2009年6月30日火曜日

エネルギー節約は家庭から

地球の温暖化が憂慮され始めてから数十年経つが、その進行は止まることを知らず、南極、北極の氷が溶け、地形が変わり、ペンギンや北極グマの生存が危ぶまれ、海水が増加し、津波の被害が過去の記録を破っている。温暖化の元凶は、言うまでもなく、近代産業が生産に必要なエネルギーから排出される二酸化炭素(CO2)による大気の汚染交通機関を円滑に運行するためにガソリンを爆発させてエンジンを動かし二酸化炭素(CO2)をまき散らし、そして各家庭が心地よく住むために各種の電化製品などを使用しているからである。
人類がこの状態を続けている限り、遠からずエネルギー源が枯渇するか、地球が破壊されるかして我々は絶滅を余儀なくされるであろう。地球上の人類が破滅するのを避けるにはどうしたらよいのだろうか?有害な煙を大気に排出する産業を糾弾して生産を止めさせるべきか?地球上を走り回る交通機関を一切廃止するべきか?

温暖化の元凶は明白に判っていながら、それらを廃止することが殆ど不可能なまで、我々の生活は元凶たちの恩恵に甘んじ過ぎてきた。産業界や交通機関を糾弾する前に、我々の暮らしを振り返ってみよう。次に掲げた家庭が排出するエネルギーのリストを一つ一つ検討してみると、家庭が排出する二酸化炭素があなどるべからざる量であることに驚かされる。


専門家の計算によると、アメリカ中で排出する二酸化炭素の43%が一般住宅で消費するエネルギーによるものであるという結論が出た。中でも1939年(昭和14年)以前に建てられた住宅は適正な断熱材を使っていなかったので、昨今建てられる住宅に比べて50%以上もエネルギーが無駄に消費されている。一方、数年前の建築ブームに乗って建てられた住宅は、1970年代の住宅に比べて2倍も室内が広いため、冷暖房用のエネルギーに2倍の消費を要するという現象が起こっている。幸か不幸か、昨年の経済破綻で差し押さえ家屋が100万戸単位で増えたため、最近建てられる住宅は、小型化に逆戻りしているようだ。


では先ず、アメリカで一家庭単位に排出する二酸化炭素(CO2)の平均値リストをご覧いただきたい。 (単位はポンドキログラム数字はNGSの統計を参照した)
  1. 石油暖房設備:14,380/6,523
  2. 自家用車1台:11,903/5,399
  3. ガス暖房設備:6,967/3,160
  4. 電動ヒート・ポンプ:5,249/2,381
  5. 石油湯沸かし設備:4,331/1,965
  6. セントラル冷房:4,067/1,845
  7. 電気湯沸かし設備:3,586/1,627
  8. スパ浴槽:2,774/1,258
  9. 屋内灯:2,270/1,030
  10. ガス湯沸かし設備:2,171/985
  11. 電気乾燥機:1,521/690
  12. プール用ポンプ:1,496/679
  13. 冷凍庫:1,397/634
  14. 冷蔵庫:1,191/540
  15. 個室冷房機:872/396
  16. 電気レンジ:628/285
  17. 暖房扇:606/275
  18. ディッシュワォッシャー:599/272
  19. テレビ:548/249
  20. ガス乾燥機:435/197
  21. 卓上コンピューター:321/146
  22. (熱帯魚などの)水槽:286/130
  23. ケーブル・ボックス:182/83
  24. マイクロウエーブ:179/81
  25. ステレオ:167/76
  26. 洗濯機:153/69
  27. 屋外灯:150/68
  28. モニター:116/53
  29. 天井扇風機:115/52
  30. ラップトップ・コンピューター:98/44
  31. 防犯システム:83/38
  32. コーヒー沸かし器:83/38
  33. アイロン:72/33
  34. VCRプレーヤー:64/29
  35. 掃除機:57/26
  36. ヘア・ドライヤー:57/26
  37. トースター:53/24
  38. DVDプレーヤー:51/23
  39. コードレス電話:36/16.3
  40. インク・ジェット・プリンター:35/15.9
  41. ポータブル・ラジオ:23/10.4
  42. コードレス電動器具:22/10
  43. 目覚ましラジオ時計:21/9.5
  44. デジタル・カメラ:19/8.6
  45. 充電可能の玩具:17/7.7
  46. 電動歯ブラシ:16/7.3
  47. MP3プレーヤー:8/3.6
  48. PDA:8/3.6
  49. けいたい電話:5/2.3
  50. カムコーダー:3/1.4
  51. 電気剃刀:1/0.45
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ご覧のように、どの設備、どの器具も、誰にとっても必要不可欠なものばかりだ。だからといって使用を諦めないまでも、使用量を減らすことは可能である。

冷蔵庫、冷暖房器などの電化製品もこの30年間で殆どがエネルギー節約型に向上してきた。

タングステン電球(左の写真)蛍光灯式の電灯
(右の写真)に移行している。全家庭が蛍光電灯になると、二酸化炭素(CO2)を年に4,240万トンも減らすことができる。
コンピューターも、使っていない時は電源を切るようにすると年に830万トンのCO2減少に、運転も一週間毎に今までより20マイル(32キロ)走行距離を減らすと年に10,700万トンのCO2減少に、更に燃費有効型の車が1ガロン(3.8リットル)毎に5マイル(8キロ)向上したとすると年に23,900万トンのCO2が減少できる。


最後に、国立史跡保存財団(the National Trust for Historic Preservation)の会長リチャード・モウ(Richard Moe)の提案を聞いてみよう。

「エネルギー節約の第一段階として、地域の電力会社またはガス会社に家屋のエネルギー消費状況を査定してもらうことだ。少額、または無料でやってくれるはずだ。技術者が家屋のどこに無駄があるか、欠点をどうして改善するかを指導してくれる。


「一般的に、エネルギーの無駄な消費は断熱材に欠陥がある場合が多い。戸や窓に隙間があることもよくあることだ。欠陥箇所をそっくり入れ替えないで修復すれば、余り費用は掛からないだろう。天井裏には断熱材が無い場合があるからこれは取り付けること。また乾燥機の排気口は使用する時だけ開くようできる。


「史跡の建物保存計画に関わった
私の体験では、その古い趣きを損なわないで断熱材を取り付けたり、扉や窓の隙間を塞ぐことが可能であることが判った。

「政府でもエネルギーの節約には前向きに対処するようになってきた。その計画の一端として8兆ドル近く州政府や地方の風雪処理や有効エネルギー対策に投資した。特に低所得家庭向けに平均6,500ドルを家屋改善費用として扶助している。


「私の財団では、天然資源保護対策自治体や議会と協力し、古い家屋をエネルギー有効型に改造する計画を推進している。その提案によると、家屋の持ち主が改造してエネルギーの効率を20%向上させたら
報奨金3,000ドルを与え、それ以上1%向上させる毎に150ドルを追加する、という内容だ。この方式で3,000軒の家屋がエネルギー有効型に改造されたら、10年後には6,500万トンもの二酸化炭素が大気中に放出されないで済む。この量を石油に換算すると200,000,000バーレルに匹敵する。

「手作業を必要とする古い家屋の改造には失業対策の解決にもつながる。古い家屋を破壊して新しく建て直すのも結構だが、それにかかる人件費、運搬費、その他の経費を考えると、古い家屋を修復することによって、廃物の再生利用にもつながるのではないかな。」

2009年6月20日土曜日

折り紙と折りドル

折り紙はご承知の通り日本の伝統民芸です。それに伴って「日本人は手先が器用」という迷信が生まれ、従って「外人は不器用」という偏見のおまけまで付いてしまいました。その通説を信じる信じないは読者の良識にお任せするとして、今回はアメリカの『折り紙』をご紹介いたします。

(クラスで創った折り紙を見せる高校生たち)

『ノー・モア・ヒロシマ』の運動と共に、千羽鶴の伝統も世界中に広まり、アメリカでも折り鶴を作る人々が年毎に増加しています。またオリガミ作りも教科目に加えられ、楽しむ美術教育として一部で定着しているようです。

折り紙を更に拡大解釈し、用紙を正方形の色紙に限定せず、ドル紙幣を折るという『折りドル』を開拓した人もいます。残念ながら、作者の名が判明しませんが、ラッセル・ブロッド(Russell Brod)から転送してきた『折りドル』の作品の数々をご紹介いたします。(高橋 記)

































































追伸


日本の伝統スポーツは相撲です。旧友の早野清(はやの きよし)さんが折々、相撲の番付を送ってくださいます。相撲に関しては『柏鵬(はくほう)時代』と呼ばれた柏戸(かしわど)、大鵬(たいほう)の両横綱以来、50年近くも相撲に縁遠かった私は、横綱三役がガイジンの名前で占められてを見て隔世の感を禁じられません。

ガイジンと言ってもモンゴリアンは私の先祖のようなものですからヨーロッパ出身の力士と比べれば日本人と近い血の繋がりがあるわけです。柔道でも似たような現象が起きているようですが、相撲と共にいずれも国際的に認知されるスポーツに昇格したと考えれば、その将来性に喝采を贈る気持ちになります。(高橋 記)

2009年6月16日火曜日

年寄りの人生教訓、45項目


レジナ・ブレット(Regina Brett);90才
オハイオ州クリーブランド市在住

この年になって過去を振り返ってみると、吾が人生体験から体得した45項目の教訓を実践したお蔭で、満更でもなかったように思う。その教訓の随筆コラムは、私が執筆した随筆の内で最も人気があった。最近、私が90才の節目を迎えたところで、もう一度、教訓コラムの再録をご披露しよう。


1. 確かに世の中は不公平に溢れている。それでも己れの人生に満足できないことはない。

2. 前進するのを危ぶんだ時は、先ず小刻みの一歩を踏み出してみることだ。


3. 人生は短い。誰か他人を憎んでいる暇はない。


4. 君の仕事は、君が病気になっても面倒は見てくれない。でも身内や君の友人が心配してくれるから、彼らと仲良くしておくことだ。


5. クレジット・カードの『支払い』は毎月きれいに残額を清算しておきなさい。


6. 意見の違う相手を説得しようなどと思う勿れ。『不合意』に合意し給え。


7. 泣きたい時は誰かと一緒に泣きなさい。独りで泣いているより遥かにマシだから。


8. 腹が立った時『神様』に八つ当たりしても構わない。『神様』は受け止めてくださる。

9. 初めての就職で最初の給料を貰ったら、引退後のために貯金しておきなさい。


10. 事、チョコレートの誘惑となったら抵抗するのは無駄だよ。


11. 自分の過去にくよくよしせず安泰にしていると、現在を台無しにしないで済む。


12. 君が泣いている所を子供に見られても恥じることはない。

13. 自分の生活と他人の暮らし向きを比べるのは止めなさい。その他人がどんな人生を歩んできたかを君は知らないのだから。

14. もし『誰か』との関係を秘密にしておきたかったら、そんな関係にはまり込まないことだ。


15. 何でも一瞬の内に変わることがある。でも心配無用、神様は瞬(まばた)きしないから。


16. 危機に直面したら深呼吸をしてごらん、それで落ち着くから。


17. 
君の生活で、役に立たないもの、美しくないもの、楽しくないもの、全て除外しなさい。

18. 重荷にならない易しい仕事は、実の所、君を強靭にしてはくれない。


19. 『幸せな子供時代』の体験は今からでも遅くはない。でも、二度目のそれは、親を当てにできないから、自分自身で創るしかない。

20. 自分が心からやりたいと思うことを実行するには、悲観的な要素を全て拒絶する覚悟が必要だ。

21. ろうそくを灯し、素敵な下着を着て、きれいなシートに寝なさい。良いものを『よそ行き』に仕舞っておくことはない。『今日』が特別な日なんだから。


22. 準備をし「過ぎる」ということはない。それで何もかもうまく行くのだから。


23. 気が向いたら変人と思われるようなことをしてごらん。紫の衣装をまとう老年になるまで待つことはない。


24. 人体で最も重要なセックス器官は『脳』だということを知っているかね?


25. 君を幸せにするのは誰でもない、君自身だ。


26. 「五年も経ったら片が付くだろう」という言葉を伴う災難を思い浮かべてみ給え。


27. 常に『生き甲斐ある人生』を歩むこと。


28. 嫌いな誰かのことも、誰かがした過ちも赦(ゆる)そう。


29. 他人が君のことをどう思っているか、ということは君には関わりのないことだ。


30. 『時』が傷でも何でも癒やしてくれる。『時』を待ち給え。


31. 善い事情も悪い事情も、いずれは風向きが変わるものだ。


32. 余り君自身の問題を真剣に考え過ぎないこと。誰も気にしていないのだから。


33. 『奇跡』を信じなさい。


34. 『神様』は君のことを愛している。それは君が行(おこな)ったこと、行
(おこな)わなかったことと関わりなく『神様だから』君を愛しているのだ。

35. 計算づくで人生を渡るな。一生懸命に生きていれば必ず報われる。


36. 年をとるにつれて「若い内に死んだ方がマシだ」という考え方がバカげたことだと思うようになる。


37. 子供たちの『子供時代』は一度しかないということを肝に銘じて彼らに接することだ。

38. 君が情熱をかけたものが、
結果として真実の全てとなる。

39. 表へ出て辺りを眺めてみ給え。『奇跡』が至る所で待っているから。


40. もし皆が頭痛の種をブチまけて、誰彼のアラを探していたら、我々自身の足を引っ張ることになる。


41. 他人を羨やむのは無駄なことだ。君は必要なものを全て持っているはずだから。


42. もっと『良い事』は遅かれ早かれやってくる。


43. 君の気分が良い時も悪い時も、朝はきちんと起きて、さっぱりと身支度を整え給え。


44. 謙譲は美徳だ。


45. 人生は規則に縛られているわけじゃない。人生は『授かりもの』だ。



いつでも私は君と食べ物を分かち合う気持ちがある、ということをお忘れなく。
そして『友達』とは自分で選べる家族の一員だと考え給え。

2009年6月8日月曜日

地獄で仏、、、武士の情け

[編集から:この話題の最初の発信者はケリー・ケヴィン(Kelly Kevin)、巡り巡ってジェイムス・ロッジ(James Lodge)から当方に転送されてきました。最近、、、といっても特に昨年の大統領選挙当時に相手候補の中傷をねらったメールが矢鱈に横行しました。その真偽を確かめる『スノープ』というサイトがあります。2月に公開した『硫黄島』異聞もスノープで調べ、虚々実々であったことはお伝えした通りです。今回公開したヨーロッパ戦線での涙ぐましい話は、スノープによって実話であることが確認されましたので、眉に唾をつけないでもお読み頂けます。]

地獄で仏、、、武士の情け

第二次大戦中のヨーロッパ戦線の出来事。1943年(昭和18年)12月『空の要塞(Flying Fortress)』のニックネームで知られるアメリカの爆撃機ボーイングB−17のパイロット、チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)は、ドイツ、ブレーメン(Bremen)にある工場を爆撃する使命を遂行していた。使命をおおむね果たしてから、ブラウンはイギリスの基地キムボルトン(Kimbolton)に駐屯している379爆撃隊の元へ帰ろうとした。それまでに、ブラウンのB−17は防御するドイツの対空高射砲や迎撃に遭い、可成りの損傷を受けていた。4個のエンジンの一つは不能、尾翼、水平翼、機首は大破、尾部銃座の射撃手は重傷を負い、天井銃座も破壊され、機体の至る所に銃弾の穴だらけ、機内は血まみれだった。コンパスが機能しない状態のまま、逆の方角に向かってドイツ空軍基地の上空を飛び続けていた。

地上のドイツ軍司令官は、そのB-17を認め、戦闘機ルフトワッフェ(Luftwaffe)BF-109のパイロット、フランツ・スティグラー(Franz Stigler)に撃墜を命じた。命を受けたスティグラーは飛び立ち、B-17に近付いたが、その傷だらけのまま飛び続けている爆撃機を見て信じられず息をのんだ。
(この状景は、後年二人のパイロット達の記憶を基に、画家アーニー・ボイエット[Ernie Boyett]が復活させた油絵)

スティグラー(左)は機をB-17と並ばせ、パイロットのブラウンが見える位置に近づけた。それに気が付いたブラウンは必死の思いで追跡から逃れようとした。スティグラーはその様子を見て、ブラウンが方角を間違えていることを知り、方向転換するよう手を振って指示した。

後年、スティグラーはその時の心境を「あんなに傷だらけの飛行機と勇敢な兵隊たちを撃ち落とす気持ちにはなれなかった。彼らは必死の思いで基地へ戻ろうとしていたんだ。私はそのB-17に長いこと付き添って帰り道を指示してやった。あの時の私は命令された通り彼らを撃ち落とすことが出来る立場にあったけれど、それは撃墜された飛行機からパラシュートで脱出して降りていく兵隊を撃ち殺さないのと同じ
動機だ」と述懐している。

ブラウンの爆撃機B-17とスティグラー戦闘機BF-109が海へ出て、イギリスの南端が遥か彼方に見えてきた地点で、二人のパイロットはお互いに敬礼を交わして北と南に別れた。


スティグラーは基地に戻り、上官にB-17を洋上で撃墜したと報告し、以後その件については誰にも真実を話さなかった。一方、B-17のブラウンと生存者たちは、ドイツのパイロットから攻撃される代わりに救助された顛末を全て報告したが、上官から、以後その件について一切口外しないよう警告され、口を固く閉ざしていた。戦争が終わり、時たま集まる旧戦友の会合でも上官の命令を守り続けていた。

戦後40年以上が経過し、チャーリー・ブラウンは、あの日のルフトワッフェのパイロットに会いたいと思って探していた。そして数年間の捜索の結果、遂にフランツ・スティグラー
の所在を突き止め連絡することができた。ブラウンはスティグラーをアメリカに招待し、旧379爆撃隊の生存者の会合に出席させ再会を果たした。総計25名、あの日スティグラーが「撃たなかったため」その日まで生き延びられた人々だった。
(左から:スティグラー、画家ボイエット、ブラウン)

フランツ・スティグラーとチャーリー.ブラウン、共に昨2008年に他界した。


[編集後記:武士道の信条よると、敵味方に分かれて戦い、一方が敗れた場合、その瞬間から勝者にとって敗者は『敵』ではなくなる、とされています。又、『川中島の合戦』で名高い武田信玄と上杉謙信が対立した際、塩不足で悩んでいた武田に上杉が「我々は弓矢で戦っているのだから、食料を戦略に使うわけにいかない」と言って塩を送ったという挿話があります。いずれの場合も『武士の情け』の発露に他なりません。このエピソードは、正に武士道と通じる心情です。]

2009年6月5日金曜日

天安門事件、20年の風化


[天安門広場事件(てんあんもんじけん)の概要:1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦(こようほう:Hu Yaobang)の死をきっかけに、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して「中国人民解放軍」が市民に向けて無差別に発砲したりタンクで轢き殺すなど、武力による弾圧で、多数の死傷者を出した事件である。編集者]
(註:文中に挿入した写真は、本文とは直接関係ない。上:鄧小平(とうしようへい Deng Xiaoping
)左と胡燿邦(こようほうHu Yaobang)右。左の写真は当時のソ連書記長ミカイル・ゴルバチョフと握手する鄧小平。)


北京の銃声
ニコラス D.クリストフ(Nicholas D. Kristof)
NYタイムス、寄稿者

あの事件が起こったのは日没後で;銃撃の音が耳にこだまし;通りは流血で染まった。武装した軍隊の一群が広場の一郭に陣取り、広場の中心部にいる私を含めたデモ隊の群衆を見下ろす位置から間断なく狙撃してきた。我々は恐怖の狙撃が届かない地点まで後退せざるを得なかった。

低い地形の端まで逃げ、音がかき消されて静寂になった所で立ち止まり振り返って見た。両者の間にできた100メートル程の空間地帯に、兵隊に撃たれたのであろう、死傷者が何人も横たわっていた。

デモ隊の一部は、軍隊に向かって暴言を叫んだり、煉瓦や火炎瓶を投げ付けたりしたが、届かず意味もなく空地に落ちた。しかし誰も進んで、苦しんでいる負傷者を救い出そうという者はいなかった。当時私はニューヨーク・タイムスの北京事務所長で、デモ隊の陰に隠れて取材をしていたが、それでも持っていた手帳は恐怖の冷や汗で湿っていた。

兵隊たちは負傷者を回収しようとしている救急車にも発砲したので、他の救急車は遠くに離れたまま近付こうとしなかった。その時、思い掛けない救いの手が現れた、、、数台の人力車。

彼らは農夫や北京市内で走り回っていた本職の人力車夫だった。彼らはゆっくりとペダルを踏んで現場の中心へ向かい、血みどろの死傷者を回収し、それから一目散に近くの病院へ運び去った。

一人の逞しい人力車夫は、頬を流れる汗を拭いもせず、運んでいる重傷を負った学生を私に見せてから走り去った。(右の写真:タンクの前に立ちはだかる反抗者)

そのお陰で、私は写真を撮り、事件のレポートを書くことができた。あの
力車夫は多分デモクラシーの理念など弁えていなかっただろうが、身の危険を冒してまでも自分の信念を実行していたのだ。

このような光景は北京中で起こっていた。その夜、古い飛行場からの道路を兵隊を満載したトラックが東から市内に侵入してきた。それを見た中年のバスの運転手は、車を道路の真ん中に横付けにし、軍用トラックの行く手を遮ってしまった。


「道を空けろ!」と叫ぶ兵隊に向かってバスの運転手は、
「あんた方に学生たちを攻撃させる訳にはいかないんだ!」と頑固に言い返した。

兵隊たちは銃口をバスの運転手に向け、再び道を空けるよう命令した。それに対して運転手は車の鍵を抜き、道ばたの草むらに放り捨ててしまった。もう誰もバスを動かすことができなくなった。彼は逮捕された。その後、その頑固な男がどうなったかは判らない。

事件から20年経ち、あれほど強硬に要求したデモクラシーはどうなったのだろうか?何故中国は政治的に凍結してしまったのだろうか?この20年間、中国は経済的に急成長したにも拘らず、何故政府は1980年代以上に
報道を厳しく抑えているのだろうか?そして何故、今日それに対する不満や抗議の声が聞かれないのだろうか?

だだ一つ考えられるのは、あの抗議を叫んでいたエネルギーが、遥かに安全な金銭欲へのエネルギーに変換されてしまったのではあるまいか。私の知る中国人の友人は「大声で抗議すれば逮捕される。抗議を胸の中にしまっておくのは無駄なことだ。私はむしろ気楽に海賊版のDVDでも観ていた方が無難だと思うよ」と本音を吐露していた。


他に考えられる答えは、あの1989年代に人力車夫、バスの運転手、そして他の諸々が要求していたのは政治的なデモクラシーではなく、今日獲得できた『より良い暮らし』だったのではなかろうか。その点、中国共産党は中国の経済発展という多大な業績を挙げたことになり、同時に政治的に弾圧した人々の経済生活も向上させてしまったのだ。

北京の市民の生活水準は飛躍的に向上した。彼らに投票権はないが、幼児の死亡率はニューヨークのそれを遥かに下回る27パーセントを示している。


何もかも良いことづくめではない。生活環境は無惨そのものだ。醜い国粋主義から一部の若者たちや、政治に無関心な一般人でさえ、組織の腐敗やウェブサイトの厳しい検閲制度(今週のTwitter、 Flickr 、 Hotmailなどが遮断された)などに対して不安感を隠し切れない。それを償うかのように、今の生徒の教育は前の世代に比べて著しく向上し、アメリカの生徒よりも高い水準にある。

市民を教育し中産階級を増やすと、政治に参加する意欲が生まれる、というのが常識的な傾向である。そういった意味で、中国は1980年代の台湾や南朝鮮の足跡を辿っている。

1986年、台湾の馬英九(ま・いんじょう;Ma Ying-jeou)という野心満々な若い官僚が私に「強固な西欧型のデモクラシーは台湾人には当てはまらない」と言っていた。彼は彼が考えているデモクラシーに改訂したことで、今日では『民主的に』選挙された大統領になってしまった。

私の友人の何人かは共産党の幹部で現在の地位に甘んじている。我々外部の人間も彼らと同様に、状況を急速に変化させようなどと企むことなく、実質的な考えに立って辛抱しなければならないようだ。そんな風に我々が耐える時、20年前のあの人力車夫たちの行為を思い起こすことで我慢ができるというものだ。

2009年6月3日水曜日

民族学者、ロナルド・タカキの死を悼む

リチャード・モリモト(Richard Morimoto)オハイオ州、トレド市在住

(筆者は、IBMに永年勤続後引退した技術者)


少数民族の学者ロナルド・タカキ(Ronald Takaki)が去る5月30日、カリフォルニア州バークレーの自宅で亡くなった。享年70才。 タカキは生涯を、従来のアメリカ歴史から除外されていた東洋系アメリカ人や他の少数民族の調査研究を基に歴史の書き直しに没頭し、アメリカで初めて少数民族研究の博士プログラムを発足させた日系三世のアメリカ人である。

タカキの息子トロイ(Troy)が洩らした所によると、ここ数年来悩まされていた多発性硬化症(multiple sclerosis)との斗病に疲れ果てた末の自殺、ということだ。
遺族は、妻のキャロル、ロサンゼルスに住むトロイとエル・セリト(El Cerrito)に住むトッド(Todd)ら息子が2人、コネチカット州に住む娘ダナ(Dana)、兄、それに7人の孫である。

ロナルド・タカキは、19世紀にハワイに来て砂糖黍農園で働いていた日本人移民の孫で、ホノルルで生まれた。若い頃は、もっぱら海岸でサーフィングを楽しみ、足の全指を使うスタイルが独特で仲間から『10指タカキ(Ten-Toes Takaki)』の異名で知られていた。

オハイオ州のウースター大学では、歴史学の学士号取得の勉強に没頭していた。オハイオ州にいる間にキャロル・ランキン(Carol Rankin)と出会い結婚した。

引き続きバークレー校で学び、1962年に修士号を取得、1967年には博士号を取得した。彼は大学で『自由な発言(the Free Speech)』運動や、南部諸州での公民権運動の影響を強く受けた。2003年、サンフランシスコ・クロニクル新聞社の記者に「私は、1960年代のバークレーで知的な面、政治的な面、共に生まれ替わった」と語っている。

彼は、合衆国の奴隷制度に関する論文を書き、1971年に『奴隷制度の推進:アフリカで奴隷売買が再発の動き(A Pro-Slavery Crusade: The Agitation to Reopen the African Slave Trade)』を出版した。 タカキがU.C.L.A.で、同大学がワッツの暴動に刺激され初めて設定した『黒人の歴史』の教鞭を取っていた時、学生の一人が「先生はどんな革命の手段を教えてくれるのですか?」と質問した。それに対して教授は「我々は我々の批判精神と文書による表現技術を強化することになるであろう。もし我々がその気になれば、それが、革命の手段となるのである。」と答えている。

1971年、タカキは、バークレー校で新設の少数民族研究科の最初の主任教授となった。彼はその研究科で影響力の強い調査コースを教え、アメリカにおける異なった人種が体験した差別問題を比較する方法を採った。加えて、少数民族の調査研究を卒業課題として設定し、彼はすべての卒業期にある学生が、人種問題や少数民族問題を広範に理解できるよう補佐した。

タカキは、過去30年に亘ってカリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとってきた。同校では1984年に彼の努力で、少数民族研究を博士号の教育課程に組み込み、必須教科目として制度化した。彼の著作、例えば『異なった鏡:複合文化国アメリカの歴史 (A Different Mirror: A History of Multicultural America:1993)』は勃興してきたこの分野に必要な根本的な教科書となった。


タカキは2003年に引退したが、 少数民族、複合文化に関する指導的な学者となり、少数民族や非ヨーロッパ系移民の複合文化に対する既成概念や典型的な固定観念を覆すべく挑戦を試みていた。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校のアジア系アメリカ人研究センター(the Asian American Studies Center)のドンT.ナカニシ(Don T. Nakanishi)所長は、バークレーのウェブサイトで「ロン・タカキは、アメリカの過去から現在に至る複合民族の研究を向上させ一般化させた。それによって国内国外を問わず、今世代の学生や研究家たちに強烈な印象を与えた」と語っている。


70才といえば若くはないが、今日の平均寿命からいったら死ぬほどの年寄りではない。少数民族の調査研究で
タカキが成し遂げた足跡は、我々にとって偉大な遺産である。まだ存命して後進の指導にあたってもらいたかった。

[追記:タカキが死亡する3ヶ月前の2月28日、C−Spanが『In Depth with Ronald Takaki』と題して 延々3時間に亘るインタビューをしている。ここに掲載できないのが残念だが、DVDにレコードしてあるから、いつか機会があったらご紹介したい。 またタカキの死亡記事は、ニューヨーク・タイムス、ロサンゼルス・タイムスを始め、全国大小のマスコミに掲載された。彼の業績の偉大さがうかがわれる。なお上掲の書物にご興味がありましたら、書名をクリックなさると、ご案内のサイトが現れます。]