージと無理なく重なっていた。(右のポスター:大写しはマドンナ役の高峰秀子[たかみね ひでこ])そこで『無法松』のクライマックスでみだれ太鼓を打つシーンの裏話を聞いてみた。

あのシーンを撮影する3日前に稲垣浩(いながき ひろし)監督に太鼓の練習をしろ、と言われ、あわてて当時日本一と評判の高い師匠について三日三晩徹夜続きの猛訓練を受けた結晶だった、とのことだった。それを聞き私は、華やかに見える俳優にも知られない苦労があるものだと感心した。ところで、『無法松』1958年ヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞している。

私たちは、三船さんと多喜川さんの二人のことは、できるだけ意識しないようにしていた。ある日、多喜川さんが沿岸で魚釣りをしたい、というので私が手を貸して餌も付けてあげた。首尾よく
真っ赤な魚を釣り上げたまではよかったが、それを見た三船さん、「バカッ!金魚じゃないか」と一喝。気の毒やら可笑しいやら、、、スクリーン上の配役そのまま、三船さんの男性的な人柄は演技の上でも常に素顔なのだということを実感した。

余談:ニューフェイス、三船敏郎

1947年、撮影技師を志望していた三船が東宝の大山年治を訪ねた時、あいにく空席がなく「取り敢えず第一回ニューフェイス募集を受けてみろ。入社してしまえば 後で撮影助手に呼べるから」と説得され、不本意ながら俳優志望として面接を受けた。そこで審査員に「笑ってみて」と言われ「面白くもないのに笑えません」と答えて不合格になりかけた。たまたまその状況を目撃していたのが山本嘉次郎とその弟子にあたる黒沢明黒沢三船の素質を看破し、山本「彼を採用して駄目だったら 俺が責任をとる」と断言したため、辛くも採用となった、という一コマがあった。

2009年12月19日土曜日

クリスマスは誰のもの?

[結論を急いで編集から:音楽は国籍と関わりない。音楽には国境がない。音楽の評価は、その歌、その曲が好きか嫌いかで決めればよい。(下のアルバムはビング・クロスビー:彼はアイルランド系アメリカ人。下のアルバムをクリックするとYouTubeでクロスビーの『ホワイト・クリスマス』が視聴できます。)]
マイケル・フェインスタイン(Michael Feinstein)
12月17日;NYTの評論から
[筆者は音楽家で著書に『歌に生きる私:My Life in Song』がある。]

10年ほど前のこと、カリフォルニアである
優れた交響楽団と共に、週末クリスマス・コンサートの指揮を引き受けて演奏した。初日は伝統的なホリデー向けの曲目で好調に始まり、私は誰からも喜んでもらえたと思っていた。だが私の甘い選曲は、アイス・キャンディのように(溶け易く脆い)問題があったようだ。

二日目の夜、私がステージへ上がる直前、オーケストラ委員の代表が落ち着かぬ様子で楽屋に現われ、私の「選曲がユダヤに傾き過ぎている」という批判があると告げにきた。やれやれ、演奏間際に主催者の立場にありながら悪い冗談を言う人だ、と私は彼の真意を図りかねていた。だが嫌な役回りに立たされていたその委員から、批判が聴衆の一部から出たものだと聞かされて信じられず、私の笑顔がこわばってきた。


前夜の演奏会で私は「一般に親しまれているクリスマスの曲目の殆どがユダヤ系の作曲家によって創られたものです。その反面、非ユダヤ人の音楽家ハヌカー(12月に行われるユダヤ人の祭り:Hanukkah)の歌を作曲しています」と、演奏の合間に説明を加えた。それに対して観客が喝采してくれていたから、批判は委員会の中から出たのに違いあるまいと思った。


言いにくい伝言をもたらしてきたその委員に、私が「今晩の演奏曲目は、昨晩よりさらにユダヤ的ですよ」と宣告した途端、出番の声がかかって救われた。私は間一髪で舞台に上がり「今晩はクリスマス気分を充分に味わって頂きましょう」とムカつく腹の虫を抑えて何とか笑顔をとりつくろって観客に挨拶した。
ジェリー・ハーマン(Jerry Herman)作の古いクリスマス曲の演奏が進むにつれて、私の気持ちもメロディに溶け込み次第に穏やかに収まっていった。

クリスマス自体、その都度生まれた音楽に影響されながら歴史的に進化してきた。この祝祭日が確立されるにつれ、その音楽も宗教的にも精神的にも親しみ易い赤鼻のとなかい(Rudolph)』とかソリの鈴とサンタ(sleigh bells and Santa)』などを主題とし、定着してきた。多くのキリスト教徒が、本質的なクリスマス精神が失われたと苦々しく思うのは理解できないことはない。宗教的な伝統が、商業的目的に利用され、更に信仰に対する本当の祝祭日としての意義をそっちのけにされている現実には我慢ができないことであろうと察する。


だが、こうした侵害を嘆く人々には、そうしたお祭り騒ぎ的な現象が、ある意味ではホリデー精神を違った形で世界中に浸透させるのに役立ってきたことも容認してもらいたいと思う。私たちは多くの異文化が共存する時代に生きているのだから、それぞれ違った伝統が混じり合うことは避けられない。それ故に、わがユダヤ系アメリカ人が、過去一世紀に及ぶ間に、ハヌカー音楽よりも多くのクリスマス音楽を創作したのではなかろうか。


今日多くの人々に親しまれているクリスマス音楽の数々を振り返ってみると、ユダヤ系アメリカ人によって作曲されたものが圧倒的に多くを占めている。アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)ホワイト・クリスマス(White Christmas)』メル・トーメ(Mel Tormé:右の写真)クリスマス・ソング(The Christmas Song)』、『雪よ降れ、降れ、、、(Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!)』、『クリスマスに帰郷(I’ll Be Home for Christmas)』、『シルヴァ・ベルズ(Silver Bells)』、『赤ん坊サンタ(Santa Baby)』、『赤鼻のトナカイ、ルドルフ(Rudolph the Red-Nosed Reindeer)』、『ウインター・ワンダーランド(Winter Wonderland)』などなど枚挙にいとまがない。殆どがミュージカル舞台や映画のためではなく、ニューヨークの片隅、多くの音楽家が住んでいたティン・パン横町(Tin Pan Alley)から生まれたものである。例外としてホワイト・クリスマスは映画ホリデー・イン(Holiday Inn)の主題歌として、シルヴァー・ベルは映画レモン・ドロップ・キッド(The Lemon Drop Kid)』で紹介された。

以上のリストには、著名なユダヤ系アメリカ人作曲家の名が見当たらない。何故か?ティン・パン横町の作曲家たちと違って、彼らは契約している出版社の企画に従い、舞台とか映画の観客に合わせた明確な注文に応じて創作していた。ジェローム・カーン(Jerome Kern)、ガーシュイン兄弟(Gershwins:右の写真はジョージ・ガーシュイン)、チャード・ロジャース(Richard Rodgers)、ハロルド・アーレン(Harold Arlen)等がそうだ。脚本にクリスマスの状景が挿入されていない限り、彼らは、注文作品の制作に追われ、クリスマス曲を創る暇も必要もなかったのだ。(左の3人は:左から、ロジャース、バーリン、ハマースタイン)稀に1950年代、ロジャース/ハマースタイン(Rodgers and Hammerstein)の二人が映画ハッピー、クリスマス(Happy Christmas, Little Friend)』のために作詞作曲し、ローズマリー・クルーニー(Rosemary Clooney:左の写真:クルーニーはイギリス系とドイツ系半々の非ユダヤ系)が歌ったが、結果は惨憺たるもので、30年経ってクルーニーにその歌を唱ってもらおうとしたが、まるで憶えていない、という頼りない曲だった。

私のクリスマス季節の出演では、いつも新鮮味を出したいと考えて新曲を紹介してきたが、それに当って作曲者の宗教的な信仰心を考慮したことはない。それでいて私はいつも曲と並行して沸き上がる意外な感傷を発見して驚かされる。それは心理学者フロイドに分析してもらうまでもなく、甘菓子、ヒイラギ、宿り木、などのイメージが自分の感覚を安らかにし、憧れの何か、安心感と平和、その他無意識な渇望が胸中を横切っていく。そんな渇望は陳腐だと思うだろうが、それが私の本心なのだ。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、その他
諸々のいずれかを信仰する人間としての各人、お互いの相違点より共通点の方が多いのではなかろうか。それこそお祝いするに値いする真実なのだ。