2009年8月2日日曜日

古橋広之進の死を悼み賛美す

[この記事は、朝日、毎日から抜粋して編集。下のイラストは、1981年電電公社の広報に使用された高橋経の作品でニュース写真を参考にした。手前が古橋広之進、後方は橋爪四郎。]

『フジヤマのトビウオ』古橋広之進(ふるはし ひろのしん)が8月2日午前8時頃、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで急死した。死因は急性心不全とみられ、享年80才。
同氏は国際水泳連盟副会長として会議出席と世界選手権の視察のためローマに滞在していた。

古橋広之進は1928年(昭和3年)、静岡県で生まれ、旧制浜松第二中学、日本大学を通じ、自由形泳者として活躍した。1947年(昭和22年)の日本選手権400メートル自由形で4分38秒4の世界新をはじめ800メートル、1500メートルなど各種目で合計33回の世界新記録を樹立した。特に1949年(昭和24年)にロサンゼルスで開かれた全米選手権に招かれ、次々に世界記録を更新しアメリカの新聞、雑誌に『フジヤマのトビウオ』と異名を与えられ絶賛された。  

衣食住に事欠く戦後の貧困時代の最中で、この快挙は日本国民に大きな歓びを与えた。不幸にも古橋の肉体条件がスポーツ選手としての最盛期だった1948年にロンドンで開催されたオリンピックには日本は参加できず、その4年後行われた1952年のヘルシンキ大会では、古橋の体調条件は峠を越え、入賞は叶わなかった。
 

現役を退いた古橋は後進の指導にあたり、1985年(昭和60年)、日本水泳連盟会長に就任。アジア水泳連盟会長も務める一方で、1990年(平成2年)には日本オリンピック委員会会長に選ばれ、1998年(平成10年)2月の長野冬季オリンピックを成功裡に終了、1999年(平成11年)3月に退任するまでアマチュア・スポーツの振興に尽くした。昨2008年10月には、オリンピックに出場した競技者として初めての文化勲章を受章した。

一方、1998年9月に定年退職するまで、母校日本大学の文理学部教授として後進の指導にあたっていた。

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