2009年1月22日木曜日

『見えざる手』:メーカーの栄冠と損失


村瀬 収(むらせ おさむ)、名古屋市

[筆者は自動車部品メーカー勤務、元エンジニア、ミシガン州駐在5年、現在本社勤務で名古屋在住。]


「百年に一度」と言われる経済不況の真っ只中で、その影響をもろに受け、大苦境に直面している自動車産業の末端に身を置く者として、雑感を述べさせていただきます。一昨年のサブプライムから端を発した金融危機と経済不況の波は、昨年秋のリーマン・ショック(Lehman Shock)で堰を切ったように全世界を駆け巡り、そしてあっという間にここ日本にも襲いかかってきました。その勢いたるや、あのバブル崩壊時の比ではなく、まさに津波に呑み込まれたような感すら受けております。2008年3月期に史上最高益を上げた自動車メーカー各社が、その翌年赤字に転落して損失計上に追い込まれるとは、一体誰が予想したでしょうか?まさに我が世の春を謳歌し、桜吹雪の中で暫し狂喜乱舞と思っていた矢先、空から舞い降りてきたのは桜ではなくなんと本当の雪吹雪で、気が付いたら厳しい冬を迎えていた、、、そんな喩えが当てはまるような状況ではないでしょうか?
この状況下、中でも独自の生産システムと優れた品質を売り物に躍進してきたトヨタ自動車にとって2008年度は、自動車の生産、販売において長年世界一の座に君臨していたGMを追い越し、ついに念願の世界一に躍り出た年でした。

そのトヨタは片手に『世界一』という栄冠を、そしてもう一方の手には2009年3月期『赤字転
落へのチケット』を同時に手渡されるという何とも皮肉な結果となりました。かつてトヨタは自社の高級車「クラウン」のコマーシャルに『いつかはクラウンに!』というキャッチフレーズを使っていた時期がありました。モータリゼーションが加速していった昭和の時代(30~40年代)に、クラウンは一般庶民にとって高嶺の花でした。それでも「今はカローラ(エントリー・カー)だけれど、徐々にステータスを上げて、カローラからコロナへ、コロナからマークⅡへ、そしてやがていつかはあのクラウンに!」

そんな夢を描くことが労働者のモチベーションともなりました。あの高度成長時代とはそんな時代ではなかったでしょうか?そんな夢を我々に抱かせてくれたトヨタもついに自らが「『世界一』のクラウン(Crown = 栄冠)を手にした悲しいクラウン (Clown = 道化師)になってしまった?」などとブラック・ジョークを浴びせるのはちょっと揶揄し過ぎでしょうか?


今回の世界同時不況に対し、政治家や経済評論家たちはその原因とその脱出策について、様々な自説を論じており、その分野では全くの門外漢の私が割り込む余地などないかと思いますが、その現場に居合わせて率直に感じることが一つあります。それを一言のフレーズで表現するならば、「見えざる手が働いた!」のではないかということです。

『見えざる手』というのは、18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミス(Adam Smith)が、著書『国富論(Wealth of Nations)』の中で著した言葉です。Wikipediaによれば「この言葉は国富論の第四篇第二章で1回使われているだけにも関わらず、非常に有名である。この文句の意味は、個人による自分自身の利益の追求が、その意図せざる結果として社会公共の利益をはるかに有効に増進させるというものであった」と書かれています。もしこの解釈が「たとえ経営者が私利私欲で企業経営して私腹を肥やしたとしても、最終的にはそれが社会全体の為になるということだ」とすると、これは俄かには理解し難いものですが、もう少し深く読むと「この世の中は市場メカニズム、つまり弱肉強食のシステムだけが全てではない。それを超越した神の見えざる手の導きによって、世の為にならないものは自然淘汰されてゆき、本当に世の中、地球全体のためになるものだけが生き残る。栄枯盛衰あるのは結局はそのような秩序が働いた結果に過ぎない」と読み取れるのです。

そこで振り返ってクルマという乗り物をよく見てみると、確かにそれは人々に移動手段としての利便性をもたらし、道さえあれば自らの思うがままにどこへでも走らせることが出来る文明の利器でありました。少なくともモータリゼーションの最中まではそうでした。ところが夢を叶えてくれたそのクルマというものが徐々に増えてきて、大手を振って街を闊歩するようになってくると、今度は色々と厄介な問題が見え隠れしてきたのです。

文明の利器が『走る凶器』と化し、加害者が又被害者にもなり得る悲惨な交通事故の増加、排気ガスがもたらす大気汚染、やがてそれが化石燃料消費、CO2排出による地球温暖化へと、クルマに起因する問題が人間社会から果ては地球規模の影響をもたらすようになっていき、もはやこれらを無視する訳にはいかなくなくなってきました。これに対し自動車メーカ各社も安全性向上、燃費向上など、人と地球に優しいクリーン(clean)[でグリーン(green)]なクルマ作りを目指してしのぎを削るようになってきました。

只、その一方でクルマの増産は続いていたのです。特にそれはBRICSと呼ばれる新興国において、即ち未だクルマという乗り物の利便性を享受していなかった国々に対し、自動車メーカー各社は我こそ先にと名乗りを上げ市場拡大に躍起になっていました。中国でのその様は、欧州の列強諸国が自らの領土を世界に広げんとし植民地開拓していった時代、又日本とて同様、満州事変以降の第二次世界大戦へと突入していったあの時代に何か酷似性を感ぜずにはいられません。

歴史は繰り返すと言います。結局、人間は勢力拡大、世界征服の野望を捨て切れなくて、それが戦争ではなく、市場競争に置き換わっただけなのです。人殺しでなくなった分だけ賢くなった、それでよしとしなければいけないのでしょうか?(と言っても、相変わらず世界各地で今も民族紛争などは続いていますが、、、。)


そこでもう一度アダム・スミスの『見えざる手』を引き合いに出します。もし自動車メーカー各社が、BRICSなど新興国に対しこのままクルマの生産、販売を猛烈な勢いで展開していったとしたら、そしてそのクルマが未だ問題を抱えたままの不完全な状態で人口14億の中国、同じく11億のインドなどで氾濫してしまったとしたら、一体地球はどうなるのでしょうか?今でさえもう既に深く傷ついて疲弊し切っている地球にそれを受け入れるだけの余力が残っているのでしょうか?いかに寛大な地球ではあっても、もうそんな余裕はありません。このまま放っておいたら環境問題はもっと深刻な事態になります。ひょっとすると、大変な天変地異が起きるかもしれません。

何故自動車メーカは真にエコでクリーンな理想のクルマが完成するまでその拡大を自粛する倫理観と勇気を持てないのでしょうか?何故性懲りもなく、我先に自社のシェア拡大に奔走するのでしょうか?そう考えた瞬間、誰かがその動きに待ったを掛けなければならなくなり、神様の『見えざる手』が働いて鉄槌を下したのでしょう。今回の世界同時不況は「人間よ、目を覚ませ!そんなに慌てるでない!急いてはことを仕損じる!」と言った神様の声、サムシング・グレートとも呼べる何か人間の英知を超えた偉大な存在による計らいでなかったのでしょうか?
そのように考えれば、今の状況は決して絶望的なことではなく、むしろ反省すべきことなのかもしれません。

自動車メーカーもこれまでの不徳を反省し、暫くは市場競争を控えて、究極のエコ・カーの開発を一刻も早く完成させれば、その暁に出口の見えない不況に光明が射し、明るい未来が見えてくるでしょう。トヨタに手渡された2009年3月期『赤字転落へのチケット』は、或いは『明るい未来へのラウンド・チケット』なのかも知れません。この業界に携る者としてそう願ってやみません。
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次は、『アメリカ金融危機の犯人は』をお送りいたします。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

苦しい時の『神』頼み。そんな気分にさせられる今日この頃です。でも神が罰を下した我々の罪は、やはり我々の手で償いをしなければならないでしょうね。