2009年2月15日日曜日

硫黄島:その砂、あの旗、そして手紙

高橋 経(たかはし きょう)ロビンフッド、ミシガン州
2009年2月

今から64年前(1945年[昭和20年])の2月、日本はアメリカとの戦いに連戦連敗、『一億総決起』『本土決戦』を掲げて崩壊の瀬戸際に立っていた。フィリッピンや、西南太平洋の島々は守備兵と共に全て失い、残す島は硫黄島と沖縄だけとなった。アメリカは既にサイパン島を基地に獲得、そこからB29大型爆撃機が無着陸で日本の都市を爆撃することが可能になっていた。その爆撃拠点を更に半分の距離に近づけて飛行を容易にするために、アメリカ軍は硫黄島を攻略する作戦を進めていた。(下の写真は硫黄島の南端、すりばち山)
日本の大本営は、当然と考えられるその作戦を予測し、昭和19年6月、硫黄島に栗林忠道(くりばやし ただみち)中将が率いる21,000名の守備隊を配備した。栗林は先ず島にいた非戦闘員を日本へ送還した。アメリカ軍の攻撃は2月19日、爆撃から始まった。2月23日、アメリカ海兵隊が島の南端にあるすりばち山を攻略し星条旗を立てたそれから日米軍の激しい攻防が繰り広げられ、栗林は大本営に空からの救援を求めたが空しかった。海兵隊は頑強な栗林の抵抗を押して、さらに島を北方に攻め上げていった。3月の半ば、食も尽き、水も尽きた栗林は父島の守備軍に電信で窮状を訴え、しかし「我々の気迫は充分、全軍死ぬまで戦う覚悟だ」と付け加えた。3月24日「さらば父島の将兵よ」の電信を最期に、翌々26日、第5海兵隊に対して総攻撃をかけて全滅した。これを当時の日本のマスコミは『玉砕(ぎょくさい)』と呼んで賞賛した。
硫黄島を占領したアメリカ軍の人的損害は死者6,800名、負傷者21,800名。全滅した守備軍21,000名が与えたアメリカ軍の多大な損害を知った天皇裕仁は満足の意を表した、と伝えられる。

硫黄島戦の最中3月10日には東京大空襲、4月から沖縄攻略戦が始まり、4月7日、沖縄へ向かった日本海軍の誇る最後の切り札、世界最大の戦艦大和が撃沈され、4月12日、ルーズベルト大統領が死亡、トルーマンが新大統領に、6月22日沖縄島陥落、7月27日、日本の降伏を勧告するポツダム宣言が届き、鈴木貫太郎(すずき かんたろう)首相以下その勧告を『無視』、8月6日広島に初の原爆投下、8月8日ソ連が参戦し日本に対して宣戦布告、翌9日長崎へ2発目の原爆投下、10日降伏を決定してポツダム宣言を受諾、8月15日天皇が降伏の詔勅を朗読した録音をラジオで放送、9月2日東京湾に停泊したミズーリ号の甲板で日、米、連合国の代表が調印し、公式に太平洋戦争が終結した。

その日本の敗戦から4年目の1949年にハリウッドから硫黄島の砂(Sands of Iwo-Jima)』と題する映画が公開された。主演は西部劇でお馴染み、今は亡き、ジョン・ウエイン(John Wayne 左の写真)、日米ともに戦争映画は戦時中にも作られていた。目的は言うまでもなく、国民の敵愾心をあおり、戦意を高揚することだった。だからアメリカ人は日本人を『ジャップ』と呼び、日本人はアメリカ人を『鬼畜(きちく)』と呼んでいた。流石に戦後ともなると、『敵性』部分は抑え、多少戦争の悲惨さを訴え、平和を礼賛する趣向に推移してきた。実写のニュース映画のフィルムを交え、すりばち山頂に星条旗を立てるシーンは真に迫り、アカデミー賞受賞候補にもなった。日本で直ぐに封切られたが、かつての敵のヒロイズムに対して日本人観客の反応が賛否両論交々だったのは無理からぬことだった。

その映画の後長いこと硫黄島のことは忘れ去られていたようだが、敗戦から半世紀以上経った2006年の秋、硫黄島に関わる映画が、それも2本同時に製作された。2本共に制作者は俳優としても成功したクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)、いずれも野心的で良心的な作品だった。何故2本も?誰もが訝しんだ。理由は簡単、1本はアメリカ側の事情、もう1本は日本側の事情、いずれの側も立場も違えば、感情も違う。双方の事情を語らなければ公正を期することはできない、というのがイーストウッドの意図にあった。

最初に作ったのが父たちの星条旗(Flags of Our Fathers)』、硫黄島の戦闘に参加し、星条旗をすりばち山頂に掲げたた海兵隊の生き残り数人が、帰国してヒーローに祭り上げられるが、地獄図のような戦場の凄惨な記憶がしばしば蘇って、暗澹とする。そして彼らの息子たちも、ヒーローの家族であることへの戸惑いで複雑な感情に悩み、、、一体戦争とは何で、何のために、どうして人間と人間が殺し合うのかといった疑問に直面する。イーストウッドの反戦思想が明らかに観客に伝わってくる。所で、この映画は『ライアン二等兵の救出作戦(Saving Private Ryan)』を作ったスティーブン・スピールバァグ(Steven Spielberg)が気に入って権利を買い取った。

この映画を鑑賞した後では、1949年の『硫黄島の砂』は、矢鱈に勇ましい登場人物の安価なヒロイズムだけが目立ち、活劇映画の域を脱していないご都合主義という印象しか残らない。

2本目の硫黄島からの手紙(Letters From Iwo-Jima)』は、渡辺謙(左の写真)が扮する栗林忠道守備隊隊長が中心人物だが、話しの主題は、凄惨な戦闘場面は別として、数人の兵士の個々の感傷、感情、思い、悩み、に焦点が置かれ、それらを注意深く描いている部分である。その中には1932年のロサンゼルス、オリンピックの馬術で金メダルを取った西竹一(にし たけいち)を始め、元特高憲兵から名の無い一兵卒までが含まれ、いずれも勝ち目のない戦闘を間近に控え、生存できるチャンスは皆無の状態であることを充分に承知していた。『死』に臨む瀬戸際の感情は、複雑を通り越し、それぞれの運命をむしろ冷静に受け止めていた。アメリカ人の観客たちは、かつて『敵』と呼んで憎んでいた日本兵の心の内面を知って憮然としたということだ。アカデミー作品賞は逸したが、音響効果賞を獲得した。音で見る戦闘場面の凄まじさをご想像あれ。惜しむらくは、このような『死』に直面した人々の微妙で深層の内面描写を、何故今まで日本人自身の手で製作されなかったのか奇妙に思う。

戦争は地獄。殺されるのはいつも下積みの民草。戦争は避けるに越したことはない。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

昭和21年以降に生まれた『無戦』の世代に読ませたいですね。