2009年7月29日水曜日

宣伝効果やいかに

「1点の絵は1000語に匹敵」するか?

[編集から:日本の表現で「一目瞭然(いちもく りょうぜん)」に当たる西欧の「1点の絵は1000語に匹敵(A Picture Worth A Thousand Words)」という言喭(ことわざ)は少々歪曲された見解のように思えます。『絵』と『言葉』は夫々長所と短所があり、比較すべきではなく、お互いの短所をお互いの長所で補足し合って伝達の能力が倍加されるのではないでしょうか。

ここに掲げた作品は全て視覚的な遊びで、それを見る人々の笑いを誘う魅力があります。でも、これが商品あるいはサービスの宣伝が目的だったとしたら、一部の例外を除き「舌足らず」の批判は免れないでしょう。『言葉』の重要性を無視しているからです。

出所は不明ですが、グラフィック・デザイナーのラッセル・ブロッド(Russell Brod)から転送されてきました。まず理屈抜きで、ご自分の解釈でご覧ください。]

★ カミソリの切れ味

★ サッカー選手の歩道橋

★ 風船ガム

★ ボディ・ペイント(英)

★ 重量挙げ(ある健康ジムから)

★ 空手

★ 超大型リクイッド・ペーパー(誤タイプ修正用)

★ 超大型レゴ(プラスチック製積み木の一種)

★ ミスター・クリーン(ある洗剤のシンボル)

★ 禁煙のお奨め(言葉あり)

★ 健康ジムから減量のお奨め(言葉あり)

2009年7月22日水曜日

武力で平和はもたらせない


[『ナイン・イレヴン』と言うと、他でもない2001年9月11日の同時多発テロのことと、今日では日常語になっています。テロはもちろん暴力行為の一種です。当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュとその閣僚は、多くの反対を振り切って軍隊をアフガニスタンに送り、核兵器と大量殺戮兵器を保有しているという確証もない名目でイラクに侵攻しました。これは「目には目」の武力行使で暴力行為の一種です。延々8年にわたり敵味方に一般人を含む人的や物的の犠牲を続出させ、未だに平和とはほど遠い現状です。武力で平和をもたらすことができなかった悪例です。

では暴力に出会った時、暴力以外で立ち向かう方法があるのでしょうか?答えは『否暴力』。[註:日本では『non-violent』を『非暴力』としているが「暴力に非ず」でなく「暴力を否定」という意味を強調したく敢えて『否暴力』とした。]

西暦が始まった頃イエス・キリスト(Jesus Christ)がそう教え、2000余年間、その教えが伝えられてきました。


近世ではインドのガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi:左の写真はサンフランシスコに建てられた銅像)が、イギリスの暴力的植民地政策に対して否暴力で反抗し、遂に自由を獲得しイン
ドは独立しました。

アメリカ南部の黒人たちは、人種差別という政治的な暴力に抗議を唱え、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア(Dr. Martin Luther King, Jr.:右の写真)の指導の下に否暴力で抗議した末、公民権を獲得しました。 残念ながら、キリストは十字架に懸けられ、ガンジーもキングも銃弾に殺されました。しかし、彼らの教えは死なず、綿々と人々の間で生きているのです。]


キリスト教徒平和樹立チーム(Christian Peacemaker Teams: CPT)の信条
に関する論文は、ジェームス・サターホワイト(James Satterwhite)の研究によって作成された。サターホワイトは1960年代から70年代にかけて11年間日本で育った。日本語は冗談も含めて話せるが、読み書きは苦手のようである。政治学を専攻し、長年オハイオ州ブラフトン大学(Bluffton University)で歴史政治学の教授を務めていたが、身体障害のため目下引退し療養中である。
サターホワイトは戦争に反対の立場をとるフレンド派(クエーカー)の会員として、同様な教義をもつメノナイト派(Mennonite: 日本ではメノー派と呼んでいる)に興味を持ち研究を始めた。同様な教義とは「幼児の洗礼は無用」、「宣誓はしない」、「兵役は拒否する」などの
共通点である。 この論文は『平和と転換(Peace & Change)』誌、2006年4月号に掲載された。以下、論文の冒頭に掲げられた梗概をご紹介する。

梗概
「この論文はクリスチアン平和樹立チーム(以下CPT)の創設と運動の底を流れている理論的な信条を考察したものである。まずCPTと同様な活動を推進している他の団体との比較をし、そこからCPTが、発展的なメノナイト派の平和宗教学から開発してきた行程を分析し、新しい宗教学を具現させる重要性を提示するものである。論点は更に、CPTの活動意義が(国家間の摩擦に)否暴力の態度で仲裁に入ることによって、武力のみが(問題を)『解決する』という迷信的な仮説を切り崩そうという信条の核心を考察する。そして最後に、否暴力の介入を実践したCPTの各人が、そうした行動が必ずしも早急にして明白な『結果』をもたらしてはくれないという現実にしばしば直面しても放棄せず活動を続けている原動力は何なのか、という疑問を投げている。」

[お断り:当初、サターホワイト論文の重要性を考慮し、全訳文をご紹介する計画でしたが、長文(原稿紙20枚ほど)なので割愛し、その代わり興味のある方には添付のPDFを保存して頂き、原文で読んで頂くことにしました。お手持ちのコンピューターに『PDFリーダー(Adobe Acrobat Reader)』が備わっていなかったら、Adobeのサイトから無料でダウンロードすることができます。でもその前に、ご自分のシステム(WindowとかAppleのバージョン)を確認しておくことをお勧めします。]

2009年7月20日月曜日

報道の声、ウォルター・クロンカイトの死

アメリカのテレビ報道ではアンカーマンの先駆者のウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)(上の写真中央)が去る7月17日、痴呆症の併発により自宅で亡くなった。享年92才。

クロンカイトは1962年から1981年まで国家的な朗報や悲報を毎晩茶の間に送り続けていた。その中にはケネディ大統領の暗殺、1969年の宇宙飛行士ニール・アームストロング(Neil Armstrong)の月面歩行ベトナム戦争その他、後世に残る歴史的大報道が多数含まれている。彼の報道振りは、むしろ穏やかで淡々とした落ち着いた口調で視聴者を素直に納得させる力があり、多くの人々にとって『父性的』な存在だった。


そうした特性をもって、彼が担当していた『CBSイヴニング・ニュース』時代には『アメリカで最も信頼のおける人物』という賛辞と共に国家的な地位を与えられたのである。

朝日新聞の天声人語子は「W・クロンカイト氏の名を知る日本人は多くないかもしれない、、、」と前置きした上で、クロンカイトの功績を讃え、「稀有(けう)な放送人だった」と結んでいる。

クロンカイトは1981年、65才で引退したがその後25年に亘って報道関係の仕事を続けていた。彼の90才の誕生日には、ディリー・ニュース紙のインタビューに応えて「私は今でも報道の仕事をする能力があると思うよ」と語っている。


[クロンカイトの経歴その他について詳しいことは報道機関や自叙伝に譲るとして、ここで彼のハイライトとも言えるアルバムを披露する。資料はニューヨーク・タイムス紙その他から頂いた。]

テレビに登場する以前、クロンカイトは新聞やラジオを通じて報道を担当していた。これは1930年代、ミズーリ州カンサス市のKVMOラジオ局で働いていた頃の写真。同局の報道が軽薄だと批判して解雇された。

1952年、民主、共和両党の全国大会の報道をCBSが先取りし、クロンカイトが担当した。選挙運動をテレビで中継した先駆け。

同年、ハリー・トルーマン大統領(Harry Truman)をインタビュー。クロンカイトはフーバー大統領(Herbert Hoover)以来、全ての大統領をインタビューしている。

第二次大戦中ノーマンディ侵攻上陸作戦(1944年)の参謀長だったドワイト・アイゼンハワー大統領(Dwight Eisenhower:1953年〜1961年)と共に、記念すべき激戦地を再訪問。

1960年代の初頭、CBSで。 1960年代CBSの報道員として。厳しい報道者たちの中で最も柔和な雰囲気を持っていた。

1963年9月、ジョンF.ケネディ大統領(John F. Kennedy)をインタビュー。大統領はこの2ヶ月後に暗殺された。

1963年11月22日、ケネディ暗殺の報道中、不覚にも涙を流した。いつも沈着なクロンカイトは個人的な感情を公共の場で見せたことがなかった。

1964年11月、選挙が済んだ後CBSの報道アナウンサー達が一堂に集まった。左から:ハリー・リーズナー(Harry Reasoner)、ロジャー・マッド(Roger Mudd)、エリック・セヴァレイド(Eric Sevareid)、マイク・ウォレス(Mike Wallace)、ロバート・トラウト(Robert Trout)、そしてクロンカイト

1968年、クロンカイトはベトナム戦線に赴き、泥沼化した戦況の和平交渉を訴えた。この報道を見ていたリンドン・ジョンソン大統領(Lyndon B. Johnson)は「もしクロンカイトがベトナムで若しものことがあったら、アメリカの中核を失うことになる」と大いに心配していたと、大統領の補佐をしていたビル・モイヤー(Bill Moyers)が伝えている。

1977年、クロンカイトがイスラエル首相ベギン(Menachem Begin)と、エジプト大統領サダト(Anwar el-Sadat)等と対談。

2009年7月17日金曜日

もったいない

高橋 経(たかはし きょう)

「もったいない」は私の亡母の口癖だった。未亡人の母親(私の祖母)に育てられた母が、限られた収入で生きる難しさを身を以て体験し、衣類から食料に至るまで出費を節約し、モノを大事にせざるを得ない生活を余儀なくされていた環境から発露した言葉である。


その母の口癖による感化もさることながら、私が育ったのは1930年代(昭和ヒト桁時代)、当時の日本が軍国主義を推進していた時代で、その膨大な軍事予算のしわ寄せで、国民全部が『質素、倹約』を道義的な信条とすることが要求されていた。小学校では昼食の前に先生が「米はお百姓達の労働と汗の結晶だから、感謝して
一粒も残さず食べなさい」といった趣旨の言葉を生徒と共に和して宣誓したものだ。今で言う『リサイクル』なる廃品回収、再生も学業の一部だった。太平洋戦争の末期には国民の殆どが乞食のレベルまで下がる程の貧困生活を味わった。1945年(昭和20年)、戦争に敗れて、そのレベルは更にどん底にまで落ち込み、インフレの追い打ちで貨幣の価値は低下し、好まずして赤貧洗うが如き『質素、倹約』の日々を過ごしていた。

1950年代になると、焼け野原だった都市はどうやら復興し、日本人の生活はいくらか人並みのレベルに向上した。私の仕事も収入も水準以上となり、身なりを整え、美味な食事を楽しみ、いささかの社交生活で付き合い酒などをたしなむようになった。その一方で、「もったいない」根性は常につきまとい、モノを捨てられず、食事中の皿、茶碗、小鉢は何も残さずに平らげる習慣が今だに残っている。それはそれで悪いことではなかったのだが、折りも折、アメリカの『消費経済』観念が導入され私を少なからず混乱させた。
私は自分が育った環境と根本的に対照的な『消費』を促進することによって国の『経済』が成り立っているアメリカの社会現象に戸惑い、そして心密かに羨望し憧れてもいた。

1963年(昭和38年)、その「憧れ」からでなく職業上の理由で渡米し、爾来46年経過した。その間4年程帰国したことがあるが「住めば都」でアメリカに落ち着いてしまった昨今である。

1990年の初頭、デトロイトの郊外に住んでいた私は『消費経済』の国で「
もったいない」、「捨てられない」根性が捨て切れず、吾が家の棚を次々と増やし、納戸を仕切り、押し入れを改造し、物置きを3棟も庭に建て、捨てずにとっておいたモノ全てを整理整頓して保存し、その後も増え続けるであろうモノの収納の準備をしていた。
やがて、ある日、私はそうした『収納』計画に我ながら呆れ果て、限界を感じていた。そして天啓のように、質素で単純な生活の重要さを教える本に出会った。その本はデュエイン・エルジン(Duane Elgin)が書いた自発的な簡素生活(Voluntary Simplicity右の写真)』で、消費経済と全く対立する考え方がアメリカに存在することを知らされて愕然とし、同時に『救い』を感じたのである

パック・ラット(pack rat)
モノを捨てられないで
仕舞い込む人々は、物資不足時代に育った日本人の私だけではなく、豊かなアメリカにも『パック・ラット』と呼ばれて存在している。本来パック・ラットは北米のウッド・ラットという名の食料などを巣に溜め込むネズミの一種である。[英和辞典によると米俗語として「こそ泥」とあるが、これは誤訳のようである。]こうした人々は、時折溜め込んだモノを処理したくなるのであろう、換金も兼ねて『ガレージ・セール』とか『ヤード・セール』と銘打って前庭やガレージにモノを並べて売りに出し、通行人の多くが気軽に立ち寄って品定めをする、といった伝統的な風習である。
隣人がヤード・セールをした時、私は便乗して不要になったモノを売ってもらった。買い手も『掘り出し物』を見付けることがあり、売買双方にとって利便となる。買い手の中には本職の古物商も混じっていて、私から高級だったが旧いゼンマイ仕掛けの腕時計を買い取ってくれた。

しかし、このヤード・セールには反対論がある。 テレビの経済講座で女性に人気のあるスージ・オーマン(Suze Orman左の写真)「自分のガラクタを他人に転嫁(てんか)する行為に熱中する位なら、慈善団体に寄付した方がマシだ」と厳しい。私もいつかヤード・セールをしようかと考えていた矢先、それを聞いた時「ガラクタの転嫁」は兎も角、一日中店番で暇つぶしをするよりマシだと思い立ち、一年に一度使うかどうか判らない品々、例えばゴルフ道具などをまとめて、救世軍(Salvation Army)に寄付してしまった。ガラクタが減ったばかりか、気分も晴れ晴れとすっきりした。
慈善団体は、その他にもグッドウイル・インダストリー(Goodwill Industry)、セント・ヴィンセント・デュ・ポウル(St. Vincent Du
Paul)、ハビタット・フォー・ヒュマニティ(Habitat For Humanity)などがあることも判り、その後もせっせとモノ減らしを心掛けている。

廃品再生(リサイクル)の回収はアメリカでも軌道に乗り、都会では家の前に出しておくとトラックが来て回収してくれる。
私のように田舎に住んでいると月に2回、回収トラックが8キロ先の村役場の裏に半日駐車している間に、こちらから届けなければならない。それでも「モノが捨てられない」私にとっては『廃品再生』と同時に『寄付行為』に次ぐ善行に思え、せっせと運んでいる。

前衛美術「もったいない(Waste Not)」展
かくして私は、残り少ない余生は『簡素、単純な生活を』と目指しているが、最近ニューヨークのミュージアム・オブ・モダン・アート(Museum of Modern Art)「もったいない
(Waste Not)」と題した特別展が開催されていることを知って唖然とした。

作者(?)は、前衛美術家で知られる中国人ソング・ドング(Song Dong)で、北京に住んでいた彼の母親(Zhao Xiangyua)の遺品を並べた美術展である。彼女は1938年生まれで去る1月、71才で亡くなった。その60年余りの存命中、市内の小さな家に夫と二人の子供と住み、生活必需品その他−−−衣類、書籍雑誌、台所用品、化粧品、学用品、買い物袋、食器、人形などなど−−−を使用し、再使用し、その全てを例外なく仕舞っておいた。
何はともあれ、その展示された品々の一部をご覧あれ。
衣類や履物、どの家庭にもこの程度の備えはあるであろう。しかし、鍋食器類はこれほどの数が必要だったかどうか疑問に思う。

まさにガラクタ、動かなくなった腕時計もあるだろう。ボタンを収集する人は珍しくはないが、保存する価値があるのだろうか。

使い切った空の歯磨きチューブ、飲み物の空き瓶(多分プラスチック)の数々、これらに至っては保存していた人の気持ちが測り兼ねる。

1960年代に、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)がありきたりの商品パッケージをそのまま画面に転写し、モダン・アートの天才と騒がれていたことを思い起せば、ガラクタを並べたものが『芸術作品』(上の写真)と言い得るのであろうが『簡素、単純な生活を目指している私としてみれば誠に不可解で複雑な心境である。

この展示を芸術と納得するか否かは読者の判断にお任せする。

2009年7月16日木曜日

服飾デザイナー、三宅一生の発言

[去る13日、服飾デザイナー、三宅一生の寄稿がニューヨーク・タイムス紙に掲載され、その3日後、朝日の『天声人語』、毎日の『余録』が揃って、原爆廃絶の世界の具現を求める三宅の発言の重要さを強調し、それを重視し賛辞を捧げていました。タイムス紙の記事をお読みになった方もあるかとは思いますが、ここに再録させて頂きます。]


閃光の記憶
(A Flash of Memory)
三宅一生(みやけ いっせい)
7月13日付、ニューヨーク・タイムス紙への寄稿

[日本語で書かれた原稿が英訳され、それを再び日本語に戻す『重訳』ですから、原文のニュアンスと異なる部分があるかも知れませんが、筆者の感情や主張は再現できたと自負しております。高橋]

去る4月、オバマ大統領は、核兵器のない世界の平和と安全を探求することを公約した。彼は単に(核兵器を)縮小するだけでなく、廃絶することを呼びかけた。彼の声明は、今日まで口にするのをためらっていた私の心の奥底に潜んでいた何かを呼び覚ましてくれた。


多分過去には考えられなかったが今だからこそ、オバマ氏が言う『閃光(flash of light)』から生き残った一人として、個人的にも道義的にも発言する責任がある、と私は自覚した。


1945年(昭和20年)8月6日、(人類の歴史始まって以来)初めての原子爆弾が私の出身地広島に投下された。その時7才だった私は、その場に居合わせた。今でも私は瞼を閉じると、誰も体験したことがなかったその光景が浮かんでくる:まばゆい赤い閃光、それに続いて沸き上がる黒い雲、散り散りに必死で逃げ惑う人々ーーその全てを憶えている。その日から3年も経たない内に私の母は放射線症で死亡してしまった。

以来、私はあの日の記憶や思考を人に語ろうとしなかった。私はその記憶を過去に押しやって忘れ去ろうと、思い通りにはいかなかったが試み、破壊でなく創造し、美や歓びをもたらす何かに集中しようとした。そして近代的で楽観的な創造形式であるという理由もあって服飾デザインの世界に魅せられて没頭した。

私は自分の過去(原爆体験)で自分を位置づけようとしたことはなかった。私は「原爆で生き残ったデザイナー」というラベルを付けられたくなかったから、常に広島に関わる質問を意識的に避けてきた。そうした話題は私を不快不安にさせたからである。

しかし今、もし我々が世界から核兵器を排除しようとする気なら、私はその話題は討議されるべきだと自覚するようになった。広島では8月6日ーーあの悲劇的な破壊を記念する日ーー世界平和デーにオバマ氏を招待しようという運動が起こっている。私は彼が招待に応じることを望む。私の願いは過去にこだわるのではなく、アメリカの大統領が、将来核戦争を地球上から排除することを目標に世界に訴える姿勢を示してもらいたい、という気持ちから起きたものである。


先週、ロシアとアメリカが核兵器の縮小に合意し署名された。これは重要な出来事であった。しかしながら、我々はこれで安心する訳にいかない:一個人あるいは一国家が核戦争を止めることはできない。日本に住む我々は日夜常に隣国の核保有国北朝鮮の脅威に曝されている。他の国々でも、核テクノロジーを入手したという情報がもたらされている。世界中の人々が何らかでも平和への希望があるなら、オバマ大統領の発言に和して発言する時ではなかろうか。

もしオバマ氏が広島の平和橋を渡ることができたらーーそのらんかんは日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチの作品で自身が東西双方を結び、人類がお互いに憎しみを忘れて(平和を)成し得るという思いを込めて創造したものーーそれは現実的にして象徴的、核戦争の脅威のない世界を築く一歩でもある。その一歩毎に世界平和が近付いてくるのだ。

2009年7月15日水曜日

耽美的な古代彫刻展

Adamo

"An Antiquity of Imagination"

ツリオ・ロムバルド(Tullio Lombardo)とルネッサンス絶頂期のヴェネチア派彫刻作品展

期間:2009年7月4日から11月1日まで

会場:ワシントン、国立美術館(The National Gallery of Art)
Fourth St., and Constitution Ave., NW., Washington DC
(202) 737-4215

Tullio Lombardo: Miracolo del cuore dell'asaro Padova, Bacillica del Santo

この特別展はツリオ・ロムバルド(1455年〜1532年)の作品を中心とした展覧会で、15世紀から16世紀に至る時代の芸術家たちが『美』を探求し、詩的な新しい表現を試み、古代を偲ばせるルネッサンス絶頂期のヴェネチア派彫刻の傑作を一堂に集めたものである。また、マンテグナ(Mantegna)、ベリーネ(
Bellini)、ジョージオーネ(Giorgione)、ティティアン(Titian)等、イタリア北部、ルネッサンスの巨匠の筆になる絵画も陳列されている。

当時、1500名程いたヴェニスの画家たちは、寺院から依頼される装飾画や、家庭の礼拝所などのために、新しい表現形式を開拓していった。題材としては、古代の伝説、詩歌、歴史的な場面、哲学的なテーマなどを扱い、増加しつつあった個人収集家の需要を満たしていた。

一方で、ヴェネチア派の彫刻家たちの間でも画家と同じような動向があったことは余り知られていなかった。中でもツリオ・ロムバルドは一段と傑出した彫刻作家で、その時代以前の古い美術作品から受けた影響に、上記の新進画家たちの動向から刺激された制作意欲を統合して、大理石という素材を使って自身なりの革新的な作品を創作していた。古代とルネッサンス、神聖性と堅実性、それぞれ相反する要素を融合させて幽玄な気配が漂う彼の作品は、おおいに刺激的な論争を巻き起こしたのであった。

女性の胸像(1515年〜1520年頃)シモーネ・ビアンコ(Simone Bianco)作

ルクレチア(1520年代)アントニオ・ロムバルド(Antonio Lombardo)作

若い戦士(1490年代頃)ツリオ・ロムバルド作

若い男性聖者の胸像レリーフ(1513年〜1516年)ツリオ・ロムバルド作

男女の胸像(当展覧会のハイライト)ツリオ・ロムバルド作

バッカスとアリアドネ(Bacchus and Ariadne 1505年頃)
ツリオ・ロムバルド作

アレニアスの死を嘆くディド:
アントニオ・ディ・ジョヴァンニ・ミネロ(Antonio di Giovanni Minello)作

聖セバスティアンの処刑:作者および年代不詳

2009年7月9日木曜日

訃報:マンザナ収容所を記録した男

イレイン・ウー(Elaine Woo)寄稿
ロサンゼルス・タイムス紙から抜粋、追補、編集

去る5月21日、且つてマンザナ収容所(Manzanar)の体験記録を書いた二世記者、トウゴ・タナカ(Togo W. Tanaka)が老衰のため、93才で亡くなった(上の写真はトウゴ26才の時)


トウゴ・タナカは、先日亡くなったロバート・マクナマラ元国防長官と同年、1916年(大正5年)1月7日オレゴン州ポートランド市で日本から移民した両親の元に生まれロサンゼルスで育った。ハリウッド高校(Hollywood High School)を卒業してカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で政治学を専攻、1936年修士号を取得して卒業、日米関係が険悪になってきた1941年(昭和16年)には25才で、ロサンゼルスで発行されていた日米両国語の日刊新聞羅府新報(らふしんぽう)』で英語面の編集者として働いていた。

同年12月7日(日本時間で8日)、日本軍の真珠湾攻撃で日米が開戦し、羅府新報は当然のように発行停止となり(左の写真は最終刊を検討する編集者たち。右がトウゴ・タナカ)、同時に西部沿岸の諸州(ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州、とアリゾナ州の一部)が戦略上の危険地域に指定され、そこに住む日系人は全て『敵性民族』と見なされ撤去させる計画が強く提案された。

同時に、地域社会の指導者や、トウゴを含むニュース記者、編集者などがFBIによって検挙拘留された。10日以上も経ち、結局何の罪状も見当たらず、また検挙の理由も説明されないまま釈放された。

翌1942年2月19日、日系人撤去の計画は最終的にルーズベルトが『大統領令9066号』に署名して発効し、上記の諸州に住んでいた11万9千803人の日系人は家屋財産を放棄させられ、全米10カ所の収容所へ送られた。
トウゴ・タナカが送られたのは、カリフォルニア州、シエラ・ネヴァダ山脈東側、オウエンス峡谷(Owens Valley)の砂漠地帯に急造されたマンザナ収容所(上のイラスト:高橋経画)だった。同収容所は10カ所の内では最大で、1万人前後の日系人が収容された。

そこで、トウゴは身に付いた記者としての職務を自発的に遂行した。撤去の成り行き、その施行、収容所の生活、その管理、などなど全てを克明に記録し続けたのである。そのファイルの多くには、収容所の管理や方針に対する批判も書かれていた。その中で「普通に生活を営んでいた一般の人々がある日突然、鉄条網に囲まれ、その四隅の塔に機関銃を構えた見張りが立ち、その囲いの中の全てが苦々しく、希望のかけらもない環境の中に放り込まれる、などということが起こり得るとは考えられなかった」という一節が見出される。


日系アメリカ人の歴史に関する専門家、南カリフォルニア大学のロン・クラシゲ教授(Lon Kurashige)はトウゴの記録について「彼が遺したマンザナ収容所の生活に関する豊富な記録で埋められた日記は、希少にして知性に溢れた内容で、収容所の生活を通じて、戦前のロサンゼルスにおける日系アメリカ人の生き様を如実に反映させている」と高く評価している。 トウゴは精魂をこめ、政治的に分裂した派閥争いも含めて収容所生活のあらゆる面を記録し続けた。

カル・ステイト・フラートン(Cal State Fullerton)の歴史とアジア系アメリカ人の研究家、アーサー・ハンセン(Arthur Hansen)
名誉教授「トウゴは彼の記録作業のため事件に巻き込まれるという災難にも遭った」と語っている。トウゴは、ためらいなく政府の方針を支持していた。そうした政府に協力的な態度から、従順に家や財産を放棄して鉄条網の囲いの中に住む『法を重んずる日系アメリカ人』というレッテルを貼られた人達の部類に属していた。

真珠湾攻撃から1年後マンザナ収容所で不満分子たちが、トウゴその他の遵法(じゅんぽう)主義者たちを傷つけようと暴動を起こした。トウゴは辛くも難を免れたが、暴動が鎮圧された後、2、30名の被害が予測される『遵法主義者』たちは危険から守るという名目で、デス・ヴァレィ(Death Valley)の収容所に移された。 後年、トウゴは当時を回想し「政府の方針に従順な態度で従ったことで、収容所の不満分子たちからスパイ、通報者、イヌ、などと呼ばれていることに気が付かなかった」と同僚や他の歴史家たちに述懐していた。

彼の息子ウエスリー(Wesley)「政府から自由を剥奪され、同胞の日系人の一部から裏切り者と目されていた父は全く孤立していたようです」と語っている。


羅府新報時代にトウゴは、社説に「アメリカで生まれた二世は、アメリカ国民として国家に忠節で愛国心を持たねばならない」と書いていた。ベテラン記者で、1930年代にトウゴの下で働いていたハリー・ホンダ(Harry Honda)「彼は大勢の二世たちの精神的な支えになっていた」と評価している。

1943年、収容所は徐々に解放され、トウゴは出所してシカゴに移り、各地の収容所から出所してきた日系人や、ナチの収容所から脱走してきた亡命者たちの住居や職業の斡旋をするクエーカー教団(American Friends Service Committee)が推進していた援護運動に参加して働いた。

戦後は陰鬱な思い出がつきまとう新聞社には戻らず、シカゴの教科書出版社の編集長を務め、後にアジア関係の内容を掲載するシーン(Scene)という雑誌の発行を始めた。

1955年、カリフォルニアに戻り、商業出版の会社を創設。1963年、不動産関係のグラマシー・エンタープライズ(Gramercy Enterprises)を設立して事業を成功させ、1985年に引退して役員会長となった。


2005年、マンザナ収容所を訪れた時、史跡記念物として展示されていた彼自身が60年以上も前に使っていた懐かしいデスクやタイプライターに巡り逢った。トウゴを迎えた公園課の職員リチャード・ポタシン(Richard Potashin)「トウゴから展示に助言を頂いたり、正に生きた歴史に出逢った心地で感激しました」と語っていた。


トウゴ・タナカの遺族は、妻のジーン・ミホ(Jean Miho)、息子と娘が3人、孫が5人、曾孫が8人ということだ。

2009年7月8日水曜日

霧に包まれた戦争

高橋 経(たかはし きょう)
2009年7月8日

7月6日(日本時間で7日)、元アメリカ国防長官、ロバート・マクナマラ(Robert McNamara)が93才で亡くなった。

この所、有名人の死亡ニュースが続いた。
6月25日、歌手のマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)がロンドン公演のリハーサル中に死亡、50才。7月1日ベテラン俳優カール・マルデン(Karl Mulden)が96才で死亡、そして6日、マクナマラの死亡が報道された。いずれも、話題の多い人物たちだが、ジャクソンの死亡およびその原因調査、華麗にして壮大な葬式演奏会の報道が圧倒的にマス・メディアを独占したため、マルデンはおろか、マクナマラに関わる報道は大幅に削られてしまったようだ。

そうしたジャクソンの狂想曲の陰で、8日付け朝日新聞の『天声人語』子、毎日新聞の『余録』子が揃ってマクナマラについての評論を発表していた。

『天声人語』子は結びに「晩年は沈黙を破り、回顧録やドキュメンタリー映画で『ひどい過ちを犯した』と率直に語っていた。人生で得た教訓の一つが『人は善をなさんとして悪をなす(In order to do good, you may have to engage in evil)』だったという▼5年前、かつてベトナム反戦の中心だった母校カリフォルニア大バークリー校に招かれた。そして『人類は20世紀に1億6千万人を殺した。21世紀に同じ事が起きていいのか。そうは思わない』と力を込めた。深い悔恨をへてたどり着いた、重い確信だったに違いない。」と記し、『余録』子は「狂気(MAD*)を生んだマクナマラ氏も回顧録の言葉のように晩年は核廃絶に向けた現実的アプローチを提唱した。北朝鮮のような無責任な国への核拡散や核テロなど、今や前世紀の抑止戦略が機能しない新たな核の恐怖に脅かされる21世紀である▲ビンから出た魔物が人目を盗んで増殖・拡散すれば、そのすべてを元に戻すのは容易な話ではなかろう。耐用期限の切れた戦略で管理しきれなくなった魔物は、少しでも早くビンに戻していくのが核保有国の義務である。」と結んでいた。(*MADは『相互確証破壊』の英語の頭文字)

マクナマラの生い立ち
ロバート・マクナマラは1916年(大正5年)6月9日、サンフランシスコで生まれた(写真右)。幼少から利発でボーイ・スカウトなどに加わり行動的。長じてカリフォルニア大学、バークレィ校(UC Berkley)で経済を専攻、同時に数学と哲学を学んだ。その後ハーバード・グラジュエイト大学(Harvard Graduate School)でビジネス管理で学士号を取得し、1年ほど会計士の事務所で働いた後、1940年の夏ハーバード校へ戻り、最年少で、最高給の助教授となった。

アメリカ空軍の士官に
マクナマラはその知識と才能の資質から、アメリカ空軍の士官となり、空爆を如何に効果的に成果を収められるか、という課題に取り組んだ。特にカーチス・ルメイ(Curtis LeMay)少将が率いるB−29の中国および東南太平洋の対日本軍、そして日本本土への空爆を立案した。

フォード自動車の社長に就任
1946年に除隊すると同時にフォードに入社。当時経営不安定だった同社を改革すべくチャールス・ソーントン(Charles "Tex" Thornton)の下に結成されたチームに参加し、経営企画、財政分析などを手始めに、迅速にその地位が昇格していった。無用な大型車の製造を排し、リンカーン部門の廃止まで提言したが、これは実施されなかった。1960年型ファルコン(Falcon)のような経済車を強く推進した。安全性も強調し、積極的にシート・ベルトや操縦装置の欠陥改良を行った。

1960年11月、マクナマラはフォード自動車創業以来、初めて「フォード家系」以外の社長に就任した。(右の写真:左はマクナマラ、右はヘンリー・フォード二世) 奇しくも同年同月、総選挙でジョンF.ケネディが大統領に選ばれた。

国防長官に抜擢され、そして、、、
マクナマラとケネディの繋がりの経緯は省略するが、フォード社長就任、僅か5ヶ月でマクナマラは国防長官の重責を担うことになった。
(左の写真:左はケネディ、右はマクナマラ)そして、それに伴いアメリカ国防組織の改革、キューバのミサイル危機、反共政策、1963年ケネディの暗殺、後継のリンドン・ジョンソン大統領に協力、ベトナム戦争の泥沼化、などなど、1968年に退官するまで、マクナマラはアメリカの対国際的な苦悩を背負い続けてきた。退官後はワールド銀行の社長(頭取)となり1981年まで13年間を過ごした。

『戦争の霧(The Fog of the War)』
2003年、ドキュメンタリー映画製作者エロール・モリス(Errol Morris)(右の写真)がマクナマラ自身の解説付きでこの『戦争の霧』を撮り上げた。翌2004年、この映画はドキュメンタリー部門でアカデミーの最高賞を獲得した。『霧』は直訳だが、それを『不透明』、『暗黒』いずれを採るかは読者(鑑賞後)の解釈次第だ。この1時間47分のドキュメンタリーで、マクナマラが関わった全てが克明に描かれている。アメリカの政治や国防の内面を知る上で重要な参考になるから、ビデオ店から借りて鑑賞なさることを推薦する。

最後に、アメリカの戦争介入の苦悩が救われるかのように、7月7日、オバマ大統領(上写真の左)がロシアを訪れ、大統領デミトリ・メドフェデフ(Demitri A. Medvedev上写真の右))と『戦略核兵器』使用制限に関する約定が合意に達し署名されたことは、平和へ一歩近付いたニュースとして喜ばしい。

時あたかも、この日のニュースが、マイケル・ジャクソン葬送狂想演奏会に圧倒されていたのが、何と言っても残念だった。