2009年1月19日月曜日

経済危機の禍根:その3

自動車産業、その驕りと低迷
高橋 経 (たかはし きょう) 2009年1月20日

(前稿『その台頭』からの続き)

人件費
フォード・モーターのT型モデルが好調に売れていた1914年、ヘンリー・フォードは工員の日給を従来の2ドルから5ドルに上げた。当時の工員の日給としては破格な賃金であった。この決定は労働基準局から命令されたものでも、労働者たちの賃上げ要求を呑んだのでもなく、純粋にヘンリー個人の決断だった点に意義があり、またこの昇給が及ぼした影響も甚大であった。つまり、これでフォード社の評判を高めたと同時に、優れた技術者や機械職人がフォードに集まったのである。競争他社も負けてはいられず、心ならずも工員たちの昇給に踏み切らざるを得ない羽目に落ち入った。

それから21年後、1935年5月に、かつて禁止されていた労働組合が着実に基盤を築き全米自動車産業労働者連合(United Auto Workers: UAW)と名乗り組合として発足した。彼らは個々の会社に属さず、独立した団体のように作戦を立て、行動した。主に「待遇改善、賃金値上げ」を旗印に掲げ、各個撃破を目標として経営者たちと交渉する。交渉が難航するとストライキを決行した。大抵の場合、ストライキ以前に交渉は「円満に」解決したが、時に無期限にストライキを敢行したこともある。

特に1967年、フォードを目標にした交渉は難航を極め、同年9月から翌年の2月まで半年に及ぶストライキが行われた。その間収入が途切れるわけだが、普段納めている組合費から何がしかの生活費が支給されていた。最終的に組合の要求が通って操業は再開された。アメリカ社会に階級システムがあるとしたら、大ざっぱに分類してホワイト・カラーの会社勤めが上級で、自動車の組み立て工場で働くブルー・カラーの工員が下級というのが目安である。当然会社勤めの方が工員より高給をとる、と相場が決まっているが、フォードのストライキ以後、工員の給金がホワイト・カラー並み或はそれ以上になってしまったのである。
今日、UAWはカナダ、プエリトリコも統合し、全地区に亘って約800の地域オフィスを設置し、2000人の常勤職員と3000人余りの契約交渉人を抱えている。

交渉で獲得した高賃金は必然的に製品の価格に反映し、アメリカ製自動車の価格は年々値が上っていった。

作業エレジー

チャプリンの『モダン・タイムス』をご覧になった方ならご存知だろうが、あのスパナーを唯一の工具としてベルト・コンヴェイァーで働く工員チャップリンと同じで、自動車の組み立て工場で働く一日は8時間前後というもの、同じ作業の繰り返しで、気が狂うとまでいかなくても、心理的な鬱病になる恐れは充分にあるし作業に飽きることもありミスも起こす。特に休み明けの月曜日にはそうしたミスがしばしば発生するので「月曜に完成した車は買うな」といった陰口が囁かれたものだ。(上は旧GM本社ビル)
人件費がかさみ非能率的な工員たちの問題を解決するために、ここでロボットの登場となる。経営者にしてみれば高価な投資だが、長い目で見ると、ロボットの作業は正確で同じ動作の連続でも鬱病にもならないし不平も言わない。そして何よりも良いことは、給料を支払う必要が全くないことだ。

経済摩擦とジャパン・バッシング日本叩き]
前稿で述べた1973年の第一次オイル・ショックの後、経済小型車の波がアメリカに押し寄せてきた。アメリカ車の値上げされた価格と、比較的安価だった日本車の性能向上が相乗効果をあげ、アメリカの消費者は徐々に日本車に乗り換えていった。(左は、フォード二世が建て、後年GMの手に渡ったビル群)

1980年の初頭、GM、フォード、クライスラーのビッグ・スリーは、夫々2つの顔を持っていた。
表の顔は、アメリカ車を日本の市場で売りたいが、日本政府の制定した輸入規定が厳 し過ぎるのは不公平であると公けに抗議し続けていたことである。ヘンリー・フォード二世(Henry Ford Jr. 創始者ヘンリーの孫)と、クライスラーの会長に移籍したリー・アイアコッカ(Lee Iacocca)の二人が『日本叩き』の先鋒だった。

別の顔は裏腹で、車の価格を抑えるために日本製の部品を購入して自社の車に取り付けていた。フォードは東洋工業の株を買い占めていたし、クライスラーは三菱からエンジンを仕入れていた。しかもアイアコッカは、クライスラー再建のためにという名目で、債務になっていた三菱への支払い金を無期の棚上げにしてしまった。GMは後に、いすず、トヨタ、すずき各社と緊密に提携している。

いずれも日本政府を公然と非難する資格はなかったのである。

また仮に日本の輸入規制が緩和されたとしても、アメリカの車は日本では売れなかったであろう。というのは、先ず高過ぎること、大型過ぎて日本の道路で操作し難いこと、左ハンドルを右に変える手間を省いていたこと、そしてアメリカの何倍ものガソリン代を支払っていた日本の消費者にとってアメリカ車は『ガソリン垂れ流し』の悪評判が高かったことなどである。 東京にGMの海外販売部門があり、それでも一年に400台位は売れていたようだ。どんな日本人が酔狂にアメリカ車を買うんだと疑問に思うかも知れないが、多分映画スターとかギャングとか派手な職業の400人が乗り回しているのだろうという噂だ。

悲哀のレイオフ
アメリカの自動車会社は、車が売れなくなると操業を短縮し、それに伴って工員達を休職させる。彼らの収入は途絶え、失業保険に頼るのみ、月賦の支払いに追われて貯金などないから生活が苦しくなる。その反面、経営陣の上に立つ会長とか社長は百万ドル単位の年俸やボーナスを受け取っている。レイオフされた工員たちの鬱憤は想像に絶する。アメリカ車の品質低下を忘れ、売れている日本車に逆恨みがこもる。鬱憤が溜まっている組合員が組合の集まりに出かけ、たまたま駐車場に日本車を見かけて怒り心頭に達し金棒か何かでその’車を叩き壊していまう、といった事件がしばしば起こった。

1982年のある晩、デトロイトのバーでやけ酒をあおっていたレイオフの工員がいた。そこへ来合わせたのが中国系アメリカ人のヴィンセント・チン(Vincent Chin)、鬱憤工員は、チンを日本人だと思って絡んだ。その挙げ句、工員は手元にあったバットでチンを撲り殺してしまった。工員は逮捕されたが裁判で無罪の判決となり他州へ引っ越してしまった。収まらなかったのがデトロイト周辺の中国系米人社会だったが、日系人始めアジア系アメリカ人が援助団結して再審を要求した。残念ながら今もってこの事件は未解決のまま燻っている。(続く)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

栄枯盛衰と言いましょうか、諸行無常と言いましょうか、自動車業界ほど混沌として競争の激しい業界は他に例がないでしょうね。