2009年11月28日土曜日

犬:「ホメテヤラネバ」

大津光男(おおつ みつお)
普連土学園(ふれんど がくえん)財務理事(元事務長)
2009年11月24日
同学園中学・高等学校の礼拝での講話から抜粋

[註:普連土学園について詳しいことは、本ブログの4月に公開した『女子教育の先駆者たち』をご覧ください。]

皆さんお早うございます。初めに新約聖書「ヨハネによる福音書」(The Gospel according to JOHN)、第15章の12節から15節までを読みましょう。皆さんが良く知っている箇所です。

 「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕(しもべ)は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことを、あなたがたに知らせたからである。」

 先週、私はアメリカから来た友人と47年振りで会っていました。47年前、その友人ブルースター・グレイス(Brewster Grace)と私は千葉県の養護施設で行われた3週間に亘るアメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee: AFSC)主催の国際学生ワークキャンプという奉仕活動のリーダーを務めていました。

ブルースターは、当時大学を卒業したばかりで、良心的戦争反対者あるいは良心的兵役拒否者(Conscientious Objector: CO)として、徴兵される替わりに奉仕活動をするため、初めて来日しました。そして、彼の相手として日本人の学生から選ばれたのが私だったのです。ブルースターの母親はクエーカーでしたから、親ゆずりのクエーカーです。その後、私はフィリピンや韓国など海外での奉仕に携わったり、国際学生セミナーに参加したりして、名古屋で就職しましたので、ブルースターとはずっと会う機会がありませんでした。

 一方ブルースターは、日本で4年間の奉仕活動を終えてから帰米し、コロンビア大学(Columbia University)の大学院に進み勉強に励み、卒業後はクエーカーの国連オフィス(Quaker United Nations Office, Geneva, New York)に勤務、パレスチナやジュネーブなどに駐在し、定年で退職するまで世界平和に尽くす活動に参加していました。

ブルースター
の話はまだ先がありますが、
その前に今朝は、犬の話をいたします。

 私は、小学校高学年から中学生だった頃、雑種の日本犬を飼っていましたが、この犬が死んでしまった後、この何十年間というもの犬を飼っていません。

  犬と言うと、私は子供のころ読んだ童話の中に桃太郎とか花咲かじいさんがあります。が、桃太郎の家来になった犬の名前が思い出せません。花咲かじいさんの犬は童謡ではポチで、童話ではシロでした。

 南極で一年間置き去りにされ、生き延びて戻ってきた2匹の樺太犬の名前はタロージローでした。


 アニメ映画で印象に残っているのはフランダースの犬です。主人公の少年ネロと犬のパトラッシュが天に召されてゆくラストシーンは、今でもまぶたに浮かんできます。

 現在、NHKラジオで耳にしているのが英語のリトル・チャロの心温まるドラマです。公園に捨てられた子犬で、雪の降る朝、翔太(しょうた)という8才の心やさしい少年に拾われ、耳が茶色と白なのでチャロと名付けられました。翔太一家に連れられアメリカ旅行に出たチャロは、旅先で家族とはぐれて取り残されてしまいます。自分の誕生日を知らないチャロに、ドレッドという野良犬が「お前が拾われた雪の降る日曜の朝はいつでもお前の誕生日だ(every snowy Sunday morning will be your birthday)」と元気付けます。

 上野公園の入り口にある西郷隆盛の銅像には連れている犬がいます。西郷さんの愛犬、その名はツンです。

 渋谷駅前にある犬の銅像の名はハチで、大正13年(1924)に東大農学部の上野英三郎(うえの えいざぶろう)教授に飼われた犬です。上野教授が現職中は、ハチは毎朝門前で、時には渋谷駅まで送り迎えしたそうです。その上野教授は、大正14年(1925)5月21日に亡くなりましたが、ハチは、毎夕渋谷駅前で主人の帰りを待ち続け、その忠犬ぶりが東京朝日新聞の記事によって世間一般に知れ渡り忠犬ハチ公と呼ばれて銅像になったのです。

 犬の話は尽きませんが、47年振りで再会した旧友の話に戻ります。今回ブルースター・グレイスと待ち合わせした場所は、渋谷の「忠犬ハチ公」の銅像の前でした。
ブルースター・グレイスは、退職した後もAFSCでの委員会活動を続けていますが、夫人はアメリカ北東部のメイン州(Maine)でブリーダー(Breeder)という血統書付きの犬の飼育をして、育てた犬を売る仕事をしているということです。
 ところで、日本には現在700頭の盲導犬(もうどうけん)がいるそうです。(上掲の盲導犬を連れた盲人たちの写真は本文の話とは直接関係はありません) 先々週、ブルースターに会った翌日、私はたまたま鎌ヶ谷大仏という駅から船橋駅までバスに乗りました。バスの中に盲導犬に手を引かれた目の不自由な方が乗ってきました。盲導犬はおとなしく、女主人の座席の隣の通路におとなしく座り、その従順さには感心させられました。

 日本で最初の盲導犬『チャンピイを育てたのは、塩屋賢一(しおや けんいち)さんという結核を患っていた犬好きの方でした。その塩屋さんが、18歳で失明した河相洌(かわい きよし)という方から、まだ1才に満たないチャンピイという名の犬を訓練して欲しいという依頼を受け、その犬を引き受けました。チャンピイは、子犬の頃は耳が垂れていましたが気性が荒く、喧嘩に強い犬でした。

 塩屋さんは訓練のため、自分は目隠しをして犬と一緒に歩いていたのですが、そのため溝に落ちたり、自動車にはねられそうになったりしました。塩屋さんはその都度、犬をどやしつけていました。次第にチャンピイ塩屋さんを怖れるようになってしまったのです。

 そういう猛特訓中に塩屋さんは吐血して倒れ、犬の訓練はできないと諦めかかりました。その時、他の失明者が上京して、自分のために盲導犬を育ててほしいと要望されました。それで、塩屋さんは目の不自由な人の気持を思い、訓練を続けることにしたそうです。

 その頃から、犬は主人の言うことは聞くが、犬自身が状況を見て危険かどうかを判断することはできないから、それを教えなければならない、ということに気が付いたのです。それからは、状況を判断するための訓練を始めました。すると奥さんから、そんなことをしていたら命が持たなくなると反対され、それが元で夫妻は口論になっていました。すると、それまで部屋の中で飼っていた愛犬がそっと出て行き、夫妻の父親を連れ帰ってきたのです。その犬の行為から塩屋さんは、盲導犬を訓練するとき、犬の失敗を叱り飛ばすのでなく、よく出来たときに誉めることが大切なのだと悟ったのです。

 それからは、チャンピイと起居を共にし、血を吐くほどの苦労を重ねながら10ヶ月もの間、愛情を持って接した結果、立派な盲導犬に育て上げたのでした。


 そして、初めて依頼を受けた目の不自由な河相さん「さあ、一緒に、郵便局まで切手を買いに行ってください」と言ってチャンピイを返します。盲導犬として役に立つかどうかを見極めるテストでした。そのテストの際、チャンピイは階段の踊場で立ち止まり、そこが危険であることを知らせ、無事にテストに合格し、日本で最初の盲導犬として飼主のために働き始めました。それは昭和32年(1957)、私が高校2年のときでした。

 それから10年が過ぎました。ある日、河相さんチャンピイが散歩していた時に、大きな犬から喧嘩を売られたのです。子犬の頃は気性が荒く決して他の犬に負けていなかったチャンピイでしたが、その猛犬に対しては最後まで応戦を拒み続け、飼主の河相さんを守るため忠実に、従順にしていました。その結果、猛犬に右足を噛み砕かれてしまったのです。それが原因でチャンピイは12歳で死んでしまいました。

 現在「東大・京大で一番読まれた本」としてベストセラーになっている外山滋比古(とやま しげひこ)著の思考の整理学という文庫本があります。その中にホメテヤラネバとカタカナで書いた小見出しの文があります。私はそれが真実であることを、チャンピイ盲導犬として訓練したいきさつから教えられました。人間にでも動物にでも、何かを教えるのに大事なのはほめることが大切だと思います。

 飼い主を守ろうとして、結局は死んでしまった盲導犬チャンピイ、あるいは、チャロのドラマの中で、人間嫌いになっていたドレッドが、命懸けで火事の猛火に包まれた女性警官を救ったのは何故だ?とチャロに聞かれ「お前のせいだ、、、because of you,」と、ドレッドはか細い声で答えました。フランダース少年ネロを守った犬パトラッシュは、何の報酬も求めませんでした。

 これは、犬のこととはいえ、先ほどの聖書の中の友のために命をささげた大きな無償の愛の話と同じです。そして、犬は
飼い主の(しもべ)』ではなく、その人にとって最も大切な『(フレンド)』であるのです。盲導犬第一号、チャンピイの墓石には「ありがとう」と彫られてあります。無償の愛に、どれだけ目の不自由な人たちが助けられているか。この盲導犬の愛は、あたかも、十字架に掛けられ人間の罪を贖い救おうとされたイエス・キリストの愛を示しているのである、と私は教えられたのです。

 私の友ブルースター・グレイスは、青年のときから戦争に反対し、クエーカーとしての役割を十分に果たし、退職後でもAFSCでの多くの活動に献身的に奉仕しているのです。私は、この友が今回日本に滞在した僅か12日間の間に、彼と過ごした何回かの貴重な時間を心から楽しみました。

 ブルースターが帰国する前日、この友と私は、午後は加藤幹雄(かとう みきお)理事と、夕方には48回生菊地勝子さん、54回生シュモー・トミコさん、68回生伊藤幸子さんらの卒業生と一時を過ごしました。その際、普連土学園の戦後のワークキャンプという奉仕活動の思い出や、その他の活動について懐かしく語り合いました。

 この学校の歴史を調べている私にとっては、思いがけず神様の与えて下さった素晴らしい恵みの時間だったと感謝しています。

2009年11月23日月曜日

二胡の音色に惹かれて

服部 公一(はっとり こういち)作曲家
1985年5月、月刊自労連に掲載された随筆の再公開

1984年(昭和60年)の12月28日大阪のザ・シンフォニー・ホールに於いて二胡(ERHU: アルフー)協奏曲(服部公一作曲)』の世界初演が行われた。(右のイラスト、高橋 経画)

『二胡協奏曲』とは聞きなれない名称であり、一体これは如何なる音楽であるのか-----つまり二胡と西洋式オーケストラの協奏曲である、と言っても説明にはならない。二胡とはそもそも何かということをまず申し上げよう。

二胡(アルフー:左の写真)とは日本伝統音楽で用いられる胡弓(こきゅう)のことである。胡弓は三味線を立ててその三弦を弓でこする弦楽器、、、とでもいったらいいだろうか。中世に中国から渡来し、明治時代まではしばしば用いられた楽器であったが、現在では歌舞伎の効果音楽などでわずかに使用されているだけ、、、それもオバケや幽霊が登場するとき?などに限られている。音が独特で『鼻のつまった猫』の鳴き声のようにミュウ、ミュウと聞こえる。弦を弓でこするということで明らかなように、これはヴァイオリンと同属の楽器であり、学者の説明によると古代西域で発生したこの楽器はヴァイオリンと同系の先祖をもち、シルクロードを経て古代ヨーロッパに伝えられたものと言う。

さて
二胡(アルフー)である。これは二本の弦とその間にはさまって交差している弓と重なっている。胴は大小いろいろあるが直径10センチほどの筒型をしているものが多い。音色はヴァイオリンに似ているが更に高音。中国の民族音楽では琵琶(ピーバ)、揚琴(ヤンヂン)、などと並んで最もポピュラーな楽器である。中国の民族楽器合奏団では、二胡が西洋式オーケストラのヴァイオリンの位置を占め二胡奏者の首席がコンサートマスターをつとめるのである。

1981年(昭和56年)、私は中国音楽家協会の招待により訪中した。この時は北京、上海、西安などを訪問したのであったが、どこの町でも二胡中心の民族楽器合奏団の演奏を聴かせてもらった。そして二胡の演奏法や音色などが、日本の胡弓のそれと似て非なるものであることを知ったのである。


先ず、その音程が正確なことである。次に日本の胡弓の音のようにたるんだ『化け猫の声』とは異なり、実にさっそうとした叙情性をもっていることである。確かにミュウ、ミュウというような奏法もあるが、決してそれが中心の楽器ではなく、ヴァイオリンの演奏機能と同じ程度の難しいフレーズを、二胡で楽にこなしていくのである。


一般的に現代の中国楽器は我々が持っている昔のイメージと異なり、演奏技術の改善と楽器そのものの改良により、驚くほど高度の運動性をもつようになっている。私はこの旅行で二胡の現代性を知り、深く感動し、さっそく上海で二胡を購入して帰国した。

さらにその時面識を得た中国中央民族楽団首席二胡奏者、周燿鞘(シュウ ヨウショウ:この発音は未確認)氏が自著の二胡教則本を送って下さり、それをひもといて、約三日間程独習してみたが、その演奏はとてもとても即席の私の手に負えるものではなかった。


かくして私の二胡演奏独習は文字通り三日坊主となってしまったが、その音色の魅力はさらに私をとらえてはなさなかった。
『逃げた魚は大きい』とか『つれない恋人の後を追う』などの類(たぐい)で、爾来、二胡の音色は私の心から離れず、二胡の音楽を作曲しようという意志は固まる一方、、、かくして昨年(1984:昭和59年)、チャンスを得て作曲、12月演奏となったわけである。

関西フィル常任指揮者、小松一彦(こまつ かずひこ)氏の御高配により二胡協奏曲の初演のめどはついたのであるが、肝心の難問は二胡独奏者である。もちろん中国から、しかるべき名人を招聘(しょうへい)しなければならない。早速私は旧知の中国音楽家協会秘書長、蘇揚(スウヤン)氏に手紙を書き二胡協奏曲の楽譜を送り、人選及び派遣をお願いした。その結果、二胡の名人北京中央音楽院教授である王国潼(ウオン ゴドン)の来日が実現したのである。


しかしこのプロジェクトにおいて、私は二つの大きな失念をしており、そのことにより蘇揚氏他の関係各位にずいぶん御苦労をさせてしまったことを後日知ることになる。


その第一は、五線譜に記載された現代音楽を演奏できる二胡奏者は中国でも極めて少数だけであるということだった。今でも民族楽器奏者の多くは、12345などの数字略譜(これは戦前、日本でもハーモニカなどで使用していた)を使用している。また中国の現代二胡楽曲にはいわゆる現代的な表現が皆無であり、保守的な傾向なのであった。 拙作の『二胡協奏曲』は前衛などではないけれど、それにしても中国人二胡奏者にとっては弾きなれぬ怪しげな音楽、、、という印象はぬぐえなかったようだった。

第二の図らざりし問題は、二胡奏者招待そのものであった。あの当時、日中間の人物交流は、全て政府レベルか、しかるべき団体(例えば日中友好協会とか日経連とか)が責任をもって行っており、私みたいな一介の音楽家が個人の資格で中国音楽家を招待する、などということはあり得なかったのである。


蘇揚氏、在日中国大使館文化部などの御好意により、このプロジェクトはすんなり事が運んだが、振り返って見ると、あの演奏会は個人ペースによる日中音楽家交流の第一号だったかもしれない。王国潼氏がいみじくも述懐(じゅっかい)していたように、以前は二胡片手にたった一人で成田空港に降り立つなんて考えられなかったことであり、これは日中文化交流の大きな進展を実現させたことになる。


『盲、蛇に怖じず』の譬え(たとえ)を地で行ったような私の行為に、もうひとつおまけがついた。 王国潼氏の説によると、服部公一は、非中国人で二胡の芸術音楽を作曲した第一号であり、中国人を含めても二胡西洋式オーケストラの協奏曲を作った作曲家の第一号である、ということになる。(左の写真が進呈予定のCD)

この『二胡協奏曲』は初演以後、中国中央電播台交響楽団により中国各地、香港、シンガポールなど。日本国内で数回、サンパウロ市立交響楽団(ヴァイオリン独奏)、などで演奏されている。アメリカで未だ演奏されたことがないのが残念!
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この『二胡協奏曲』に興味のある方、先着10名様に、CDを無料で進呈いたします。これは服部先生のご厚意によるものです。但し今回は不可解な規則のため、アメリカ在住の方に限ります。

CDに含まれている曲目

♬ 二本の笛の対話
:[4楽章]
♬ 弦楽のための2楽章

♬ ソナチネ『わらべうた』[3楽章]

♬ 古新羅人讃
♬ 嬉遊曲:12声部と二つのチェロのために
♬ 協奏曲:二胡[3楽章]


ご希望の方は JACircle@KyoVision-ad.com へどうぞ

2009年11月22日日曜日

水田に描く

[はじめにお断り:今回のブログで掲げる写真は、アート・ディレクターのラッセル・ブロッド(Russell Brod)から転送されてきたものです。更に転送の転送をたぐっていくと、エヴェリン・クレェマー(Evelyn Kraemer)に辿り着き、その先が不明でした。
日本の郷土芸術に無知な編集者としては、出所を突き止めて画像の真偽を確認したかったのです。近年のコンピューター・グラフィック(CG)の技術をもってすれば「あり得ないこと」がいかにも「真実である」かのような仮想の画像を創作できるからです。『信じるか、信じないか』は別として、興味深い画像なので、あえて公開する次第です。もし真実をご存知でしたら、ぜひお報せください。]


(筆者不詳)

ここに掲げる写真は、日本の水田に稲の苗で描いた巨大な画像である。宇宙人が描いたのではない。農業の専門家が稲を改良し、色彩の異なる苗を育て、綿密な計画の下にそれを植えて形成した驚異的な作品である。春に植えた苗が、夏までに育ち、みごとな画像が浮かび上がってくるのである。


初めてこの制作が誕生したのは、1993年(平成5年)、青森県イナカダテ(?)村で完成され、以来、年中行事となり、競作となり、その評判は年毎に喧伝されていった。その準備は5月の末頃に、何百人もの村人や奉仕者たちの手によって、計画的に色の違う苗の田植えが行なわれる。毎年この無数の苗が育つ夏の最盛期になると、人口僅か8,700人のこの村に、巨大な農作物の芸術を一目でも見ようと、15万人以上の見物人が押し寄せてくる。

この伝統は他県にも伝わり、山形県米沢でも制作されるようになった。


以下、その最盛期の瞬間を捉えた写真をご紹介する。

◆ 馬上の戦国時代の武者 (15000平方メートル)----- 青森県イナカダテ村

◆ 馬上のナポレオン

◆ テレビで上映された16世紀の時代小説『天地人』をテーマに、
武士直江兼継(なおえ かねつぐ)とその妻お仙(おせん) -----山形県米沢


◆ 『ドラえもん』と鹿踊り』(比較的小型な作品)

◆ やぐらに登って見ない限り、地上の観点からでは、画像は認識し難い。
(武士が刀を振り上げた右腕の部分)


◆ 近接撮影で見る、色の違う苗。

2009年11月21日土曜日

刺激政策と輸出で日本の不況が救えるか

[お断り:この記事は英語に翻訳された評論を再び日本語に戻したものです。原文と異なる表現があるかも知れませんが、筆者の意図は掴んでいるつもりです。]


田淵 ひろ子(たぶち ひろこ)
NYT;11月15日掲載


東京発:去る7月から9月までの第三期における日本の経済は、しっかりと年額4.8パーセントの上昇を示した。これは消費刺激策と、輸出が回復の傾向を示したためで、戦後最悪の不況から脱出できそうだ。

政府が11月9日、去る月曜日に発表したところによると、国内総生産額は第三期に前四半期より1.2パーセント上昇し、これは年額4.8パーセントの上昇率に等しい、とのことだ。2期続けて上昇を見せたということで、世界的な経済危機から回復している証拠であるとも言える。

先週、ユーロ地域の16カ国の経済は、過去の6期で初めて、9月までの第三期の3ヶ月に0.4パーセント上昇したと発表。アメリカの国内総生産が、9月で終った第三四半期は3.5パーセント拡大したのは、経済刺激政策によるものだとしている。


日本の経済状況の予測は、初期の見積もりでは、ブルームバーグ・ニュース(Bloomberg News)が経済専門家20名に聞いた観測によると復活には時期尚早だとし、2.9パーセントの上昇が妥当であろうとのことだった。しかし、日本の先行きは依然として不明で、新内閣は回復の兆しが見えたところで刺激政策に手加減をする方針らしい。


ニッセイ基礎研究所の経済主事ハジ・コウイチ氏は「我々の国内消費がやっと、そして可成り急速に復活の傾向を見せました。これは経済の下落が底に着いたことを示しています。しかし、この復活は主に政府の経済補助のお陰ですから、本格的な成長度は遅々としています。従って、我々が最悪事態を脱したと思うのは時期尚早です」と分析している。


企業が積極的に投資することによっても回復の役に立つ。資本投資額は第三期では予想を上回る1.6パーセントに昇った。一年半振りの上向きである。国際的な各国政府の刺激政策のお陰で、世界的に輸出は6.4パーセント上昇し、貿易の復活に寄与した。


日本国内での消費者支出は0.7パーセントの上昇を示し、金額にして20兆円以上、経済回復の三分の二を担っている。特に政府が省エネ型の家庭電化製品燃費の良い自動車の購入に報奨金を出したことで、トヨタ自動車や、ソニーのような家電メーカーの販売を促進した。


需要の増加を受けて、トヨタ日産などのメーカーは今年度の利潤の予測を書き換えている。同時に、日本の輸出産業は、円高の圧力による競争力の弱さを補わねばならないという対策も迫られている。


昨今の事業拡張は、世界的な経済破綻による損失を補う程度に抑えている。日本の銀行は昨年の経済破綻の震源地ではなかったとは言え、輸出の没落によって5年分の経済成長が水の泡となり、国家的な困窮に陥った。

工業生産は、いまだに昨年までの五分の一が減産となり、失業率は5.3パーセントとほぼ記録に近い人数となった。デフレが猛威を振るい、利益や収入が激減した。


日本経済の虚弱な復活にも拘らず、鳩山由紀夫首相(左の写真)は公共事業への投資に対して厳しく批判的な方針をとっている。去る8月に圧倒的な勝利で議席を勝ち取った日本の鳩山民主党(上の写真;日没の日の丸は、NYTのジョーク)は、先の与党が設定した2.9兆円の経済刺激対策の予算を差し止め、来年まで保留することにした。

鳩山首相は、その予算を児童福祉や学費(授業料)の軽減に当てる助成金など、社会保障関係に回す計画であることを発表した。月曜日、内閣府特命担当大臣、間直人(かん なおと右の写真)の言によると、政府は追加予算を立て、失業対策や環境保護に当てる計画を立てているとのことだ。

増大する失業問題を緩和する受け皿として出産率を高めるのを助ける案件について、経済専門家たちは、その成果が実現するまで年月がかかるし-----そのような遅延は、短期間での経済回復には逆効果となる、という意見をもっている。


ニッセイ基礎研究所ハジ氏「民主党が現実的な投資予算を国民への投資に振り替えるのは、円滑な推移であることが望ましい。国民の一人一人が収入のために働き、今は出費を控える、ということは経済上の直接的な損失です。民主党の方針が実施される前に、我々はスランプ状態を味わうことになるでしょう」と憂慮している。


政治批評家も、鳩山首相の財政策により、5兆円の経済(国家予算のことであろうか)の2倍にもふくれ上がり、負債が増加する日本にとって余計な負担となるであろう、と警告する。先週、フィッチ・レィティング代理店(The Fitch Rating Agency)は、もし政府が支出の制御に失敗したら、日本の公共負債の評価が落ちるであろうと警告した。


日本の経済復興の不確実性は、東京の日経インデックスに敏感に影響した。企業の利益が復活しているにも拘らず、インデックスは7月以来、1.8パーセントの下落を示している。

2009年11月17日火曜日

忘れられない人々

アラン灰田:ハワイ在住

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[筆者について:アラン灰田は,目下不動産関連の職にたずさわっているプロダクト・デザイナー。アランの父は戦前から戦後にかけてハワイアン音楽を日本に広めた功労者、作曲家(『鈴懸の径』、『森の小路』など)でバンド・リーダーの灰田有紀彦(はいだ ゆきひこ)、その弟、つまりアランの叔父はバンドの歌手として俳優として大人気を獲得し一世を風靡した灰田勝彦(はいだ かつひこ)。家庭の音楽環境には恵まれていたが、慶応大学の法学部へ進学した。1958年、慶大三年生の時アメリカ国籍を確保する目的もあり、法律家になる代わり、インダストリアル・デザインを専攻することにした。渡米し、一年間ハワイ大学に籍を置き、その後ロサンゼルスのアート・センター・スクールに留学した。卒業後、チャールス・イームズ(Charles O. Eames, Jr.)のデザイン・スタジオに勤務し、1964-1965、ニューヨーク世界博のIBMパビリオンのデザインに関わった。]
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誰にでも思い当たることだろうが、一生の内に何度か忘れられない『出逢い』を体験する。それがたとえ一瞬の出逢いであっても、いつまでも強く記憶に残る場合がある。悲喜こもごもだろうが、私の学生時代は、おおむね懐かしく楽しいことが多かった。


1949年(昭和24年)上野の精養軒で私の叔父(灰田勝彦:左の写真)の結婚披露宴に出席したときのこと。たまたま私はテーブルの向かい側に、笑いとペーソスで観客の心をとらえた喜劇俳優エノケン、その左隣が水泳で世界記録を出した古橋広之進(ふるはし ひろのしん: 右の写真、手前)橋爪四郎(はしずめ しろう:右の写真、後方)という位置に座らされた。当時私は肉や魚を食べず、コースの一部に出てきた伊勢えびを無視していたのに古橋が気付き「食べないのなら我々が手伝ってあげるよ」と、橋爪と二人で分け合って平らげてしまった。
その古橋は現役引退後を後進の育成に捧げていたが、去る8月2日、ベルリンの世界水泳大会に総監督として出席中、心不全で亡くなった。80才、日本水泳の先覚者としてふさわしい最期だったように思う。

1958年(昭和33年)、慶応大学法学部三年の時にアメリカへ留学することになった。弁護士になる気がなく、インダストリアル・デザインに興味を持っていたからである。それと私の国籍の問題にも関わる一件があった。私の父は日系アメリカ二世、母は日本国籍で私は二重国籍だった。アメリカ大使館の勧告によると、私が23才の誕生日以前にアメリカに入国して5年間居住すれば、アメリカの国籍が確保できるというので、それに従うことにした。
慶応の教授会からは「5年間、授業料免除で休学」の許可を受けた。7月11日、羽田空港から日本航空、DC-6機上の人となり、離陸直前にまだお若かかった薬師寺の高田好胤(たかだ こういん:34才:左の写真)から祝電を戴いた。「お元気で、お元気で、お元気で」の電文に感慨を新たにした。

その出発間際に、長身の女性が駆け込んできて私の隣の席に座った。その女性はウェーキ島まで昏々と眠っていた。私はハワイで降りたが、彼女はそのまま終着のロサンゼルスへ運ばれて行ったと思う。
翌1959年のある日新聞を読んでいたら、ロングビーチで開催されたミスユニバース大会の選考で、伊東絹子(第三位:1953年)高橋敬緯子(第五位:1955年)に次いで、日本の女性が世界数多(あまた)の美女を退けて第一位の栄冠を獲得した、と大々的に報道されていたのが目についた。その名は児島明子(こじま あきこ:23才:右の戴冠している写真)、その写真を改めて見直したら、まぎれもない日航機上、私の隣席で何時間も一緒に過ごしていた『眠れる美女』だったのである。

私の目的校はロサンゼルスのアート・センター・スクール(Art Center College of Design)というデザイン学校だったが、その前に英語に慣れるため、一年間ハワイ大学(University of Hawaii)に籍を置いた。でもクラスには殆ど出席せず、昼はサーフィング、夜はワイキキのレストランでウェイターとして過ごしていた。

その合間に、中原淳一(なかはら じゅんいち:1913〜1983)の依頼で、若い女性向けの雑誌ジュニア・ソレイユ(左の写真)に寄稿文を書いた。主題は、ハワイでのスキューバ・ダイビングの体験、サーフィングの醍醐味などだった。文中で「将来日本の若者の間にもサーフィングの素晴らしさが伝わって熱中するであろう」と予言した。かなり長い年月が経過したが、私の予測は当たって実現したようだ。

ハワイ大学に、アフリカのケニヤからきた黒人の留学生がいた。真っ黄色のアロハ・シャツにマッチング・ショーツ、それも直径4センチぐらいの黒いポルカ・ドッツ(水玉模様)付きで、背が高く真っ黒な風貌だったので、遥か彼方からでも即座に彼と判明できるほど、私に強い印象を刻み付けていた。その名はバラック・オバマ(Barack Obama:右の写真)と言った。ごく最近、といっても2年ほど前、2008年の大統領選挙の緒戦が始まった2007年頃、ニューズウィークを読んでいたら、私が記憶していたハワイ大学の留学生オバマ、シニア(1936〜1982)が、大統領候補のバラック・オバマの父親だったことを知った。当選した現大統領が、彼の父親から受け継いだバリトンの強い声をもっている事実も、小生の記憶と重なるものであることを確認した。

私がハワイに着いた翌年の1959年8月21日、ハワイはアメリカ50番目の州として認められた。これをきっかけに外部から資本が導入され、日本人を対象とした人気観光地としても大きく発展した。

私は1960年7月11日にカリフォルニアに渡った。アート・センター・スクールの私の新学期は9月に始まるので、それまでタイプライターを自習したり、サンフランシスコのゴールデン・ゲィト・ブリッジ(Golden Gate Bridge: 金門橋)を渡って北の郊外、マリン・カウンティー(Marine County)の北東に存在する森に面したコミュニティー、フェアファックス(Fairfax)にいる友人を訪問したりした。
或る土曜の夜、その友人達に連れられてサンフランシスコに出かけ、ナイトライフをエンジョイした。有名なナイト・スポットのパープル・オニオン(Purple Onion)だとかハングリー・アイズ(Hungry Eyes)では、黒人コメディアンで公民権運動の活動家でもあるディック・グレゴリー(Dick Gregory:左上の写真)や、初期のピーター、ポール&メリー(Peter, Paul & Mary:右の写真)が出演しており、特に紅一点、長い金髪のメリーの印象が強く残った。以後アメリカ中で非常に人気の高いグループになったことは周知の通りだ。そのメリー・トラヴァース(Mary Travers)は長い病気療養の末、去る9月16日に死亡した。

ハリウッド・ボゥル(Hollywood Bowl)ブルノ・ワルター(Bruno Walter: 1876〜1962:左の写真)が指揮するシンフォニー・コンサートを鑑賞した時のこと、、、。チャイコフスキーのシンフォニー第五番が始まったところで、誰かが夜空を横切って行く小さな光の点、ロシアが打ち上げた人工衛星スプートニック(Sputnik:左の写真の右上)を見つけた。それに気を取られた聴衆の頭が次々と上を向き、うねりとなって舞台への関心が途絶えてしまった。指揮者ワルターは演奏を中断し、スプートニックハリウッド・ボゥルの頭上を通り過ぎて消え去ってから、改めてシンフォニーの演奏を再開した。あの期せずして起こったハプニングは忘れられない。

私がプロダクト・デザインを修得したアート・センター・スクール(右の写真、後にカレッジに昇格してパサデナに移転した。)では、宿題が多く(外部でのアルバイトも加算して)年中休み無く徹夜の連続で勉強した思い出が先ず脳裏に浮かんでくる。

当時アート・センター・スクールは、自動車スタイリングのデザインを学ぶには世界一を任じ、数多くの卒業生が、ゼネラル・モーターズ(General Motors)、フォード(Ford Motors)、クライスラー(Chrysler Motors)などのビッグ・スリーに雇われ、各社のスタイリング部門の第一線で活躍し自動車スタイルの向上に貢献していた。
日本からもトヨタ、日産からかなりの人数が派遣留学で勉強していた。まだ馬力不足で無骨なスタイリングだった日本車を、将来世界的なレベルにまで発展させるデザイン・コンセプト、デザイン工程、そして技術を基盤などを修得していた。

余談だが、当時我々はコンセプトとして、現在道路上で見かける生産車と余り変わらないスタイリングの車を、既にレンダリング或いはクレー・モデルとして発表していた。だが、バンパーやヘッドライトを車のスタイリングの中にインタグレートするのが可能だという概念、安全に対する許容度の国際的な認識と法規の改善や統一化が達成されるまでには長い年月がかかり、今日やっと現実化しているようだ。

以上、私がロサンゼルスに在学中の1962年から1964年までの間に、合気道を海外に広めた功績を持つ藤平光一先生から合気道を学び、精神的に大きな影響を受けた。その他、中村天風から『死』に関していろいろ教えられながら、当時ロスに存在したママ・ライオンというバーで、バッドワイザー(Budweizer: ビール)を19本、二人で飲み明かしたことも忘れられない。

最後に、もう一つ強く印象に残っているのは、1963年11月22日の金曜日にジョン・F・ケネディー(John F. Kennedy)大統領が暗殺された事件(右の写真はダラス市で暗殺直前のパレード)。あの日に、私はロサンゼルスのビルティモア・ホテルで開催される予定だったカルロス・モントヤ(Carlos Montoya)のフラメンコ・ギターのコンサートにデートを連れて行く予約があった。暗殺のニュースが広がった正午、学生教師全員が中庭に集合させられ、アダムス(Adams)校長「大統領が暗殺された。授業は停止で解散、月曜までクラスはキャンセル」という、いとも短い発表で生徒は四散した。

この世紀の一大事件で街中が黙祷してしまうだろうか、と不安になったが、モントヤ(左はモントヤのLPアルバム)のコンサートは予定通り行われ、その鑑賞経験が暗殺事件と重なって深く強い印象として残っている。

その20年後1983年に、ホノルルのニックのフィッシュマーケット(Nick's Fishmarket )というレストランで、モントヤが食事をしているのを見かけた。モントヤはその10年後、89才で亡くなった。
後になってから「ケネディーが暗殺された日、ロスでのコンサートを覚えていますか?私も観客席にいましたよ」と話しかければ良かったと思いついたが、手遅れだった。
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灰田勝彦の、『新雪』、『野球小僧』、『東京の屋根の下』などの
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2009年11月13日金曜日

セックスの話:その2

異常な性は、Y染色体複製の成否による。

ニコラス・ウェイド(Nicholas Wade)
2009年9月14日、NYT紙より

数年前、回文(前から読んでも後から読んでも同じ文、例:"Madam, I'm Adam.")が、Y染色体の機能を保護するの重要な役割を果たしていることが判った。この地上に生きる全ての男子は、Y染色体を、6万年前に存在した男性(『アダムとイヴ“[Adam & Eve]』のアダム)から受け継いできた。女子は二つのX染色体を、両親から一つずつ与えられている。

この新しい発見には、意外な因果関係が判った。それは(染色体の)回文組織がもつ単純な弱点から、広範囲にわたる性の変わり種----女性的な男性、男性的な女性など-----の要因であることが判った。それは、ターナー症候群(Turner's syndrome)として知られるX染色体を一つしか持たない女性の肉体条件の男性版である。

染色体の回文は2003年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市(Cambridge, Mass.)ホワイトヘッド・インスティチュート(Whitehead Institute)のディヴィッド・ペィジ博士(Dr. David C. Page)と、セントルイス市(St. Louis)ワシントン大学スクール・オブ・メディシン(Washington University, School of Medicine)内のDNA順列センターの共同研究者によって、Y染色体に含まれるG, C, T, A, の文字で代表される部分の順列の基礎から発見された。それは如何にY染色体の遺伝子が変形化から守られているかという謎を解く画期的な鍵と判って一同を驚かせた。


X染色体は父母から一つずつ与えられ一対で存在するため、X同士が助け合って矯正が可能だが、Yの場合は単独だから代替システムがない。自然はそのパートナーであるXとはその最先端以外は融合させない摂理になっている。男性志向の遺伝子がXに忍び込んで生じる、遺伝的な混乱を防ぐためである。


回文の発見で、如何にY染色体が、進化の過程で悪い遺伝子を廃棄してきたかが理解された。その主要な遺伝子は8個の大きな回文の順列を内蔵し、あるものは3百万個に上るDNA単位の長さを持つ。夫々の回文はヘアピンのように畳まれ、2本の腕を揃えている。細胞のDNAは2本の腕に異常があるかどうか自動的に検索し、間違いがあれば正しい順列に矯正し、Yの遺伝子が侵蝕されるのを妨げている。


ペィジ博士は回文を発見した後、システムに弱点があれば男性染色体の異常の要因になるのではないかと想定して研究の課題とした。博士はジュリアン・ランゲ(Julian Lange)と共に最新刊の『細胞(Cell)』誌で、Y染色体の『アキレス腱』とも言える弱点が、各種の性的異常の要因となっていると記述している。


細胞が分裂する以前に染色体を複製し、各々の一対が中心球で結合する時に、回文防御システムの危険事態が起こる。その直後、中心球が分裂し、それぞれの半分とその染色体が、分裂した細胞の反対方向に引き寄せられる。 だが、分裂する前にも見逃せない過失が起こり易い。Y染色体にある回文は、時に対向する隣りの回文に届き、致命的に魅き込まれることがある。2個のYの融合で合体した時、全てが接続してしまったり染色体の一端を失ったりしてしまう。

回文が不本意な融合をしてしまう状況にもよるが、複合Yがそのような活動をすると長さも変わってしまう。他の染色体のように、Yにも左腕と右腕の間に中心球がある。男性志向の遺伝子は左腕の先端近くにある。もし回文が右腕の先端にあって結合すると『長い複合Y』が出来上がり、二つの中心球が遠くに離れてしまう。また、回文中心球のすぐ右へ結合すると『短い複合Y』となり二つの中心球は接近できる。

ページ博士は、患者の中から複合Yの長い者、短い者、その中間の者を何人か選択した。博士と助手達は、患者がもつ複合Y中心球の位置の遠近によって、性的な容姿容貌が明らかな違いを示しているのに驚かされた。複合Yにある二つの中心球の位置が接近している患者は男性。一方、中心球の位置が離れている患者は解剖学的に見て女性的であった。一部の患者はまるで女性そのもので、ターナー症候群単一X染色体で生まれた女性の肉体条件に類似していた。この多彩な様相は、細胞分裂の際、複合Yに起きた状況が胎児の性を決定付ける要因になる、というのがページ博士の見解である。[註:この場合『患者』とは病人という意味ではなく、博士の研究に協力している人々のことである。]


二つの中心球が接近している時は、分裂した細胞の一方に片寄っていて一つに見える。Yの男性志向の遺伝子が胎児の性組織または性腺の細胞中で活動的である限り、性腺は精巣(睾丸)となりそのホルモンは他の部分の筋肉を発育させる。

しかし、二つの中心球が遠く離れていると染色体に混乱が生じる。細胞分裂の最中、中心球は両方とも細胞分裂機能によって認知され、複合Y染色体同士の引き合いで、時に生存し、時に破壊されて細胞の中で失われてしまう。


かくして個人それぞれが、複合Yのある細胞や、Y染色体が不在の細胞など、様々な状態の細胞を抱えている。様々な細胞が胎児の性腺にあると、中性の子供が生まれる。片方に睾丸組織を持ち、一方に卵巣を備えている異常な中性者の多くは、女性として育てられることが多い。

この過程の極端な場合には、細胞の分布において、Y染色体をもつ細胞があっても、胎児の性腺には不在である場合がある。ページ博士と彼の助手たちは、典型的なターナー症候群に見られるような女性的な5人の男性患者を発見した。その患者たちは、その血液細胞の中にY染色体が含まれていることでページ博士が注目した。彼らは肝心な胎児性腺に必要なY染色体が欠如していたのである。


ターナー症候群の女性の75パーセントは、単一X染色体を母から受け継いだものだった。ページ博士は「彼女らが女性である以上、誰もが父親からXをもらわなかったと考える。だが実際には父親のYを受け継がなかっただけなのだ」と言う。

複合Y染色体にある二つの中心球の距離が、女性化の程度と符号するということは「自然の不可思議な摂理」ページ博士は言う。30年近くもY染色体の研究をしているにも拘らず、博士にとって今でも常に驚きの発見の連続が続いて「私はYから異常な現象が見られる無限に豊かな国立公園として考え、未だに失望したことはない」と語った。


アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティック(American Journal of Human Genetics)の編集者、シンシア・モートン博士(Dr. Cynthia Morton)は、ターナー症候群に関する新説は信頼に値するとして「ディヴィッド・ページの遺伝科学への素晴らしい貢献」と絶賛している。

微妙な過失
左の図:性を決定づける染色体:女子は二つのX染色体から成り、男子はXとY染色体の一対から成る。永い間、Y染色体は別のYと対になっていないため、正しく複製できないと考えられていた。
中の図:複製の過程での過失:細胞の分裂の際に過失や変形が起こる。Yと他の染色体が複製され、それぞれの中心球によって分裂したそれぞれの半分に誘導される。
右の図:自ら矯正:Y染色体は8ツのDNAがつながっていて、反転しても変わらない回文順列に並んでいる。この『回文』なる反転可能の順列は、折りたたまれてお互いに組み合い、DNAが過失や変形を比較して矯正できるようになる。

左の図:不調和:だが、もし回文のY染色体が、その複製と組み合わさると、複製はYに融合して(図の左から右へのように)両端があり中心球が二つになってしまう。それで融合点から先の遺伝子を失うことになる。
中の図:遺伝子の欠如:もし二つの中心球が接近していると、双端のY染色体が複製され、分裂して半分ずつになり、それぞれが半分になった細胞に引込まれる。二つになった細胞はそれぞれが不完全な遺伝子を受けることになる。
右の図:Y染色体の欠如:しかし、分かれた中心球の位置が離れていると、双端のY染色体は細胞分裂によって裂けて破壊されることがある。欠損または不完全なY染色体は、性を異常にする原因となる。

2009年11月12日木曜日

セックスの話: その1

志知 均(しち ひとし)
2009年11月7日

愛知県小牧市にある田県(たがた)神社の豊年祭りはわざわざ海外から旅行者が見に来るほど異様である。長さ2.5メートル、重さ250キログラムのヒノキの男根が「おみこし」で12人の厄男(42才)が1.5キロメートルの距離をわっしょい、わっしょい担いで歩く。このセックスに対する感覚のおおらかさには現代人は驚嘆するが、田県神社の祭りは豊穣を願うまじめな行事である。

日本人は本来セックスにはおおらかな民族なのだ。須佐之男命の乱行に手をやいた天照大神が天岩戸にかくれて世界が暗闇になった時、もろもろの神が岩戸の前で酒盛りと裸踊りで大騒ぎして、何事ならんと顔を出した大神を岩屋から引きずり出した、という神話のある国だから。ところで、この小文は日本人のセックスの話ではなく、セックス風俗の話でもないので、がっかりされるかもしれないがしばらくお付き合い願いたい。(右のイラストは高橋 経)

今年夏のベルリン大会での女子800メートル競走で1分55秒45の世界新記録をだした南アフリカのキャスター・セメンヤ(Caster Semenya)は容貌も筋肉の発達具合も男性そっくりで、本当に女性なのかどうかが問題になった。疑惑を晴らすために国際陸上競技連盟が行った検査によれば、セメンヤには卵巣はなく不完全な精巣があるらしい。したがって女性でも男性でもない。日本語では[半陰陽]と呼ぶ。どこの国にも女みたいな男、男みたいな女、ホモセクシャル、と色々あるがセメンヤのようなケ-スが起きると、セックスとは何だろうと考えてしまう。そこで本題に入る。

話がすこし難しくなるがセックスの生物面について簡単にのべてみよう。ヒトには23対(つい)の染色体(遺伝子の担い手)があり、そのうちの一対が性染色体で、XXの対をもつのが女性(メス)、XYの対をもつのが男性(オス)と決められる。しかしXX染色体で精巣があるケース、或いはXY染色体で卵巣のあるケースがあり簡単ではない。受精卵には当然XXとXYの両方が共存し、発生初期の胚子(embryo)の段階では、オスにもメスにもなる可能性をもっている。どちらになるかについては、可成り以前の研究でSRYとよばれる遺伝子が精巣形成に関与することがわかった。

その当時は、未分化胚子はメス型でSRYの働きがなくて、オスになりそこなったのがメスになるとする説(女性蔑視でdefault pathwayと呼ばれた)が通用し女子研究者を憤慨させた。その後の研究でSRYの他に、いくつかのセックス決定遺伝子(FGF9, WNT4, SOX9など)が見つかり、現在はオス、メスをきめるメカニズムについては次のように考えられている。WNT4が強く発現するとXX性腺(gonad)が発達しメスになる。一方、SRYFGF9SOX9の発現を助けWTN4の発現を抑えると、XY性腺が発達しオスになる。つまりオス指向の遺伝子とメス指向の遺伝子は発生初期の胚子ではお互いに競い合っている。これがほんとうのセックスの戦い(battle of sex)か?


オス、メスになる確率は50対50だが、個々の妊娠では栄養状態、遺伝傾向、生活環境などが影響するから、新生児に男子が多かったり、或いは女子が多い家族ができる。オス、メスをきめる遺伝子の競合に混乱が生ずると新生児は半陰陽になる。中距離ランナーのセメンヤ不完全精巣をもった「女性」であれば筋肉を発達させる男性ホルモンを分泌しているので女性として新記録が出せるのは驚くにあたらない。

オス、メスの分化による有性生殖動物、植物、菌類(fungus)単細胞原生動物(protozoa)を含む核をもった生物(真核生物)に広くみられ(菌類、原生動物ではオス、メスと呼ばないが)その起源はおそらく20億年前にさかのぼる。有性生殖ではオスとメスの遺伝子が混じり合って多様な子孫をつくるので、無性生殖に比べて種の環境への適応性が高くなる利点がある。興味あることに、自然界ではオス、メスのちがいはそれほど確固たるものではない。


たとえば、魚類ではオスの数が減少するとメスがオスに性転換して卵子の代わりに精子をつくるようになる。またある種のモグラは季節によってオスからメスへ、またメスからオスへ性転換する。したがって、ホモセクシャル人間や手術によって性転換したい人間がいても不自然ではないかもしれない。しかし、ヒトの場合こうした性倒錯はヒトの種の生存、適応とは無関係な状態でやはり異常である。生活環境の影響、ホルモン・バランスの異常、更に遺伝的傾向などが原因として考えられるが、性倒錯を病気とみるか個人の選択とみるかで社会の受け入れ方が変わってくるので慎重に考えるべき問題である。


最後にジョークをひとつ。


A. 田県神社の豊年祭りで、みんなが坂本九の歌を唱ったそうだよ。

B. 何の歌?
A. 上をむいて歩こう。

ミュージック・セラピーで老化を防ぐ

服部公一先生に聞く
聞き手:読売新聞記者、桜井 学
11月9日付、文化『こころのページ』欄から

はじめに:
記者が子供時代に楽しんでうたっていた『アイスクリームの歌』。その作曲者の服部公一(はっとり こういち)さんは、作品同様、愉快なエピソードを披露してくれた。話の背景には、必ず現場でのリアルな体験がある。音楽を始めた山形時代、米国の地方都市、幼稚園での指導など、そこで考え、得た知識が音楽や著書に反映されているのだろう。だからこそ、その内容は親しみやすく、かつ現実の重みがあり、幅広い年代に愛されてきたのではないか。

[服部公一先生のお話]
♬ 最近、高齢者の合唱団が盛んに活動していますね。先日早稲田大学のOB合唱団の演奏会を聴いたのですが、平均年令が75才ぐらいなんです。90代の人もいて、杖をついて歌っている方もいたんです。それがすごく上手なんですよ。


♬ コーラスは健康上いい。まず肉体労働だから腹が減る。楽譜を見て、周りに合わせて歌うからそれは知的作業になる。両方が必要だから老化防止になる。それに音楽には人の情緒を安定させる力がある。このあたり、昔ミュージック・セラピー(Music Therapy: 音楽療法)の知識が役立っています。

♬ 1960年代初め、米国のミシガン州立大学(The Michigan State University)に行ったんです。当時はNHKのオーディションに合格して、放送用の童謡などを作曲していました。私は音楽学校に行っていませんから、箔(はく)をつけようと。外国帰りっていうのは売りになるんじゃないかと思ってね。そこでミュージック・セラピーを学んだんです。当時は新しい分野だったから、学生の人気がなかったんでしょうか、大学側に勧められたんです。

♬ 日本では知られていませんでしたから、勉強しながら半信半疑でした。実習で病院に行って、たとえば心を病んでいる人にピアノを弾かせて精神のバランスを保てるように誘導する。音楽を使ったコミュニケーションで心をほぐしていく。

♬ 大学で学んだ後は。同じ州フリント市(Flint)ゼネラル・モーターズ(General Motors)の工場街があり、そこで仕事をしました。自動車産業が好景気の時代で、労働力として人がどんどん流入してくる。その子供たちやお母さんたちのためのプロジェクトでした。背景の異なる人たちが集まっているので、問題もあり、勉強になりました。[編集註:今は昔、、、1960年代、ミシガン州フリント市の繁栄時代、GMの肝煎りで音楽療法の理論に基ずく広範囲の情操教育プロジェクトが始まった。主務者はフリント市教育委員会の音楽指導主事ベティ・キーム博士(Betty Kiem, PhD.)で、当時30代後半のブルネット美人。黒人が主な対象で、先ず楽器を購入し、同時に器楽教育の専門教師を30人採用した。その中の一人が作曲家として採用された服部先生だった。プロジェクトの成果は目覚ましく、その成功を身をもって体験した先生は後年「音楽レッスンとは修行僧の如く辛さをっこらえ、営々と励まねばならぬもの、、、という観念に満ちた日本に育った私は、このフリントの成功を見て、本当に眼からウロコの落ちる思いがした」と感嘆している。(イラストは高橋経)

♬ 
楽器にさわったこともない子供たちに演奏のイロハを教え、お母さん方相手にやったのがコーラス。参加者は最初一つの音に合わせて歌うが、うまくできない。みんなバラバラ。まずは全員で「ド」を発声することから始める。できるようになってくると、声の高い人たちと低い人たちに分けてハーモニーを作る。音楽は、人種や教養の差を超える。いろいろ違いがある人たちでも、音楽でうまく気持ちがつながるようになるんです。結局そこに数年いました。

♬ 帰国後、長い時間がたって、東京家政大学大学院ミュージック・セラピーを教えることになったんです。それに付属幼稚園の園長を6年間もやらせてもらいました。大学に来る前は、ずっとセラビーのことは忘れていたんですけどね。いつのまにか、それが日本に浸透していた。園長時代は子供たちやお母さんたちと直接ふれあって、米国時代を思い出しましたよ。

♬ 最近は、なんと自分自身にもミュージック・セラピーを課しているんです。毎日小一時間ピアノを弾く、中学生の時に使っていた楽譜がまだあってね。これがうまく弾けないの。その後、30分ほど大声で発声練習をするんです。

♬ 期せずして学んだミュージック・セラピーなんですが、自分の生涯を通して、ずっとついてまわっというか、不思議な縁を感じますね。

2009年11月11日水曜日

読書はエレクトロニックスで?


細々ながら出版を営んでいると、それなりの情報が入ってくる。私が出版している本は、ネット通販アマゾン・ドット・コム(Amazon.com)を通して販売しているが、一年ほど前に同社から「貴社の出版物を電子化しませんか。売り上げが飛躍的に伸びます」という謳い文句でキンドル(Kindle)』と名付けた掌中に納まる大きさのコンピューターの一種を売り込んできた。

『キンドル』は厚さ9ミリで290グラム、ネットに無線で接続し、既に電子化された20万冊の蔵書から好みの書籍を9ドル99セントでダウンロードできる。2ギガバイトのメモリーを内蔵しているから1500冊分の書籍が収納でき、新聞、雑誌を定期購読すれば自動的に配信される。今年の2月には、第二世代に改良されたキンドル2が登場した。最近では日本を含む100カ国以上で販売するという意気込みだ。今のところ英語一本やりだが、日本語版ができるのは時間の問題であろう。アメリカでの小売り価格が269ドル、日本での価格はほぼ同じで約2万5千円となっている。


私は『キンドル』の性能にすっかり魅了された。ただし出版者としてでなく、読者としてである。通勤の電車の中で、旅行中の汽車や飛行機の座席で、よく本を読んだ。従来の本の難点は重くかさばることだ。その難点が、たった290グラムの
『キンドル』で解決、1500冊もの書籍を収めて持ち歩ける、とは夢のような話である。

だが待てしばし、冷静に他の可能性を考えてみると『キンドル』にも難点がある。私の「本作り」ではイラストや写真が欠かせない。「絵は言葉を視覚的な理解を助け、言葉は絵だけでは伝え切れない意味を明確にする。従って、言葉と絵が両立することによってより明快なコミュニケーションが可能となる」というのが私の信条である。『キンドル』の性能書きに『絵または写真』の表示について触れていない。更に色彩豊かなグラフィック本や児童向け絵本はどうなのだろうか?今の所『キンドル』はモノクロの文字を表示する性能だけが特長のようだ。

私の
『キンドル』熱は急速に冷めたが、出版業界の一部では熱気が上昇しているようだ。

一例が、アーネスト・ヘミングウェー(Ernest Hemingway)スティブン・キング(Stephen King)の著作を出版したことで知られるサイモン&シュースター社(Simon & Schuster)では、マルチメディアの組織と提携して文字を電子化し、ネット、アイフォーン(iPhone)、アイポッド・タッチ(iPod Touch)などで読めるヴック(vook)と名付けた新しい出版物を4冊発行した。


9月の始めには、テレビで人気番組CSIの創作者アンソニー・ズゥカー(Anthony Zuiker)レベル26:暗い起源(Level 26: Dark Origins)』という小説を出版、それを電子化し、またその聴覚版も作り、読者は彼のウェブサイトで予告編を見たり聴くことができる。


近年の出版業界が書籍の電子化に移行しつつある現象は、明らかにテクノロジーが及ぼした影響である。アマゾン『キンドル』だけではない、ソニーの『リーダー(Reader)』も人気を獲得しつつある。いずれも従来の書籍の体裁を踏襲しているが、サイモン&シュースター社では更に一歩進めて、電子化だからできる特長も付加させている。例えば、美容体操、化粧法、ダイエット食のような題材には、本文の他にビデオで動きを眺めることもできる。同社は文学にもビデオを付加する計画をもっている。


ロマンス小説の人気作家ジュウド・デヴェロウ(Jude Deveraux)は最近作のヴック『プロミシズ(Promises)』で、時代的な南カロライナ州の大農園の状景をビデオに収めて付けてある。彼女は、将来の作品には音楽や匂いなど五感の全てを入れてみたい、と意欲満々だ。


また更に、社会がネットワークで連携しているテクノロジーを利用して、読者の反応を直接に把握できるという利点もある。 ハーパー・コリンズ(HarperCollins)で最近発行した青年向けの連続ミステリーアマンダ計画(The Amanda Project)』では、読者に謎解きの挑戦をしている。こうした読者参加を呼びかけて、その意見に強い影響力があった場合は、本来の筋書きを外れてプロットが展開する可能性もある。同社、児童書部門の出版責任者スーザン・カッツ(Susan Katz)「大きな読書クラブなどに著者がリーダーとして出席し、読者の声に耳を傾け、意見を尊重する場合も起こり得る」と予測している。

かくの如く、書籍の電子化に伴う可能性は限りなくふくらんでいるが、一方で懐疑的な見方もある。


Rjグラナドス(Granados)「華々しいおマケ付きで、本(文学)の内容が向上するとでも思っているのだろうか」と厳しい。

ハーヴァード大学(Harvard University)図書館のディレクター、ロバート・ダーントン(Robert Darnton)はその著書書籍について:過去、現在、そして将来(The Case for Books, Past Present and Future)』の中で「読書法が時代によって変遷しているが、必ずしも向上しているとは限らない。そうでなくとも、ある一部の不滅の作品が失われたことを嘆いているのに」と書いている。

また青いドレスを着た悪魔(Devil in a Blue Dress)』の著者ウォルター・モスリー(Walter Mosley)「私は小説家として、決して決して散文をビデオに置き換えさせない。『読書』は、我々が
外的に関わる僅かにして貴重な体験で、その過程で認識能力が成長する。テレビを見たり、コンピューターを玩ぶことは、我々の認識能力を退化させる行為に過ぎない」と断言している。

ところで、このブログエレクトロニックスによる読み物であることをお忘れなく。