2009年9月30日水曜日

迷わない迷路:ラビリンス

[覚え書き:去る9月25日から27日まで、エリー湖年会(Lake Erie Yearly Meeting)会員の有志28名が、ドミニカン・シスターズ(Dominican Sisters)施設内のウェバァ・センター(Weber Center)での静修会(Retreat)に参加した。リーダーはアーラム大学(Earlham College)の教授マイケル・バーケル(Michael Birkel)、会は充実した成果を挙げて終了。下記の話題は筆者がその自由時間に体験したことによる。]

高橋 経

ミシガン州の南、オハイオ州との境界から20キロほど北にエイドリアン(Adrian)という小さな街があり、その街外れの広大な敷地に聖ドミニコ会の尼僧院(Dominican Sisters Campus:上の写真)がある。煉瓦建てのコンプレックスは、二つの礼拝堂、教会、集会所、アパート、養護施設などで構成され、その奥には墓地、庭園(上の写真上部右の円)などがゆったりと配置されてある。創立が1905年だから一世紀以上の歴史を持つ。過去に何度か改築、増設されて今日の施設に発展した。

さて話題は尼僧のことではない。その庭園の一郭にあるラビリンス(Labyrinth)についてである。


ラビリンス(左の図)とは、迷路、迷宮、のことで、やや神秘がかった意味合いを持っている。このドミニコ会の庭園にあるラビリンスのパターンは、特に珍しいものではなく、同じパターンのラビリンスは世界中に散在しているようだ。デザインは一見複雑だが、脇道もなければ、行き止まりもない。円周の一点から入り、曲がりくねった小径(こみち、path)を歩き続けると、誰でも結果として中央の花型地点に辿り着く。これでは迷路ではない、日本語の翻訳が間違っているのではないか、と思ってメィズ(maze)の日本語訳を調べてみると、迷路、迷宮、とほぼ同じ解釈になっている。

念のため、ゲームのラビリンス(右の写真)を調べてみた。これには脇道あり、落し穴ありで、微妙な操作と練習が要求される。それでも、径路は一目瞭然で、道に迷うことはない。ただパチンコ風の鉄の玉が思い通りに転がってくれないから、穴に落ちたり、道を逸れたりする。

ドミニコ会の庭園にある
ラビリンスが迷路ではないと断定し一旦は失望したものの、かくも優雅にして荘重な尼僧院が、人手をかけ良質の材料を使い、成人が何人も歩けるラビリンスを造成するからには何か特別な意味があるのではないかと思い直し、年配の尼僧にその意義を伺ってみた。彼女は親切にかつ優しく;

「このラビリンスは、瞑想(めいそう)して精神を修養する手段として古代から伝わり、世界中に広まった伝統です。古代人はを調和、健康な精神、高潔、善意などを象徴する聖なるシンボルと考えていました。最古のものは3,500年前に遡り、クレタ島・ラビリンス(Cretan Labyrinth)と謂われ、また古代の7つの同心円(the Classical Seven Circuit Labyrinth)』という別名もあります。同心円は、自然の現象;例えば『年輪』、『草の蔓』、『巻貝』などの螺旋形から暗示を受けて創作されたのであろうと推測されています。」ラビリンスの由来から説明してくださった。(左の像は聖ドミニコ)

という訳で、数々のヘアピン曲折はともかく一本道だからと漫然と歩いて中心に辿り着き「誰にでもできる」とバカにしていたら何の啓発にもならないのだ。ゆっくり静かに歩きながら、瞑想に耽り、思考し、苦吟し、精神の修養を積み重ね『人生の答え』を探求するため己(おのれ)を無心の状態にするために、
ラビリンスという場は絶好の環境設定なのである。
どうやら、この考え方は仏教の座禅と共通するものがあるようだ。

2009年9月28日月曜日

忘れられたアメリカの汚点

[はじめに:どの国でもそうだと思うが、学校で教える自国の歴史は、その恥部についての叙述は控え目にして、国威を宣揚する輝かしい誇れる史実を強調する傾向がある。アメリカの歴史教育も例外ではない。一方で、そうした虚飾に満ちた教育に反発する発言が、何時の頃からか折々書物やテレビなど公(おおやけ)の場で発表されるようになった。

アメリカの場合に限ってそうした告発説を展望すると:★コロンバスはアメリカを『発見』したのではなく『侵略』したのだ。★インディアン(アメリカの原住民)は野蛮人ではなかった。★東洋人を排斥した史実。★その他。


このブログでも、そうした教科書に書かれていない『告発説』を、将来折りを見てご紹介する計画を立てている。
今回の話題は、アメリカの黒人が強制労働を強いられていた史実の告発をご紹介する。 アフリカから黒人をアメリカに拉致し、奴隷として売買し、それが南北戦争の直接の原因になった史実は、教科書に触れているので誰でも知っている。しかし、南北戦争でリンカーン大統領の北軍が勝って解放された筈の黒人が、それ以後も奴隷同様の労働を強いられていたことは余り知られていない。それが、ダグラス・ブラックモン(Douglas A. Blackmon)が取材して著書にした『名目を変えた奴隷制度(Slavery by Another Name)』である。編集]

キャメロン・マクワーター
(Cameron McWhirter)寄稿
[筆者はアトランタ・ジャーナル・コンスティチューション紙(The Atlanta Journal Constitution)のベテラン記者]

ダグラス・ブラックモンについて:
過去20年以上に亘って、ダグラス・ブラックモンは、アメリカで虐げられていた人種を重点的に書き続けてきた。ミシシッピー三角地帯(Mississippi Delta)の農村で生まれ、その地方の白人黒人混在の学校で少年期を過ごし、公民権運動の陰でもみ消されていた挿話、近代社会が過去における葛藤のシコリをどう処理するかという苦悩、などに繰り返し直面し、その答えを模索していた。 蓄財、企業の運営、人種差別など夫々の様相がお互いに絡み合った題材を扱った彼の評論は、しばしばウォール・ストリート・ジャーナル紙(The Wall Street Journal)に掲載された。同紙のアトランタ支局長として、彼はアメリカの東南部における運輸関連企業、その他の商社や公的組織の取材を管理している。ブラックモンとそのチームは、金融崩壊や、2005年のカトリナ暴風(Hurricane Katrina)などを始めとした数々の取材を発表し業界で認められてきた。

ブラックモンは、成長期に黒人の社会を自分の耳目で見聞していたので、学校で教えられた奴隷の歴史に食い違いを感じ、素直に受け入れられなかった。彼にとって不可解だったのは、南北戦争以後、奴隷制度が違法となったのに何故白人と黒人の生活程度や教育水準に大きな格差が開いたかという疑問だった。ブラックモン我々は、黒人が貧しく教育程度が低いのは南北戦争当時に彼らが奴隷だったからだ、と教えられたが納得いかない。経済的な面だけから見ても、戦争当時は誰もが貧困だった。どうして今日、白人が中産階級になっているのに、黒人が取り残されているのは不公平だ」と、南部地域一帯の裁判所記録を7年かかって片端から調べ上げ、南北戦争以後から20世紀に至るまで奴隷制度が違った形で継承されていたことを突き止め、その答えを出した著書が名目を変えた奴隷制度である。

そして[アメリカが無視しておきたい醜い真実を抉り出したことによって]彼の著書はノン・フィクション分野で今年度のピュリツア賞を受賞した。

『名目を変えた奴隷制度』について:

ブラックモンがアメリカの黒人の公民権を話題にすると必ず誰かが「何で黒人は不平を唱えるのだ?その問題は150年も昔に片が付いた筈なのに」と不審がる。彼は「そうした『不審』が歴史的にも現実的にも間違っているのだ」と指摘する。(写真右:未成年の囚人、ルイジアナ州)

更にジム・クロウの差別法(Jim Crow laws)や、KKK団の狂信的な黒人排斥活動の以前に、南部における経済と癒着(ゆちゃく
)した法律制度と、企業や産業が安い労働力の供給を求めていたことに問題が潜在していたのだ。言うなれば『強欲』が動機だったのだ」と断定する。この著書でブラックモンは、なぜアメリカの歴史は書き換えられねばならないか、について次の項目に分けて説明している。

◆ 別の
『ネオ奴隷制度』が生まれた根拠
◆ 陰謀を扶助した犯罪制裁制度
◆ いかに歴史家が史実を見逃したか

◆ 20世紀の奴隷制度

◆ 戦争による(奴隷)解放

◆ 都合の良い『忘却』

◆ 『記憶』すべき理由


南北戦争が終ったのが1865年、それから近代産業の幕が開き、様々な産業が勃興した。農業、鉱業、鉄鋼産業、などの企業経営者は、新しい需要を開拓して着実に利益を上げていたが、より大きな利益を上げるために『安い労働力』を獲得する方法を探索していた。そこで目を付けたのが、囚人の強制労働を利用することだった。

彼らは囚人の労働力を獲得する手段を裁判所や警察と談合して合意を得た。警察は産業が『注文した』必要な労働人数を満たすため、より多くの犯罪者を検挙する必要に迫られ、微罪(万引きなど)でも容赦なく検挙し裁判にかけた。それを受けた裁判所は罪の軽重に拘らず何年もの過酷な『強制労働』の刑を与えた。

労働環境には殴打、体罰、拷問など日常茶飯事で(写真左上;右上は猟犬を使って脱走者の逮捕に)、中にはその挙げ句に死に至ることも稀でなく、屍体は無縁墓地に埋められた。同時に北部の商人たちは、そうした事実には目をつぶって安い商品を買いあさり利益をむさぼっていた。(左:奴隷制度反対者の間で配布されたパンフレット)

ネオ奴隷制度は第二次世界大戦の勃発まで続いていた。偶然ではないが、その頃から農業や鉱山に新技術が導入され労働力事情が徐々に不必要になってきた。

それに伴って、白人たちは罪の意識に囚われないために、黒人たちは彼らの子供たちに『怒り』の火を点けるのを怖れたために、ネオ奴隷制度は忘れ去られていった。

また、ブラックモン「こうした1910年代のジョージア州における末期的な制度の犠牲となった大多数の黒人たちが、貧しく文盲だったのでアンネ(Anne Frank)の日記を書ける者がいなかった。歴史家たちは事実を見逃した。彼らが白人だったからでもあるが、彼らはまた、『我々に報道記者など要らない』とうそぶいてもいた」と嘆息する。 --------------------------------------------------------------------
『名目を変えた奴隷制度(Slavery by Another Name)』はまだ翻訳されていないようです。

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2009年9月22日火曜日

べんと、べんとー、べんとう、 Bento

学校弁当
『給食』という制度ができる前、つまり昭和20年の敗戦以前の小学生や中学生は自分の弁当を教科書などと一緒にカバンに入れて学校へ持参したものだ。おおむね主婦である母親が用意した。基本的にはご飯、それにおかず、海苔、梅干し、などが主な献立でアルミの容器に詰められていた。他の級友の弁当の中身を盗み見て優越感にひたったり劣等感に陥ったり、ささやかな競争意識を感じた甘酸っぱい思い出をお持ちの方もあるだろう。形は四角、小判型、などで、食欲が旺盛になるにつけ、肉体労働者が使うような大きな容器に移行した。土方(どかた)の弁当箱だからドカ弁と呼ばれた。


駅弁
汽車路線の各駅で売っている弁当駅弁。地方色豊かなのが魅力で、横浜の『しゅうまい弁当』とか大船の『鯵(あじ)弁当』その他諸々全国津々浦々、数え挙げたらキリがない。汽車が発車し動き出してから窓から買い求めると売り子(大方中年だが)が走りながら客と取引きする瞬間は、正にプロの早業で新幹線では味わえないスリルが満点だった。

弁当屋

学生の弁当駅弁が時代遅れになり衰退したと思っていたら、別の形で発展していた。街角に弁当屋が現われ、学生や会社勤務の人々その他が利用して繁盛している。駅弁は大都会のどこかで『全国の駅弁』売り場があって、汽車に乗らなくても日本中の駅弁が選り取り見取りだ。便利といえば便利だが、郷土色の雰囲気が堪能できるかどうかは保証の限りではない。

盛り合わせ弁当

街角の弁当屋が繁盛しているのを、本格的なレストランが指をくわえて
黙っている筈が無い。元々メニューにあったのだが、陽の目をみるようになった。間仕切りのある漆(うるし)の器にピカピカの白米はもとより、刺身、てんぷら、とんかつ、漬け物の数々が所狭しと盛り付けられている。日本料理としては珍しく食べ切れないほどの量があるので会席などでは人気を博している。

スーパー弁当
スーパーマーケットやコンビニエント・ストアーは消費者の好み傾向を敏感に反映する。日本はおろか、アメリカでも弁当コーナーが設けられ、『寿司』『のり巻き』など日本食の普及にも一役買っている。


BENTO
かくして、吾が愛すべく誇るべき『弁当』は国際的な市民権を獲得し、その名も
BENTOとして知られるようになった。その普及ぶりは、以下、9月8日付けニューヨーク・タイムズ紙上でサマンサ・ストリィ(Samantha Storey)紹介した記事の一部からご想像いただこう。

BENTOの特長の一つとして、食事摂生(ダイエット)の配慮があり、献立の配分が適正にコントロールされているのに感嘆する。BENTOは、子供の健康を考慮する母親にとって、うってつけの方法だ。そして日本伝統の『母親の愛』が盛り込まれている。

2才になった娘のためにBENTO作りを日課としている中国系アメリカ人のシェリ・チェン夫人(Sheri Chen)「お弁当作りは、私にとって一種の儀式なの」信じている。

去る土曜日、セントラル・パークで異文化交流祭の一部としてフランスの団体同盟フランセーズ(Française)BENTOを出席者たちに配った。そのBENTOには、フランス料理、アメリカ料理の一流シェフ達の手で料理されたものが盛られていた。

不特定多数のBENTO愛好家たちのために、インターネット通販で、動物や花の型とかBENTO用の付属品が用意され、その販売量は確実に伸びている。(末尾のサイト案内を参照あれ)

イェール大学(Yale University)で東アジア研究と政治学を専攻しているジョーダン・スミス(Jordan Smith:
20才:右の写真)は、フロリダ州ポート・オレンジBENTOの製造を始めた。スミスの初期の目的は、彼が属しているフットボール・チームの健康を管理し、食事の栄養バランスを保つために、BENTOが最適であることを発見したからだと言う。それに「日本文化は日毎に人気を博しています」と付け加えた。

[この他に、
BENTO礼賛のエピソードが続々と報告されているが、余りにも数が多いので、ここで切り上げ、筆者ストリィが取材したBENTOの一部をご紹介する。]

チェン夫人「私の(2才の)娘には、形が判るもの、例えばウサギの形をした茹で卵がニンジンを抱えている、そうすると楽しんで食べてくれるのです」と説明する。











(左)デボラ・ハミルトン(Deborah Hamilton 40才)夫人が夫と4才の息子のために作ったBENTO.夫人は lunchinabox.net というブログに寄稿している。
(右)ハミルトン夫人BENTO。夫人は「手を掛けたり華やかにするのも良いし、単純なものでも良いし、その時の気分で自由に創造できます」と言う。

南フロリダ大学(the University of South Florida)の卒業生、ジェイソン・ミラー(Jason Miller, 28才)「味が良くて栄養価値がある限りBENTOを作るのは楽しい」と言う。










(左) アスター・センティアティ(Aster Sentiati)夫人『bentomom(べんとうママ)』というスクリーン名で写真交換サイト『Flickr.com』へ、子供達のために作ったBENTOの写真を送っている。 (右) センティアティ夫人作のBENTO

justbento.comという案内ブログを公開している、いとう・まき子「味、質感、料理法、のバランスをとることがBENTOを作るコツです」と強調する。










(左)ワシントン州エドモンドのデブラ・リトルジョン(Debra Littlejohn, 52才)夫人 は、夫と共に月平均約400ドル昼食費に支出していると見積もる。前の晩の夕食の残りをBENTOに詰め直している。
(右)リトルジョン夫人「毎晩、翌日の昼食を用意するのが私の創意のBENTOです」と語る。


ソフトBENTO(編集後記)
このBENTOは食べられない。データベースのソフトウェアだからだ。多分、弁当箱の間仕切りのアイディアをデータの整理整頓に応用したのではあるまいか。BENTOの普及振りの一端を物語る現象としてご紹介する次第。

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BENTOやその付属品を販売するサイト:

BENTO & CO Bentoandco.com (フランス語, 日本から発送)



BENTO CRAZY Bentocrazy.ecrater.com.



FROM JAPAN WITH LOVE From-japan-with-love.com (日本から発送)



I LOVE OBENTO Iloveobento.com.



JAPAN CENTRE Japancentre.com (イギリスから発送)



J BOX Jbox.com (日本から発送)




LAPTOP LUNCHES Laptoplunches.com.

2009年9月21日月曜日

硫黄島(いおうとう)で拾った手紙

リゼット・アルヴァレツ(Lizette Alvarez)
2009年9月18日
NYタイムズ紙から抜粋、再編集


太平洋戦争末期の1945年2月19日、アメリカ空軍の超大型爆撃機『空の要塞』B−29と艦上戦闘機ヘルキャットの空爆が、海兵隊の硫黄島上陸侵攻に先立って激しい破壊を展開した。島の日本守備軍は栗林忠道中将が率いる2万1千名の将兵、一般市民は、すでに激戦を予想して帰国させていた。攻めるアメリカの海兵隊はクリフトン・ケイツ少将(Clifton Cates)の第4師団ケラー・ロッキー少将(Keller Rocky)の第5師団が並行して上陸を敢行した。(上の写真は硫黄島の日本兵、左が武川松治と推定)

当時21才のフランクリン・ホッブス(Franklin W. Hobbs:左の写真、一番脊が高い右端がホッブス)は海兵隊の一員で、上陸の模様を「敵味方の弾丸が激しく飛び交う中で、生きて還れるとは思えないほど酷い戦いだった。それまで死んだ人間なぞ見たことがなかったが、数え切れないほど仲間の屍体が岸辺にごろごろ、水の中にはプカプカ浮き沈みしていた」と回想する。

気丈な同僚の隊員が「俺と一緒にいろよ、離れるんじゃない」と励ましでくれ、二人で何とか砂地に塹壕を掘って
2日ほど身を隠し、生のベーコンをかじりながら戦闘を続け、それから少し前進し電信ワイヤの敷設作業を始めた。

一週間後、ホッブスがトラックを運転していた時、トーチカの傍らに死んで横たわっている日本兵を見かけた。その兵隊の体には目立つような傷はなく、鉄兜をかぶり軍服を着て、その服の胸のポケットから白い封筒がはみ出していた。好奇心からかそれを抜き取って広げてみたら、子供の手によると思われる色彩豊かな『バケツをリレーする防空演習』の様子が描かれていた。それと赤ん坊の写真が貼付けてあった。ホッブスは近くにいた上官に断ってその絵のある手紙を自分で保管することにした。後年「私は自分でも何でそんな気になったか、ただ変わった絵や写真だったから、参戦した記念品の積もりで抜き取った」と語っている。

硫黄島攻略の結果として、日本の守備隊は2万名戦死してほぼ全滅、1,000名が捕虜となり、一方勝った海兵隊の損害も死者6,800名、2万1,800名が負傷するという惨状だった。


命永らえたホッブスは戦争が終わって帰国、政府の退役軍人向けの奨学金でハーヴァード(Harvard Business School)に進学、ビジネス管理の学士号を取得し業務で成功した。前記の硫黄島で手に入れた日本兵の手紙は忘れられたまま保管されていた。


ホッブスの妻マージ(Marge)がある日、部屋を片付けていた最中にその手紙を見付け、描かれている単純な絵を見て何か心を動かされるものを感じた。マージ
手紙を額に入れ、額の裏側に手紙の封筒を要心深く貼付けて壁に飾った。一方、ホッブスは仕事に熱中していたので、戦争中のことを回想している暇もなく又過去を省みるタイプでもなかった。

2007年、ホッブスマージと離婚し他の女性と再婚した。またこの新妻が先妻と同じマージという名前だった。新マージが夫の書斎を整頓していた時、たまたま
手紙の額を机の上に認めた。額を裏返したら、そこに封筒と赤ん坊の写真が貼付けてあった(下の写真:額の表はビデオで見られる)。彼女は奇妙に思い、夫にその由来を聞き正し、ホッブスはそれを入手した経緯を一部始終マージに話した。

「それで貴方はこの手紙を家族に返すお気持ちはないんですか?」マージ尋ねた。「私としたことが何ということだ、考えてもみなかったよ。勿論返す気は充分にある。何十年も経った今、あの日本人の家族にとっては最期の遺品になるだろうからな」ホッブス

マージは早速教会で知り合った日本人、和田れい子
手紙に書かれてある文字の翻訳を頼んだ。日本兵の名は武川松治(たけがわ まつじ)で封筒から三條市に住んでいた事が判った。和田れい子は神戸出身で在米40年、手紙をコピーし日本の領事に『家族捜索』の相談をした。結局和田れい子は年に2回は帰国するので、自ら手紙のコピーを携帯して東京の社会保障事務所を訪ねた。係官はそのコピーを三條市の支部に送り、何日か経って日本兵、武川松治の娘、武川ちえの新住所を突き止めた。

ちえ手紙コピーを担当員から見せられた時「すっかり驚きました。私の父が手紙を肌身離さず死ぬまで持っていてくれたなんて」と呆然としていた。『防空演習』の絵はちえ自身が小学生の時に描いて先生から褒められたもので、赤ん坊の写真はちえの妹の洋子、生まれた時には父の松治は既に戦場へ行った後で、洋子と父は対面する機会を永遠に失った。

1973年、28才になった洋子は宣教師の資格をとり渡米しニューヨークへ行き、アルバニー(Albany)で結婚して女児を産みけいいちと名付けた。その後離婚、1986年ニュージャージー州の北部に移り、現在は(左の写真、65才)、同州のフォート・リー市(Fort Lee)に住んでいる。

ちえから電話で手紙の次第を知らされた時、洋子は会ったこともない父が、突然身近に現われた思いで「何やら父の魂が私の体に乗り移ってきたような気持ちです。経済的には父の恩給で私たちは教育を受けることができました。今、私にとって手紙は宝物で、その宝が父の愛を私へ運んでくれたのです。今、父の存在を肌身で感じます」と深い感慨に打たれていた。ちえも同様で「父が生き返ってきた思いです」と感無量だった。

武川洋子
は、マサチューセッツ州チェスター・ヒル(Chester Hill)にあるフランク・ホッブスの家に招かれ、家族、ボストンの日本領事、外国の報道記者も交えて近くのカントリー・クラブで昼食を共にした。

当年とって85才で安楽な余生を過ごしているホッブス(右の写真)はその時の模様を洋子が車から降りて私に歩み寄り、抱きしめてくれた時は、強烈な感動がこみ上げてきた。私にとっては『収集品』程度の値打ちしか考えていなかった『手紙』が、洋子にとってどれほど重要な意味を持っていたかということを思い知らされたと述懐していた。

武川洋子ホッブスさんは輝くような魂をお持ちです。その魂が私達のために私の赤ん坊の時の写真や姉のクレヨン画を大事にして下さったのですと心から感謝の気持ちを表していた。

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短いビデオですが、是非ご覧ください。右をクリック:硫黄島で拾った手紙

2009年9月18日金曜日

冗談もほどほどに、、、

高橋 経

洋の東西を問わず、冗談(ジョーク)はユーモアがあれば、人々を笑わせ楽しくさせる。たとえ皮肉たっぷりなジョークでも目に廉(かど)を立てるのは大人気ないと許される。だが、他人の心身いずれかを傷つけるジョークは有害そのものだ。

私が中学生になって初めて習った英語の教科書にプラクティカル・ジョーク(practical joke)』と題した一章があった。日本語に当てはまる言葉は未だに思い当たらないが『実害のある冗談』、『笑って済まされない冗談』といった意味だと理解している。その章では、ある中学生が主人公で、人並みの容貌だが鏡を見る度に『耳が大き過ぎる』のを引け目に感じている。東洋では、大きい耳は『福耳』と言って賢者、長寿の象徴として尊重されているから、大きい耳を恥じるのは異常だと思った。しかしその話では本人が勝手に恥じているのだから何とも致し方がないが、クラスメートの一人にそれをからかい半分に指摘されて落ち込む、という話だった。要するに、他人の弱点を嘲弄するのが『プラクティカル・ジョーク』で良くないことだ、と教えられた。


例えば、誰かが椅子に腰をかけようとする瞬間に、その椅子を手早く動かしてしまう、いう悪戯は、掛けようとした人が転倒して怪我をする危険があるからプラクティカル・ジョークである、と教師に説明されて納得した。(上のマンガの場合も同様:Charles Schultzの"Peanuts"から)

大分昔になるが、ある若い女性の許に出張中の愛する許嫁(いいなずけ)が突然死んだという通知が
届いた。4月1日だった。余りのショックにその女性は自殺してしまった。自分で自分の死亡通知を送った許嫁の男性は「エイプリル・フールだったのに」と愕然とし悪い冗談だったと後悔したが、後の祭りだった。

アメリカで昨年の大統領選挙戦中、民主党のバラク・オバマ(Barack Obama)と共和党のジョン・マッケィン(John McCaine)が一騎打ちとなった大詰めの頃、双方の選挙運動本部や応援団体から選挙民の間に相手方を傷つける中傷メールがインターネットを通じて矢鱈に飛び交った。特に酷かったのは、マッケィンが選んだ初の女性副大統領候補、アラスカ州知事のサラ・ペーリン(Sarah Palin)に関する中傷だった。虚々実々が半々で『虚』の中には、ペーリンがビキニ姿でライフル銃を構えているポーズ(右の写真)が含まれていたが合成写真に違いない。正にプラクティカル・ジョークで、大人げない選挙運動と言えるだろう。

メールと言えば、見知らぬ差出人からのメールは要注意だ。知っている個人か団体からのメールでも鵜呑みにすると酷い目に会う。例えば、自分の口座がある銀行からのメールを受け取り、企業マークやロゴが付いているから信頼して読み始める。「貴方の口座の明細が何者かに盗まれている形跡があるから、確認したいので次の空欄に答えてください」とある。やれやれと思って書式を書き込み始める。姓名、住所はよいとして銀行のファイルにだけ記録してある筈の『社会福祉番号』の欄を書き込む段になり、直感的に怪しい気配を感じ、銀行に電話を掛けて事の次第を問い合わせる。「そのようなメールは送っていない」との返事。冗談ではない。

日本で振り込め詐欺という犯罪が盛んに稼いでいるようだが冗談ではない。冗談詐欺は発想が似ているが、根本的に目的が異なるのは
言うまでもない

迷惑メールの中に「お金がドンドン楽に手に入る」誘惑が混じって届くことがある(左の写真)有名企業モドキの名を使い『無邪気そうな』モデルに札束をピラピラさせるなど、巧妙なお膳立てをされると何となく乗ってみる気になる。そこでサイトを覗いてみると入会金がベラボウに安い。安いからと安心してクレジット・カードを使って入会費を支払うために、カード番号から住所電話番号まで書き込んで送ってしまうと、それから先は敵の思いのまま。自分のカード会社からの請求書に数々の正体不明なツケが廻ってくる。請求者が誰なのか、何を購入したか全く狐につままれたようだ。そのツケの金額は30ドル前後だが、それを帳消しにする手続きが面倒だから、『つい』カード会社に払い込んでしまう。「お金がドンドン楽に手に入る」のは入会者ではなく『敵』方である。冗談ではない『詐欺』である。

ロバート・キャパ(Robert Capa:1913年〜1954年)という伝説的な報道写真家がいた。スペインの内乱(The Spanish Civil War:1936年〜1939年)の時に撮った戦死する兵隊(Falling Soldier:右の写真)』の写真が彼を世界的に有名にした。最近、誰かがその背景が全く戦場とは関係のない農村の一郭であることを確認した。どうやらキャパが兵隊に頼んで、撃たれて死ぬ瞬間をポーズしてもらったらしい、という説が信じられるようになった。実写だと信じさせたのはキャパ自身ではなかったかも知れないが、余りにも広まり過ぎ、引っ込みがつかなくなったのであろう。世界中の人々を騙すつもりでした演出ではなかった、と信じたい。

それに多少似た逸話では、1945年アメリカ軍が硫黄島を侵攻した時、AP通信のジョー・ロゼントール(Joe Rosenthole)が演出した、すり鉢山の頂上に6人の海兵隊の兵士が星条旗を掲げる『歴史的』な写真である。実はあの写真の前に撮った最初の写真はアマチュア写真で、旗が小さかったので撮り直すことになった。この演出はアメリカ国民の戦意を高揚するためで、基本的な戦況が事実だったから受け入れられたのであろう。

演出といえば、テレビ番組の実況報道のプロデューサーが、視聴率を高めるために『演出』があったとして騒がれていたが、業界ではやらせと言って常習になっているようだ。これは冗談ではなく、担当プロデューサーの死活問題に関わっていたのかも知れない。


冗談から脱線してしまったが、最後に手の込んだプラクティカル・ジョークを一つ。

先日公開した40年前のアメリカ:1969年』でアポロ11号の月面着陸(右の写真:NASA提供)をハイライトとしたが、あのビデオ映像が演出だった、という新説が現われたのである。その『新説』によると:

「時の大統領ニクソン(Richard Nixon)が、宇宙開発でソ連に遅れをとったので、アメリカの国威を回復させるために、是が非でも『月面着陸』を実現させたかった。たまたま閣僚の一人が宇宙映画で名を挙げたスタンリー・キュブリック(Stanley Kubrick:1928年〜1999年)を知っていたので彼を起用し、映画の特殊技術で『月面着陸を実現』させるべく極秘の計画が立てられた。その間の経緯を先の国防長官ラムスフェルド(Donald Ramsfeld)や、キッシンジャー(Henry Kissinger)国務長官にインタビューして確認した」

という内容で、それがメールで送られ、YouTubeという映像公開では人気トップのサイトに繋がっていた。一通り鑑賞したが、盗聴事件で悪評を得たニクソン大統領ならやり兼ねないと思わせる節もありやらせの月面着陸を信じた人が5万人近くいたようだ。しかしラムスフェルドキッシンジャーのような政府の要人が『国家的な大秘密』を洩らすとは思われず(二人の談話が日本語に吹き替えられていたのも怪しい)、NASA全員とか大勢の関係者の口を一斉に塞いで秘密を守らせる事は先ず不可能なことだ。このような辻褄の合わない部分も多くやらせ』説を鵜呑みにするわけにいかなかった。どうやらやらせ』説はプラクティカル・ジョークだったらしい。


これは可成り悪質のジョークだ。この『やらせ』説の製作者がアメリカの威信を傷付ける意図があったとしたら、5万人近くの人々を唖然とさせ、五つ星の評価を獲得したことで間違いなく傷付けてしまったことを否むことはできない。

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時間の無駄とは思うが、若し上記『やらせ』説のビデオをご覧になりたかったら、左の赤い部分をクリック。

2009年9月17日木曜日

訃報:ピーター・ポール&メリーのメリー


人気ヴォーカル・トリオ、 ピーター・ポール&メリー(Peter, Paul and Mary)メリー・トラヴァース(Mary Travers)16日(水曜)に亡くなった。4年前、白血病と診断され、骨髄の移植手術をし、化学療法を続けていたが寿命が尽き、コネチカット州ダンバリー病院(Danbury Hospital)で息を引き取った。享年72才

1961年、ブロンド長髪が特長のメリーは歌手として、二人の男性ギタリスト歌手、ピーター・ヤロウ(Peter Yarrow)、ノエル.ポウル・ストゥキィ(Noel Paul Stookey)らと一緒にトリオ、コーラス『ピーター・ポール&メリー』と名乗りニューヨーク、グリニッジ・ヴィレジ(Greenwich Village)の喫茶店ビター・エンド(Bitter End)」で初登場した。

翌年には始めてのアルバムピーター・ポール&メリーを発売、その中には500マイル(500 Miles)』、『レモンの木(Lemon Tree)』、『すべての花はどこへ消えた?(Where Have All the Flowers Gone?)』、ピート・シーガー(Pete Seeger)作の天使のハンマー(If I Had a Hammer: Hammer Song)』などヒット曲の数々が含まれ、ビルボード誌(Billboard)のトップ・テンに10ヶ月連続して人気の頂点に立ち、その後3年に亘ってトップ100を維持し続けていた。ヒット曲には魔法のドラゴン(Puff the Magic Dragon)』、ジョン・デンヴァ(John Denver)作の悲しみのジェット機(Leaving on a Jet Plane)』、ボブ・ディラン(Bob Dylan)作の『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』などがある。

時あたかもアメリカがベトナム戦争の泥沼にのめり込んだ時代で、同時代の反戦歌手たち:ピート・シーガージョン・バエズ(Joan Baez)、ボブ・ディラン、等と並んで全世界の若者たちから人気を獲得した。その後も引き続きグループは、公民権運動や社会的正義を唱える運動の第一線に立ち続けてきた。


1970年、トリオは解散してソロ活動に入ったが、トリオ当時の成功は期待外れだった。8年後の1978年3人は同名で再結成し、中米の平和運動の支援、原爆核兵器反対運動の支援などのコンサートに参加演奏し、以来年間40回というコンサート・ツアーを実現させた。1999年ヴォーカル・グループ部門でポップ音楽の殿堂入り(Vocal Group Hall of Fame)を果たした。

2007年2月には、北朝鮮による横田めぐみ拉致問題の解決を願うメグミを歌う(The Song for Megumi)』を発表、収益は救出活動に寄付。同年5月に来日、同問題支援コンサートを開催した。


晩年メリーは、音楽雑誌ゴールドマイン(Goldmine)のインタビューで(年配の)人々に会うと、よく言われるの。『私たちは貴女たちの歌を聞いて育ったよ』ってね。で、『私たちもね、歌で育ったわ』って答えたの』と語っていた。







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アルバムのリスト:











  • 1962 『Peter, Paul and Mary』
  • 1963 (Moving)
  • 1963 In The Wind
  • 1964 In Concert
  • 1965 A Song Will Rise
  • 1965 See What Tomorrow Brings
  • 1966 Album
  • 1967 Album 1700
  • 1967 In Japan
  • 1968 Late Again
  • 1969 Peter・Paul and Mommy
  • 1970 Ten Years Together
  • 1978 Reunion
  • 1983 uch Is Love
  • 1986 No Easy Walk To Freedom
  • 1988 A Holiday Celebration
  • 1990 Flowers & Stones
  • 1993 Peter, Paul and Mommy, Too
  • 1995 PPM& (Lifelines)
  • 1996 Lifelines Live
  • 1998 Around The Campfire
  • 1998 The Collection
  • 1999 Songs of Conscience and Concern
  • 2004 Carry It On
  • 2004 In These Times』