2009年9月21日月曜日

硫黄島(いおうとう)で拾った手紙

リゼット・アルヴァレツ(Lizette Alvarez)
2009年9月18日
NYタイムズ紙から抜粋、再編集


太平洋戦争末期の1945年2月19日、アメリカ空軍の超大型爆撃機『空の要塞』B−29と艦上戦闘機ヘルキャットの空爆が、海兵隊の硫黄島上陸侵攻に先立って激しい破壊を展開した。島の日本守備軍は栗林忠道中将が率いる2万1千名の将兵、一般市民は、すでに激戦を予想して帰国させていた。攻めるアメリカの海兵隊はクリフトン・ケイツ少将(Clifton Cates)の第4師団ケラー・ロッキー少将(Keller Rocky)の第5師団が並行して上陸を敢行した。(上の写真は硫黄島の日本兵、左が武川松治と推定)

当時21才のフランクリン・ホッブス(Franklin W. Hobbs:左の写真、一番脊が高い右端がホッブス)は海兵隊の一員で、上陸の模様を「敵味方の弾丸が激しく飛び交う中で、生きて還れるとは思えないほど酷い戦いだった。それまで死んだ人間なぞ見たことがなかったが、数え切れないほど仲間の屍体が岸辺にごろごろ、水の中にはプカプカ浮き沈みしていた」と回想する。

気丈な同僚の隊員が「俺と一緒にいろよ、離れるんじゃない」と励ましでくれ、二人で何とか砂地に塹壕を掘って
2日ほど身を隠し、生のベーコンをかじりながら戦闘を続け、それから少し前進し電信ワイヤの敷設作業を始めた。

一週間後、ホッブスがトラックを運転していた時、トーチカの傍らに死んで横たわっている日本兵を見かけた。その兵隊の体には目立つような傷はなく、鉄兜をかぶり軍服を着て、その服の胸のポケットから白い封筒がはみ出していた。好奇心からかそれを抜き取って広げてみたら、子供の手によると思われる色彩豊かな『バケツをリレーする防空演習』の様子が描かれていた。それと赤ん坊の写真が貼付けてあった。ホッブスは近くにいた上官に断ってその絵のある手紙を自分で保管することにした。後年「私は自分でも何でそんな気になったか、ただ変わった絵や写真だったから、参戦した記念品の積もりで抜き取った」と語っている。

硫黄島攻略の結果として、日本の守備隊は2万名戦死してほぼ全滅、1,000名が捕虜となり、一方勝った海兵隊の損害も死者6,800名、2万1,800名が負傷するという惨状だった。


命永らえたホッブスは戦争が終わって帰国、政府の退役軍人向けの奨学金でハーヴァード(Harvard Business School)に進学、ビジネス管理の学士号を取得し業務で成功した。前記の硫黄島で手に入れた日本兵の手紙は忘れられたまま保管されていた。


ホッブスの妻マージ(Marge)がある日、部屋を片付けていた最中にその手紙を見付け、描かれている単純な絵を見て何か心を動かされるものを感じた。マージ
手紙を額に入れ、額の裏側に手紙の封筒を要心深く貼付けて壁に飾った。一方、ホッブスは仕事に熱中していたので、戦争中のことを回想している暇もなく又過去を省みるタイプでもなかった。

2007年、ホッブスマージと離婚し他の女性と再婚した。またこの新妻が先妻と同じマージという名前だった。新マージが夫の書斎を整頓していた時、たまたま
手紙の額を机の上に認めた。額を裏返したら、そこに封筒と赤ん坊の写真が貼付けてあった(下の写真:額の表はビデオで見られる)。彼女は奇妙に思い、夫にその由来を聞き正し、ホッブスはそれを入手した経緯を一部始終マージに話した。

「それで貴方はこの手紙を家族に返すお気持ちはないんですか?」マージ尋ねた。「私としたことが何ということだ、考えてもみなかったよ。勿論返す気は充分にある。何十年も経った今、あの日本人の家族にとっては最期の遺品になるだろうからな」ホッブス

マージは早速教会で知り合った日本人、和田れい子
手紙に書かれてある文字の翻訳を頼んだ。日本兵の名は武川松治(たけがわ まつじ)で封筒から三條市に住んでいた事が判った。和田れい子は神戸出身で在米40年、手紙をコピーし日本の領事に『家族捜索』の相談をした。結局和田れい子は年に2回は帰国するので、自ら手紙のコピーを携帯して東京の社会保障事務所を訪ねた。係官はそのコピーを三條市の支部に送り、何日か経って日本兵、武川松治の娘、武川ちえの新住所を突き止めた。

ちえ手紙コピーを担当員から見せられた時「すっかり驚きました。私の父が手紙を肌身離さず死ぬまで持っていてくれたなんて」と呆然としていた。『防空演習』の絵はちえ自身が小学生の時に描いて先生から褒められたもので、赤ん坊の写真はちえの妹の洋子、生まれた時には父の松治は既に戦場へ行った後で、洋子と父は対面する機会を永遠に失った。

1973年、28才になった洋子は宣教師の資格をとり渡米しニューヨークへ行き、アルバニー(Albany)で結婚して女児を産みけいいちと名付けた。その後離婚、1986年ニュージャージー州の北部に移り、現在は(左の写真、65才)、同州のフォート・リー市(Fort Lee)に住んでいる。

ちえから電話で手紙の次第を知らされた時、洋子は会ったこともない父が、突然身近に現われた思いで「何やら父の魂が私の体に乗り移ってきたような気持ちです。経済的には父の恩給で私たちは教育を受けることができました。今、私にとって手紙は宝物で、その宝が父の愛を私へ運んでくれたのです。今、父の存在を肌身で感じます」と深い感慨に打たれていた。ちえも同様で「父が生き返ってきた思いです」と感無量だった。

武川洋子
は、マサチューセッツ州チェスター・ヒル(Chester Hill)にあるフランク・ホッブスの家に招かれ、家族、ボストンの日本領事、外国の報道記者も交えて近くのカントリー・クラブで昼食を共にした。

当年とって85才で安楽な余生を過ごしているホッブス(右の写真)はその時の模様を洋子が車から降りて私に歩み寄り、抱きしめてくれた時は、強烈な感動がこみ上げてきた。私にとっては『収集品』程度の値打ちしか考えていなかった『手紙』が、洋子にとってどれほど重要な意味を持っていたかということを思い知らされたと述懐していた。

武川洋子ホッブスさんは輝くような魂をお持ちです。その魂が私達のために私の赤ん坊の時の写真や姉のクレヨン画を大事にして下さったのですと心から感謝の気持ちを表していた。

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短いビデオですが、是非ご覧ください。右をクリック:硫黄島で拾った手紙

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

憎しむ理由のない二つの国の民々が、お互いに殺し合うのが戦争です。でもその血みどろな戦いに中で、ふとしたことから無意識な人間愛が生まれることに大きな救いを感じます。
いずれにしても、戦争はあくまで避けるべきですね。