2009年1月26日月曜日

ご冗談(冗句)でしょう

[編集から:人種をテーマにしたジョークには「なるほど」と思わせる穿った発想が見られます。でも実際にはどの国の人々も10人10色、ステレオタイプという一つの型で代表させることには無理もあり偏見を生む危険もあります。敢えてその危険を侵して下記のジョーク集を公開いたします。作者のウイットに敬意を表し、読者の見識を信頼して。]

北村 隆司(きたむら りゅうじ);ニューヨーク市
2008年に世相比較学会で発表したものを再録

「日本人は周囲の目を気にしすぎる」とよく言われますが、その割に外国人を知らず、又、外国人同士がお互いをどの様に見ているかについても、関心が薄いのではないでしょうか?今回はジョークを通して、日本像と世相の変化を探ってみました。
 
来世の役割をずらすと天地の大違い
天国の役割分担:フランス人のシェフ、イギリス人の警官、ドイツ人の機械工、スウェーデン人の行政官、イタリア人の恋人。
そして、この国名をちょっとずらすと:
地獄の役割分担:イギリス人のシェフ、ドイツ人の警官、フランス人の機械工、イタリア人の行政官、そしてスウェーデン人の恋人。

日本人の来世は噂にも出てきません。

男の理想
世界で一番幸福な男:アメリカの給料を取り、中国の料理を食べ、イギリスの家に住み、日本人の女房を持ち、スイス人の会計士を雇い、イタリア人の恋人を持つ。
世界で一番不幸な男:中国の月給で生活し、イギリスの料理を食べ、日本の家に住み、アメリカ人を女房にして、スイス人の恋人を持ち、イタリア人の会計士を雇う。

日本の実像が世界の世相に反映されるには時間が掛かります。戦後最も強くなったものとして、絹からナイロンに変ったストッキングと日本女性が挙げられて数十年経つと言うのに!(上の写真はニューヨークの国連本部)

スープに蝿が入っていたら?
ドイツ人:「充分に殺菌されている」と冷静に考え、蝿を取り除いてからスープを飲む。
フランス人:スプーンで蝿を潰し、出汁をとってからスープを飲む。
中国人:問題なく蝿をすくって口に入れる。
イギリス人:スープを飲まず、ウエーターに皮肉を言って店を出る。
ロシア人:酔っ払っていて、蝿が入っている事に気が付かない。
アメリカ人:ボーイを呼び、コックを呼び、支配人を呼び、あげく裁判沙汰にする。
日本人:周りを見回し、蝿が自分にだけ入っている事を確認して、そっとボーイを呼ぶ。
韓国人:蝿が入っているのは日本人のせいだと叫び、日の丸の旗を焼く。

この様なジョークは、先入観や固定観念を持っていないと通じません。逆に、これ等のジョークが通じた方は、先入観を持っている事になります。
 

戦後日本の繁栄は、世界の世相にも影響を与え、外国での日本像は『フジヤマ』『芸者』『安物玩具』の国から『高度技術』『物価高』『勤勉』の国へと変りました。

技術水準
日本では、気密性のテストとして猫を一晩クルマの中に入れ、次の日、猫が窒息していれば気密性は充分だと判断します。
ロシアでは、猫を一晩クルマの中に入れ、翌日も猫が車の中に居れば合格です。

品質管理
或る大企業が「不良品は千個に一個以下とする」という条件をつけて、アメリカと日本の業者に部品を発注しました。間も無くアメリカの業者から「不良品を千分の一に抑える事は大変厳しい条件です。納期を延長して下さい」との要請があり、一方、日本の業者からは「作業は順調に進んでいます。ただ、不良品の設計図が届いていません。至急ご送付下さい」と要請してきました。

物価高
東京の喫茶店でコーヒーを頼んだ外国人が、一杯10ドル近くの請求書を見て「普通の国の強盗は、頭にストッキングを被るが、日本の強盗は、足にストッキングしている」と慨嘆して呟いた。

勤勉
アメリカの大学の期末試験で、留学生の鈴木は合格したが、アメリカ人のジョンは不合格だった。ジョンは言った。「試験に合格するように、聖母マリア様にロウソクの火を灯してお祈りしたのに!」それを聞いていた鈴木が「僕もロウソクを灯していたけどね」と言った。「君達日本人も、聖母にロウソクを灯すのかい?」「そうじゃないよ。ロウソクを灯して徹夜で勉強したんだ。」

猛烈社員
アメリカに赴任してきた若手社員に、現地の上司が「明日から週六日、一日12時間は働いて貰う」と宣告した。それを聞いた若手社員は憤然として「はるばる日本から来た私に、パートタイムの仕事をさせるなんてあんまりです。」
サービス残業と言う言葉が無い頃のお話です。

1980年代半ば迄は、日本を畏敬するジョークが圧倒的でした。その頃、先進各国の対日貿易赤字が天文学的な数字に膨らむ一方、日本は行政指導を通じて実質的閉鎖性を強めました。結果として、日本人に対するイメージは「ずるい」「信用できない」「一人よがり」「利己主義」「アンフェアー」へと急速に悪化し、こんなジョークも登場しました。

一石三鳥
我々アメリカ人を「怠け者」「欲張り」「文盲」呼ばわりする日本人から売られた喧嘩は買わねばならない。日本が品質管理やハイ・ディフィニションTVで、我々より優れている現状を逆転するには、日本の弱みを突いてアメリカの強みを生かすしかない。

その秘策とは、我が国メーカーが得意とするLEAD-TV(Low Emission And Definition Television) をアメリカの標準規格として採用する事である。

規格に合格するためには、高価で、静電気の雑音が高く、壊れ易く、画像が頻繁に乱れる条件をクリアーしなければならない。アメリカの得意とするこの種のTVは、日本人労働者に作る事は出来ない。又、この種TVの製造には、日本メーカーは膨大な資金を投じて設備を改造し、部品を大量にアメリカから輸入する必要に迫られる。GMやFORD等の経営トップや労働者、有名大学の教授など、多数のアメリカ人を日本に送り込み、粗悪品の製造ノウハウを教える必要もあろう。この規格の採用で、アメリカの貿易不均衡と失業問題を同時に解決出来る。


画像が不鮮明で、高価で故障が多いTVが出回れば,子供達のTV離れも起こり、教育水準の向上にも役立つ。理想的には、アメリカの弁護士を日本に派遣して、訴訟癖を日本に輸出できれば、アメリカの再興は間違いない。

至難の業(顔の見えない日本外交を揶揄して)
國際会議において有能な議長とは、インド人を黙らせ、日本人を喋らせる者である。(右写真は国連の円卓協議会)

交渉妥結
日本との交渉妥結とは、次の交渉が始まる前の日本的儀式である。

現在も進行中の米国産牛肉交渉の日本政府の姿勢に、北朝鮮の6カ国交渉姿勢とダブらせて想像してみて下さい。

バブル破裂後は、日本人として素直に笑えるジョークがめっきり減りましたので、失われた10年を飛ばして、最近のジョークに眼を向けますと:

省エネ精神
省エネに熱心な日本人が、自分の住む家をようやく決めた。なかなか決まらなかった理由は、街灯が窓の直ぐ傍にある家を探していたからだった。

もったいない精神
寒い日に、日本人はどうする?ローソクの周りに集る。
もっと寒い日にはどうする?ローソクに火をつける。

知財権(中国の反論)
知財権問題を巡って、米中トップ会談が開かれた。中国側は、知財権侵害の張本人は米欧先進国で、中国は被害者だと主張した。特にアメリカの違反が図抜けて多い証拠として、火薬、紙、印刷物の膨大な消費量を挙げ、中国はこれ等の知財権料を貰っていないと抗議した。

ノーハウ時代
アメリカの工場で機械が故障した。如何にしても原因が判らないので日本人技師の力を借りる事になった。優秀な匠として有名なその技師が暫く機械を眺めた後、数ヵ所をハンマーで軽く叩くと機械は元通りに動き始めた。日本人技師は修理代として500万円の請求書を出した。工場長は腰を抜かすほど驚いて「機械を数回叩いて500万円は高すぎる。明細を教えて欲しい」と抗議した。日本人技師は何も言わず、内訳を差し出した。それには、『叩き代1000円、叩き場所捜索技術料499万9千円』と書かれてあった。

規則のあり方
(前提として)
ドイツでは、禁止されている事は禁止される。
イタリアでは、禁止されている事も時には許される。
ロシアでは、許されている事も時に禁止される。
イギリスでは、禁止されている事も、許されている事も、明確に示されてない。

一昔前の総理(さあ誰でしょう)が「悪法も法なり」と豪語した点でドイツ的。禁止されている事も、相手によって時に許す点でイタリア的。騒がれると、許されている事まで禁止する点でロシア的。事件が起こると「検討中です」と答える点でイギリス的。この様に、規則のあり方に各国の特徴を取り入れた日本は、間違いなく国際国家です。

逮捕の理由
 東京本社に勤務する、フジヤヴィッチ氏は、いつも始業時刻の10分後に来るので、とうとうKGBに逮捕された。容疑は『怠慢』であった。
彼の札幌工場の同僚、シロチョコスキー氏は、何時も始業時刻の10分前に来るのだが、ある日KGBに逮捕された。容疑は『西側のスパイ』であった。
三重工場の、アカフクノワ嬢は、いつも始業時刻ピッタリに来るのだが、ある日KGBに逮捕された。容疑は『日本製の時計を持っているに違いない』であった。

消費期限は兎も角、風味にまで法律が介在する日本は、KGBに代表されるソ連の権力志向に似ています。

世界のジョークの収集家である大場元財務官は「優れたジョークが生まれる為には、強い権力と、優れた異端の英知が必要だ」と言われました。その点、日本の川柳の源泉は何なのでしょうか?不思議な気もします。

■ サラ川は世相と本音の早見表
■ 2メートル先の席まで15年
■ 不惑とはワクワク感のないことか
■ 父は胃に息子は耳に穴を開け
■ 「課長いる?」返った答えは「いりません」
■ タバコより体に悪い妻の愚痴
■ リストラも労災ですかと聞く社員
■ デジカメのエサはなんだと孫に聞く

短い言葉で、ユーモアとペーソスたっぷりに世相を表現し「サラ川は世相と本音の早見表」その物です。難点は日本の世相が余りに特殊過ぎて、外国人には殆ど理解できない事でしょう。最後に、大場氏の著書から示唆に富んだジョークを拝借しておきます。

予習、先入観、過大な期待
ある大学の医学部の講義で、教授が学生に質問をした。

「人間の身体の部分で、状況によって6倍の大きさになるところは?」
誰も手を挙げないので、教授は最前列に座っていた美人の女子学生に答えるよう促した。彼女は真っ赤になってうつむいてしまった。「誰か、わかる者はいないか?」
後ろの方の男子学生が立ち上がって答えた。「教授,其れは瞳孔です。」
「良く予習して来たね」教授はそう彼を褒めた。教授は教壇に戻る途中、先ほどの女子学生の前で足を止め、
「君に言っておきたい事が三つある。
第一に、私の授業に出る時は予習をよくしてきたまえ。
第二に、先入観を持つのは良くないことだ。
第三に、過大な期待を抱くのは、もっとよくない事だ」と諭した。

このジョークは、日本の教育問題の根幹に触れただけでなく、デリケートな問題を想像させながら、品の悪い言葉が一つもないと言う点で『品格』のあり方の勉強にもなります。

 バブル時代、拝金国と嘲笑された日本の国家像も変り続けます。一日も早く、日本に憧れ、日本を尊敬するジョークが復活する事を祈稔して、2008年の世相比較学会の年頭レポートと致します。
                  北村隆司

註:私が初めて『多民族ジョーク』に触れたのは、1965年頃にニューヨークで購入した『RACE RIOT』という漫画入りジョーク集でした。当時『国際的先入観』に乏しかった私には、半分も理解できなかったものです。本レポートは、私が書きとめてきたジョークに、大場氏の『ビジネス・ジョーク集』や早坂氏の『日本人ジョーク集』、第一生命の『サラリーマン川柳』などを参考にして纏めたものです。北村

経済危機の禍根:その6 『消費』

消費は美徳なりや?
高橋 経(たかはし きょう); ロスコモン郡ミシガン州
 2009年1月28日

『セールスマンの死』が暗示したもの

「一生に一度でいいから、何か真っ当な器具を持ってみたいよ。私が頼りにしている足代わりの車は、いつでも月賦の支払いが終る頃に故障で動かなくなってジャンクヤード行きだ。冷蔵庫のベルトは始終切れるんで度々取り替えなきゃならない。奴らは計算しているんだ。奴らは月賦の支払いが終る頃に機械が壊れるように計算して作っているんだ。」

これはアーサー・ミラー(Arthur Miller)が、今から60年前の1949年に書いた劇作『セールスマンの死(Death of a Salesman)の中で、初老のセールスマン、ウイリィ・ローマン(Willy Loman)がぼやく独白である。この芝居は、エリア・カザン(Elia Kazan)が演出し、ニューヨーク市45丁目のモロスコ劇場(Morosco Theatre)で2月に公演を開始、上演742回という記録が残っている名作で、その年内にニューヨーク、ドラマ批評家サークルから最優秀劇作の折り紙が付き、ピュリッツァ劇作賞(Pulitzer Prize)と、トニー最優秀劇作賞(Tony Award)も受賞した。
余談になるが、その3年後に映画化されフレドリック・マーチ (Fredric March)が、更に1985年、未だ若かったダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)が、夫々
ローマンを演じて好評を博している。

このドラマの評判はさておき、ローマンの独白の中に2つの問題が提起されている。

一つは『計画的な製品寿命』が巧まれていたたかどうか、単純に判定を下す軽卒は避ける。しかし『物』が売れることによって製造会社は利益を上げ、社員に適正な報酬を支払うことができ、皆が豊かな生活が営み、従って各種の小売店は商品を売り捌いて利益を上げ、、、といった消費経済システムが円滑に循環し、今日までアメリカ社会の経済が
運営され繁栄を享受してきたことは確かである。これがアメリカの繁栄と信じられ『消費』が奨励され『消費は美徳』という言葉さえ広まった源点となる。

もう一つは『月賦販売と月賦購入』の普及である。『物』を買うのに現金が無くても『信用』で手に入れることができるシステムが、1949年には既に定着していた。これがエスカレートして、今日では毎日の食品から器具、家具、そして土地家屋に至るまで『クレジット』で購入できるような経済社会になった。

この2つの現象は表裏一体で、アメリカ人の日常生活で自然な習慣となったことは手放しで喜べることではなく、いとも危険な習慣だったのである。その結果、、、消費者は月賦の払い込みに追われ、高い利息を払わされ、銀行は膨大な利益を上げている。


『消費』の説得
『セールスマンの死』が公演されたのと時代を同じくして、この消費経済の危険性を丹念に調査していた一人のジャーナリスト、ヴァンス・パッカード(Vance Packard)が、世間に警鐘を打ち鳴らしていた。彼は処女作『(結婚)相手の見付け方(How to Pick a Mate)』1946年;次に『動物の知的水準(Animal IQ)』1950年;に続いて1957年に問題作『隠れた説得者たち(Hidden Persuaders)』を発表した。 『隠れた説得者たち』で、パッカードは社会学的な見地から、新聞や雑誌広告をより効果的にアピールさせるために裏付けとなる消費者の購買動機の調査をはじめ、心理的な分析、さらに深層心理の分析、潜在意識を利用した販売計画などの実体を余す所なく叙述した。 といっただけでは、一体何が書いてあるのかさっぱり掴めないであろう。このスペースで、230ページに及ぶパッカードの報告を詳らかにすることは無理なのでその一部をご紹介する。

例えば洗剤の効率について家庭の主婦を対象として3種の洗剤パッケージを与え、夫々の洗浄効果を試用させた。
その結果、主婦たちの報告によると:全体に鮮やかな黄色の第一のパッケージの洗剤は強過ぎ、全体に濃紺の第二のパッケージの洗剤は汚れが残ったが、紺色が基調で黄色いアクセントがある第三のパッケージの洗剤は「良好で」「素晴らしい」効果があった、という一致した採点がもたらされた。実は、3つのパッケージには全く同じ洗剤が入っていたのである。これで洗剤の効果はパッケージ、デザインの印象で決められる、という確証を得た。

例えばタバコの選択について:マールボロー(Marlboro)というタバコをご存知だろうか。メーカーのフィリップ・モリス社(Philip Morris)は、当初女性の喫煙者を対象に宣伝発売したが余り振るわなかった。そこで作戦を変え、野性的な男のイメージを代表するカウボーイの写真を全面に、一連の『マールボロー、カントリー(Marlboro Country)』シリーズの広告を投入した所、販売が爆発的に上昇した。これでタバコの購入動機はイメージが最優先する、という確証を得た。

例えばオープンカー(convertible)の印象について:大方の男性
『愛人(mistress-秘めた恋)』を連想する、という確証を得た。

例えば或る人が発明した『毛生えぬ薬』の販売の可能性について:毎朝ひげ剃りの手間が省けるであろうという思惑は外れた。大抵の男性はひげを剃る行為によって、男性優位の気分を味わっている、という確証を得た。

消費者にツケが廻る宣伝費
こうした例の数々が満載されていた『隠れた説得者たち』は、長期に亘ってベストセラーを続け、間もなく日本語に翻訳されベストセラーを記録した。ただし著者のパッカードは、序文の最後に「この本が、一般大衆の鑑識眼を強化するのに役立てば幸い」と趣旨を強調している。

皮肉にもこの本の核心を熱狂的に評価したのは一般大衆ではなく、企業の経営者や宣伝広告の専門家たちだったのだ。かくして、調査技術は年々向上し洗練され「売らんが為に消費を奨める」熾烈な宣伝販売作戦が巧妙に消費者を『説得』し続けてきた。

宣伝費の予算総額に関する限り、自動車会社は常にトップに立っていた。しかしその販売高との比率となると、一割前後と他の業界より低い。

それに勝るとも劣らない莫大な宣伝費を計上しているのが日常生活用品メーカー、プロクター・アンド・ギャムブル社(Procter and Gamble)である。販売高との比率は30パーセントとなる。言い換えると小売値3ドルの歯磨きを買うと1ドル近くの宣伝費が含まれていることになる。

薬品、化粧品となると、その比率は更に高く、小売値の半分以上が宣伝費だと言っても過言ではない。昔から「薬九層倍(くすり くそうばい)」と言われるように薬販売の利益は洋の東西を問わず莫大である。

大きなスーパーマーケットのチェーンになると、安価な『自店ブランド』製品を『有名ブランド』と並べて陳列している。多くの購買者は、『高価』で『有名』な商品の方が優れている、という先入観で有名ブランドを選ぶ。これは『宣伝』の功罪である。実際には『自店ブランド』と『有名ブランド』の間に品質の差は殆どない。

『使い捨て(disposable)』商品で消費を増大
出費をする側にとって、車とか家財道具は大きな出費だが、一旦それらが整うと、長期間は安泰でいられる。それに比べ、インスタントや缶詰、パッケージ詰めの食料品、ペーパー・タオル、ボールペン、割り箸、その他あらゆるプラチック製品に投ずる出費は目立たないだけに消費者は無思慮に購入する傾向がある。『使い捨て』商品はメーカーにとっては最も有効にして継続した収益源になる。
ただし、プラスチックは永遠に分解しないから環境破壊の元凶の一つに挙げられている。最近では毒性さえ発見されている。要注意!


電化製品は1960年頃までは『耐久商品』だった。ラジオ、テレビに真空管が使われていた頃は、切れた真空管を取り替えれば生き返った。どんな真空管でも近所のドラッグ・ストアで簡単に購入できた。ラジオ修理店も商売として成り立っていた。電化製品の構造がハイテクになるにつれて修理費も高騰し、しばしば新製品を買った方が修繕するより安上がりという『使い捨て』商品に転身した。こんな体験は誰でも一度はしている筈だ。これはメーカーにしてみれば思うツボで、保証期間を延長させて別途の料金を徴収する仕掛けになっている。

テレビと言えば、来る2月17日以降、全国一斉にアナログからデジタルに切り替えられる。これは一概にメーカーの陰謀とは極め付けられないが、まだ立派に使える従来のテレビ受像機でも遠からず葬り去られる運命にある。

『アップグレード』という名の販路拡張戦略
1950年前までは78回転のレコードが一般に定着していた。その後、45回転のドーナツ盤と33回転のステレオLPレコードが主流となり、暫くは3スピードのプレーヤーで満足していた。1980年代には、デジタルCDがアナログ・レコードを完全に追放してしまった。今日では、そのCDもMP3とかiPodなどの出現で絶命の一途を辿っている。その都度我々は新しいシステムに見合った器具を買う羽目になる。

パソコンが出始めた1983年頃は『メガバイト(MB)』、『ハード・ドライブ(HD)』という言葉は無かった。性能は急速に向上し、2003年頃までの20年間、消費者は半年に一度は『アップグレード』を余儀なくさせられていた。今では『ギガバイト(GB)』を通り越すほどの記憶量を競っている。この傾向は消費者にとっては恩恵で、性能が飛躍的に向上したにも拘らず、価格が初期の半値以下になったからだ。それに消費者レベルのソフトもハードも充分に満足できる性能に達したので、しばらくは『アップグレード』する必要はないであろう。

消費者の満足は皮肉にもメーカーの販売不振につながり、最近ソフトの巨大企業マイクロソフト(Microsoft)やインテルは業績が悪くもないのに事業を縮小した。コンピューターやハイテク・メーカー達の試練はこれから厳しくなるであろう。


『消費』は悪徳

『消費』が美徳か悪徳か、利益を追求するメーカー側にしてみれば『消費』は必要欠くべからざる『美徳』であろう。購買者の側にしてみれば「お買いなさい、お得ですよ」という甘い宣伝文句の連呼に説得されて、要りもしないモノを衝動的に買ってしまう誘惑という『悪徳』に敗れる。
我々は今後も衣食住の面で必要程度の消費は免れない。衣類は古くなれば着るに耐えなくなるだろう。食料は生命と健康を保つに必要なだけ消費せねばなるまい。住居は住み心地を快適に維持しておかねばなるまい。

だが、無駄な出費は慎むに越したことはない。
もし無駄遣いがしたくなったら、その分、世界中で争いや飢えに苦しんでいる人々に恵んであげる余裕を持てば、自らも救われるであろう。

日本には古来から伝わる『質素倹約』という誇るべき美徳があることをお忘れなく。

(告白:1953年頃『隠れた説得者たち』を初めて読んだ時、著者の意図に気が付かぬまま宣伝広告の世界に傾倒し没入し、以来40年余り消費者を惑わす作業に熱中してきた。いささか遅過ぎた感はあるが、深く反省し、その過去の償いをしたいと心掛けている今日この頃である。)
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この稿で『経済危機の禍根』シリーズは一旦終了いたします。

2009年1月23日金曜日

経済危機の禍根:その5

北村隆司(きたむら りゅうじ):ニューヨーク市
2008年12月26日


アメリカを金融危機に陥れた犯人は誰だ?

社会を揺るがす事件の後、犯人探しが始まるのは時代や国境を越えた人間社会共通の性癖である。米国では上下両院揃って、次々に証人を呼び出し激しい聴聞を続けた。この公聴会は毎回4-8時間続き、充実した議会スタッフを駆使して調べ上げた証拠に基き、言動の矛盾を突いたり、犯罪性の有無を厳しく問う内容は迫真に迫るものであった。議会聴聞会を公開し、全米にTV放送するアメリカの透明性は日本も見習うべきであると思う。

ブッシュ政権はイラクの侵略で始まり金融危機を世界にばら撒いて退任した。長い、無駄な8年だった。金融危機の犯人として、多くの人が金融派生商品を挙げるのはアメリカも同様である。まさか100年に一度と言われるほど大きな問題になると予想した人はウォレン・バフェット(Warren Baffett)以外危機の起こる直前でも殆ど居なかった。

世界一の富豪バフェットは、2002年の株主報告書で「今でこそ隠れた存在になっているが、急増しつつある金融派生商品は将来金融の大量破壊兵器として壊滅的な被害を及ぼす可能性を秘めている」と警告し、派生商品には一切手を出さないと宣言した。巨額な資本を運用しながら、永年に亘って株主に年間20%以上の利益をもたらしてきた名投資家が、世界に516兆円を超える損害をもたらした派生商品の危険を、6年も前から予見した重い発言である。

テレビ局も工夫を凝らした犯人探し番組を制作し、CNNは『金融危機を引き起こした10大容疑
者リスト』を作り、夫々の罪状を詳報した。この番組で挙げた個人犯のトップ5は、大損害を世界にばら撒いた人物でありながら日本での知名度は極めて低い。

  
1 ジョセフ・カッサノ(Joseph Cassano)AIGの金融商品事業本部長:CDSを乱発して会社を国の管理下に追い込んだ張本人。10数年間でAIGから得た報酬は300億円を超え、責任を問われて退職した後も月額1億円強の顧問料を受け取り、議会で大問題となった人物。

2位 リチャード・フルド、リーマン・ブラザース会長(Richard Fuld; CEO Lehman Brothers):倒産したリーマン・ブラザースで永年に亘り君臨した億万長者。リーマンから得た2007年度の報酬額は50億円を超え、リーマンの倒産で失った個人資産は600億円を遥かに超える。

3位 クリストファー・コックス現証券取引委員会委員長(Christopher Cox; Chairman, The Security and Exchange Commission):南カリフォ
ルニア大学からハーバード,ロー・スクール(Harverd Law School)とビジネスス・スクール(Business School)を同時に卒業した秀才。弁護士から下院議員を経て委員長に就任、アメリカ証券委員会は警察力も持つ強力な機関でありながら、規制を嫌うブッシュ政権の意向を受けて放任政策を行ったと集中砲火を浴びた。

4位 フィル・グラム前期テキサス州選出共和党上院議員(Phil Gramm; formerly Republican Senator of Texas):徹底した規制反対派。経済学者でもある同氏は上院議員時代の影響力も強く、放任行政の影の責任者といわれる。

5位 アラン・グリーンスパン前連銀総裁(Alan Greenspan; formerly chairman of the Federal Reserve Bank):1987年から2006年迄の20年近く連銀総裁を勤め、インフレを防ぎながら米国の成長の舵取りをした神格的連銀総裁。議会で危機の責任を追及され、金融政策の正当性を主張しつつ『ベスト・アンド・ブライテスト(学校成績が最高の俊才)の集る金融界を信用していたが、これ程強欲に走るとは思わなかった。規制無用論の信念は揺らいだ』と証言した。

組織として指名された5大犯人は
  • 1位 證券取引委員会(The Security & Exchange Commission)
  • 2位 連邦準備銀行(アメリカ中央銀行: The Federal Reserve Bank; The Central Bank Autonomy) 
  • 3位 米連邦住宅抵当金庫及び米連邦住宅貸付抵当公社(The Federal Home Loan Mortgage Corp. & Federal National Mortgage Association)
  • 4位 格付会社(The Credit Ranking)
  • 5位 アメリカ国民(過剰消費の罪)

今後は如何するべきか?松下幸之助の崇拝者である私は、経済の新秩序は企業理念の見直しから始めるべきだと考える。1932年に翁が『産業人の使命』として述べた経営理念、世に言う『水道哲学』で:

「社会の公器である企業は、広く満天下から人と物と金を預かっている。本来社会のものである人、物、金を預かっている限り、あくまで社会と共にある。
この意識を忘れて企業だけの独走は許されない。松下電器の経営の基本は、社会の公器として広く社会に奉仕し、貢献する事を第一義とする。産業人の使命は、社会より貧を救ってこれを富ましめる事である。宗教、道徳による精神的安定に加えて、例えて言えば、水道の水の如く、安価にして無尽蔵な物資の供給を行う事により、初めて人生の幸福が実現する。」 

と述べられた。幸之助翁と投資王のバフェット氏の企業理念が殆ど一致していると言う事実は興味深い。グローバル経済は当然の時代の流れだが、ビジネスモデルが効率一辺倒に傾き、理念が欠如していた事が今回の危機の根底にある。常識を無視して知識やデータを過度に重視し、理念を担保する規準も法律も無かった事も混乱に拍車をけた。グリーンスパン前連銀総裁が反省したように、自主規制だけでは機能しない。しかし、経済活動を法律や規制で強化するやり方には所詮無理がある。規制は最小に抑え、國際規準の強化を選択すべきであろう。

緊急に具体化を検討すべき項目として、
  • 金融派生商品[定義で揉める事は確実だが]の取引は相対取引は禁止して取引場経由とする事。
  • 先物を含め、実物取引以外の取引には全て「取引税」を賦課する。
  • 所有権の変換を伴わない空売買には「取引税」に加え、証拠金を引き上げる。
  • 金融機関はグラス・ステーガル法(The Glass-Steagall Act)以前に近い状態に戻し、綜合金融サービス業モデルを見直す。
  • 格付け会社が證券その他財務商品の発行企業から所得を得る事は禁止。
  • 格付け方式の大幅見直し(松下経営理念に沿い、企業は株主の私物ではなく社会の公器と言う立場から夫々のステークホールダー(Stakeholder)への貢献を評価し、投機度も公表する)。結果として時価評価は大幅に変り、中国やインドなどの企業の評価も環境に対する評価が低いと時価が下がり、外資の導入の壁が高まる)。
  • 経営者の報酬審議会のメンバーは、公器としてのステークホールダーの代表者をもって構成する。但し、原則として政府や公的機関の代表は除く。
  • ペンション・ファンド(Pension Fund)等、不特定多数の人間の資産を預かる機関が、ヘッジ・ファンド(Hedge Fund)等の投機性の高い企業へ投資は原則禁止。
  • 租税回避地との全ての取引(財の移動)に各国が平衡税を賦課する國際協定の締結。
  • レベレッジの上限設定の國際協定の締結。

、、、等を考えながら2009年を迎えた。

日米の金融危機ーー他人依存か、独立自尊か?

先進各国が必死に戦っているというのに、日本はいまだに「米国発の危機のとばっちりを蒙っている」と他人事の様な評論が聞かれる現状は残念だ。つい数ヶ月前に資源高で商社や鉄鋼メーカー等が史上最高益を更新し、自動車メーカーが米国市場の好業績で潤った事も米国の過剰流動性の恩恵だった事を忘れるべきではない。

100年に一度と言われる危機の最中、毎夜レストランやバーで駄弁りまくる首相の動静を新聞で読むにつけ「睡眠時間を削って金融危機対策に没頭している」と次期財務長官を息子に持つ知人の話を聞いて、私はアメリカを羨ましく思った。日本の国費の無駄遣いや政治の無策は恥ずかしいレベルを疾っくに超えている。政策を忘れ、政局一辺倒の日本の政治制度が生み出したのが『定額給付金』や『派遣労働者法』と言うお粗末な愚作である。

然し、日本にもボランテイアー運動に触発された国民の政治への参加と言う希望が見えて来た。「阪神、淡路対震災」が発祥した1995年の1月17日が『ボランテイア元年』として新しい日本の夜明けになったのかも知れない。
天災の被災者支援活動が主であったボランテイアー活動が、人災にも動員されたのが今回の特徴である。『年越し派遣村』を組織したNPO(Non-Profit Organization)法人の湯浅事務局長は、竹中の「日本には絶対的な意味での貧困は存在しない」という発言に噛み付いて有名になったが、ミクロの湯浅、マクロの竹中とは視点が違うだけで二人の考えは案外共通の様に感ずる。是非、鳩首協議して具体的な提言をして欲しい。

OECD (Organization for Economic Co-operation and Development)の國際比較統計を見ると日本の経済環境は最悪で、累積債務はGDP (Gross Domestic Product)の171%で断然トップ、法人税は世界最高率、生産性は最低、一般会計の数倍に及ぶ透明度ゼロの特別会計など雇用と経済の阻害要因が続く。これが日本の対外評価を低くしている要因だ。法人税減税による雇用増、所得税減税に依る消費拡大は先進国の常識である。定額給付金は中止して、緊急雇用対策に廻し、早急に再生可能エネルギー技術開発などの新時代インフラに財政出動させ、本格的な長期経済浮揚対策を講じて欲しい。

世界的な危機に直面する度に欧米先進国に引き離される日本の立ち遅れを見ることは辛い。今回の経済危機を機会に経済、財政、金融、税制など日本の本質的な改革と永続的経済政策を策定する事を期待して止まない。

勉強も努力もせず、政局一辺倒の日本の政治制度が生み出した危機対策の目玉商品が、定額給付金では情けなさを通り越して憤りさえ感ずる。

日本はバブル景気の破裂で、硬直した社会制度の弱さを学んだはずだった。それにも関わらず
危機の理由を他人の所為にしている限り、将来の危機を防ぐ事は出来ない。

薬剤と金融工学商品のデリバテイブは功罪半ばする点が共通だと思う。薬品が売り出されるまでの過程と金融工学商品のそれとは臨床試験の厳重さに大幅な違いがある。
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次稿は、『消費は美徳?』をお伝えします。

2009年1月22日木曜日

『見えざる手』:メーカーの栄冠と損失


村瀬 収(むらせ おさむ)、名古屋市

[筆者は自動車部品メーカー勤務、元エンジニア、ミシガン州駐在5年、現在本社勤務で名古屋在住。]


「百年に一度」と言われる経済不況の真っ只中で、その影響をもろに受け、大苦境に直面している自動車産業の末端に身を置く者として、雑感を述べさせていただきます。一昨年のサブプライムから端を発した金融危機と経済不況の波は、昨年秋のリーマン・ショック(Lehman Shock)で堰を切ったように全世界を駆け巡り、そしてあっという間にここ日本にも襲いかかってきました。その勢いたるや、あのバブル崩壊時の比ではなく、まさに津波に呑み込まれたような感すら受けております。2008年3月期に史上最高益を上げた自動車メーカー各社が、その翌年赤字に転落して損失計上に追い込まれるとは、一体誰が予想したでしょうか?まさに我が世の春を謳歌し、桜吹雪の中で暫し狂喜乱舞と思っていた矢先、空から舞い降りてきたのは桜ではなくなんと本当の雪吹雪で、気が付いたら厳しい冬を迎えていた、、、そんな喩えが当てはまるような状況ではないでしょうか?
この状況下、中でも独自の生産システムと優れた品質を売り物に躍進してきたトヨタ自動車にとって2008年度は、自動車の生産、販売において長年世界一の座に君臨していたGMを追い越し、ついに念願の世界一に躍り出た年でした。

そのトヨタは片手に『世界一』という栄冠を、そしてもう一方の手には2009年3月期『赤字転
落へのチケット』を同時に手渡されるという何とも皮肉な結果となりました。かつてトヨタは自社の高級車「クラウン」のコマーシャルに『いつかはクラウンに!』というキャッチフレーズを使っていた時期がありました。モータリゼーションが加速していった昭和の時代(30~40年代)に、クラウンは一般庶民にとって高嶺の花でした。それでも「今はカローラ(エントリー・カー)だけれど、徐々にステータスを上げて、カローラからコロナへ、コロナからマークⅡへ、そしてやがていつかはあのクラウンに!」

そんな夢を描くことが労働者のモチベーションともなりました。あの高度成長時代とはそんな時代ではなかったでしょうか?そんな夢を我々に抱かせてくれたトヨタもついに自らが「『世界一』のクラウン(Crown = 栄冠)を手にした悲しいクラウン (Clown = 道化師)になってしまった?」などとブラック・ジョークを浴びせるのはちょっと揶揄し過ぎでしょうか?


今回の世界同時不況に対し、政治家や経済評論家たちはその原因とその脱出策について、様々な自説を論じており、その分野では全くの門外漢の私が割り込む余地などないかと思いますが、その現場に居合わせて率直に感じることが一つあります。それを一言のフレーズで表現するならば、「見えざる手が働いた!」のではないかということです。

『見えざる手』というのは、18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミス(Adam Smith)が、著書『国富論(Wealth of Nations)』の中で著した言葉です。Wikipediaによれば「この言葉は国富論の第四篇第二章で1回使われているだけにも関わらず、非常に有名である。この文句の意味は、個人による自分自身の利益の追求が、その意図せざる結果として社会公共の利益をはるかに有効に増進させるというものであった」と書かれています。もしこの解釈が「たとえ経営者が私利私欲で企業経営して私腹を肥やしたとしても、最終的にはそれが社会全体の為になるということだ」とすると、これは俄かには理解し難いものですが、もう少し深く読むと「この世の中は市場メカニズム、つまり弱肉強食のシステムだけが全てではない。それを超越した神の見えざる手の導きによって、世の為にならないものは自然淘汰されてゆき、本当に世の中、地球全体のためになるものだけが生き残る。栄枯盛衰あるのは結局はそのような秩序が働いた結果に過ぎない」と読み取れるのです。

そこで振り返ってクルマという乗り物をよく見てみると、確かにそれは人々に移動手段としての利便性をもたらし、道さえあれば自らの思うがままにどこへでも走らせることが出来る文明の利器でありました。少なくともモータリゼーションの最中まではそうでした。ところが夢を叶えてくれたそのクルマというものが徐々に増えてきて、大手を振って街を闊歩するようになってくると、今度は色々と厄介な問題が見え隠れしてきたのです。

文明の利器が『走る凶器』と化し、加害者が又被害者にもなり得る悲惨な交通事故の増加、排気ガスがもたらす大気汚染、やがてそれが化石燃料消費、CO2排出による地球温暖化へと、クルマに起因する問題が人間社会から果ては地球規模の影響をもたらすようになっていき、もはやこれらを無視する訳にはいかなくなくなってきました。これに対し自動車メーカ各社も安全性向上、燃費向上など、人と地球に優しいクリーン(clean)[でグリーン(green)]なクルマ作りを目指してしのぎを削るようになってきました。

只、その一方でクルマの増産は続いていたのです。特にそれはBRICSと呼ばれる新興国において、即ち未だクルマという乗り物の利便性を享受していなかった国々に対し、自動車メーカー各社は我こそ先にと名乗りを上げ市場拡大に躍起になっていました。中国でのその様は、欧州の列強諸国が自らの領土を世界に広げんとし植民地開拓していった時代、又日本とて同様、満州事変以降の第二次世界大戦へと突入していったあの時代に何か酷似性を感ぜずにはいられません。

歴史は繰り返すと言います。結局、人間は勢力拡大、世界征服の野望を捨て切れなくて、それが戦争ではなく、市場競争に置き換わっただけなのです。人殺しでなくなった分だけ賢くなった、それでよしとしなければいけないのでしょうか?(と言っても、相変わらず世界各地で今も民族紛争などは続いていますが、、、。)


そこでもう一度アダム・スミスの『見えざる手』を引き合いに出します。もし自動車メーカー各社が、BRICSなど新興国に対しこのままクルマの生産、販売を猛烈な勢いで展開していったとしたら、そしてそのクルマが未だ問題を抱えたままの不完全な状態で人口14億の中国、同じく11億のインドなどで氾濫してしまったとしたら、一体地球はどうなるのでしょうか?今でさえもう既に深く傷ついて疲弊し切っている地球にそれを受け入れるだけの余力が残っているのでしょうか?いかに寛大な地球ではあっても、もうそんな余裕はありません。このまま放っておいたら環境問題はもっと深刻な事態になります。ひょっとすると、大変な天変地異が起きるかもしれません。

何故自動車メーカは真にエコでクリーンな理想のクルマが完成するまでその拡大を自粛する倫理観と勇気を持てないのでしょうか?何故性懲りもなく、我先に自社のシェア拡大に奔走するのでしょうか?そう考えた瞬間、誰かがその動きに待ったを掛けなければならなくなり、神様の『見えざる手』が働いて鉄槌を下したのでしょう。今回の世界同時不況は「人間よ、目を覚ませ!そんなに慌てるでない!急いてはことを仕損じる!」と言った神様の声、サムシング・グレートとも呼べる何か人間の英知を超えた偉大な存在による計らいでなかったのでしょうか?
そのように考えれば、今の状況は決して絶望的なことではなく、むしろ反省すべきことなのかもしれません。

自動車メーカーもこれまでの不徳を反省し、暫くは市場競争を控えて、究極のエコ・カーの開発を一刻も早く完成させれば、その暁に出口の見えない不況に光明が射し、明るい未来が見えてくるでしょう。トヨタに手渡された2009年3月期『赤字転落へのチケット』は、或いは『明るい未来へのラウンド・チケット』なのかも知れません。この業界に携る者としてそう願ってやみません。
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次は、『アメリカ金融危機の犯人は』をお送りいたします。

経済危機の禍根:その4

自動車産業、その未来
高橋 経(たかはし きょう) 2009年1月22日

[『その台頭』、『その驕りと低迷』から続く最終稿]

ビッグ3の経営方針
一言にして『利益優先の短期計画』に尽きる。経営陣は株主の顔色をうかがい、将来のことより『今期の販売成績』の線グラフの上下に一喜一憂しているのが実情である。車の売れ行きが悪くなり、在庫が増えると操業を短縮し、平然として工員を無期限にレイオフする。排気ガスの公害が叫ばれても「科学者の過剰反応」と決めつけ、都会の慢性的な交通渋滞は道路公団の管轄で自動車製造会社の責任は全くないと言い逃れる。

1973年のオイル・ショックで経済小型車を作って見せたが、日本車を含む輸入小型車の品質には遠く及ばず、1980年、石油危機が去るや否や、クライスラーのドッジ部門(Chrysler Dodge Division)からミニ・ヴァンが登場した。それまでステーションワゴン(日本ではライトバンと呼んでいる)では物足りないが、従来のヴァンでは小回りが利かない、大き過ぎてガレージに納まらない、装備が味気ない、と敬遠していた家族主体の消費者層に受けた。何のことはない、日本では既に出回っていたヴァンのサイズだったのだが、その車種は輸入禁止でアメリカ市場では皆無だった。偶然か盗用か不明だが、当時日産が製造販売していたヴァンと同名の『キャラバン(Caravan)』と名付けられた。

ドッジ部門のキャラヴァンの成功は、忽ち他社の追随を許す発端となり、フォードからアエロ
スター(Aerostar)が、シボレーからアストロ(Astro)が誕生し、『バンドワゴン』ならぬミニヴァンに乗り遅れるな、とばかりの製造販売合戦が始まった。そして、これがスポーツ・ユティリティ車(Sports Utility Vehicle: SUV)の分野に発展してブームを巻き起こしたのである。(右の写真) それまでSUVは『男臭いクルマ』というイメージだったが、逆にそのイメージが多くの女性客を魅了した。少なくともこの時期、ビッグ3の業績は安泰で、経営陣は100万ドル単位の報酬やボーナスを甘受していた。

驕る自動車メーカー、久しからず
それから20数年というものブームは続き、人々は『石油危機』という言葉すら忘れていた。2008年春、第二波エネルギー・ショックの体験は衆知の通りで、今回はガソリンの不足より、急ピッチの値上がりが消費者の懐を直撃した。SUVのドライバー達は、今更ながらその車種の燃費の悪さに愕然とした。ディーラーのショールームにあった新車、殊にSUVの売れ行きが日毎に落ちていった。それでもビッグ3の間では、間違いなく売れるであろう『電気自動車』は禁句になっていた。(下図、NEWYORKER誌から)
ブッシュ政権が退陣する間際、ビッグ3の財政状態は極端に破産寸前に落ち入り、各社の会長3人が議会に陳情して500億ドル(約5兆円)の借金を請願したニュースはまだ耳新しい。その背後でUAWがビッグ3を救うべく議会の圧力団体として控えていたことも見逃せない。それに対応した議会の面々の多くは、会長たちの請願に冷淡だった。それは、誰もが、ビッグ3の経営方針に懐疑的で将来の見込みが明確に掴めず借款が焦げ付く恐れが充分にあったからに他ならない。

短命だった電気自動車
話題は遡る。第二次世界大戦が終って以来、ロサンゼルスを中心とした南カリフォルニアは年々空気の汚染が酷くなり喘息や肺疾患の患者数が他州より群を抜いていた。1968年、堪り兼ねた州政府が『排気汚染ゼロ』を目指し、カリフォルニア空気管理委員会(The California Air Resources Board: CARB)を設立し厳しい大気汚染規制を公示した。

そんな動きを意識していたかのように、GMサターン部門(Saturn Division)の技術者グループが、量産車の計画とは別に電気自動車の開発研究に励んでいた。これはGMの技術水準が先進していることを世界に示そう、
というのが主な目的だった。研究陣は一丸となり、1996年遂に『EV1』と名付けられた完全な(ガソリン併用のハイブリッドではなく)電気自動車を完成した。(右の写真) 量産にする前に限定数だけ生産し、試験的に南カリフォルニアに住む限られた人々にリースした。その中には、人気俳優のトム・ハンク(Tom Hank)、メル・ギブソン(Mel Gibson)等も含まれていた。
電気自動車に半ば懐疑的、半ば新しモノ好きの好奇心でEV1をリースしたドライバー達は、その静かな動力、充分な加速力、単純な稼働部品、に惚れ込んだ。唯一の弱点は、160キロ毎に充電しなければならないので長距離旅行には難があった。しかしそれは現行のガソリン・スタンドのような充電ステーション網が全国に設置されれば解決する問題だった。

環境問題の解決と相俟って、この動きに同調したフォード、トヨタ、本田の各社が同様な電気自動車を試験的に提供した。そうした傾向を熱い目で観察していたGMの経営陣はジレンマに落ち入った。何故?電気自動車が将来の主流となり爆発的に売れたら、、、利潤の大きい高級車や目下人気のSUVの売れ行きが下火になる。そればかりか、裾野が途方もなく広い自動車業界の部品製造会社の大半が不必要な存在になり、倒産、失業に追い込まれるという事態が見えてきたからだ。狼狽した経営陣は、電気自動車の計画を破棄することに決定した。直ちに議会に働きかけ、『倒産、失業問題』を強調し、カリフォルニアのCARBが規制する『排気汚染ゼロ』は過酷すぎると訴えた。
時の大統領ブッシュの関心は環境問題より企業温存が優先していたので早速CARBに圧力をかけた。時に2004年4月26日、CARBはやむを得ず『その筋の知識人』を議長に据え聴聞会を開き「消費者の大半が電気自動車に関心がない事実」をデッちあげ『排気汚染ゼロ』法案を破棄することに成功した。
時を移さず、GM、フォード、トヨタ、本田の各社は足並みを揃え、リースしていたドライバー達の抗議を無視し、全ての電気自動車を回収し、文字通り粉砕してしまったのである。(左の写真)

替交エネルギー
束の間の明るみから闇へ葬り去られた電気自動車は、完全に消えたわけではない。消費者運動は静かに黙々と、科学者や技術者は地道にコツコツと、替交エネルギーを探索している。燃費のよい車を作ることに反対はしない。それで節約できる燃料は微々たる量でしかない。ガソリン/電気を併用するハイブリッドは、石油会社を温存するための当座の間に合わせに過ぎない。究極の目標はガソリン依存の生活と縁を切ることにある。

それでは自動車産業はどうなる、それに伴う失業問題はどうなる、と反論されるであろう。今の所明確な答えはない。そしてそれはオバマ新政権の課題でもある。私たちにできることは、無駄な運転を慎み燃料の節約に努め「電気自動車に関心を持って」いることを表明し、「消費者の需要がないから」という通説を妄言として葬ってしまうことだ。

公共の乗り物を見直す
アメリカ人が自動車に熱狂する以前、アメリカ大陸は東と西が鉄道で結ばれ、大いに利用され
ていた。自動車の便利さは人々を鉄道から遠ざけた。『自由』を尊んだ20世紀初頭のアメリカ人たちは、A地点からB地点まで、何時でも、独りでも、行ったり来たりできる『自由』を謳歌し、生活に定着した。

一方死んだと思った鉄道は、どっこい未だ生き永らえている。空の旅が一般化した今日でも、一部のアメリカ人は鉄道の存在を支持している。問題は、自動車産業が巨額を投じて高速道路網を縦横に張り巡らして鉄道の進出を阻んでしまったため、鉄道の利用は不便を極めている。

他方、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコといった大都会では公共の乗り物が発達しているので、住人は自家用車を持つ必要がない。逆に車を持っていると駐車が不便で交通渋滞に巻き込まれるという『不自由』が起こっている。その点、日本は鉄道天国、自動車地獄だと言えるであろう。

曲がり角に立つ自動車産業
フォードのT型モデル以来、自動車産業は『量産し多量に売る』ことに熱中してきた。1950年代には『一家に一台』を達成し、1960年代以降『一家に二台』から『多様性』そして『より大きくより強く』また『2年毎の買い替え』を推進して車を売りまくってきた。その結果、アメリカ中の都市周辺は交通渋滞が慢性化している。彼らが抱えている最悪の問題は、供給が需要を遥かに上回ってしまった『生産過剰』で、それをどう解決するかに尽きる。車が売れないのは燃料危機でもなければ、輸入車攻勢のためでも、経済危機のせいでもない。

自動車産業が直面している今後の問題は、『買い替え』の需要に応じられるだけの規模に縮小することだが、それををためらっているのは、部品メーカーの倒産、300万人を超える失業は避けらないからである。

「捨てる神あれば拾う神」もいることだ。新時代に即した環境に優しい産業が生まれる時期が到来していることを自覚し、今こそ自動車産業は腹を据えて体質改善をする時である。
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(自動車産業シリーズ、終わり。次の寄稿は、日本の自動車産業を違った観点から見た『見えざる手』です。)

2009年1月21日水曜日

歴史の一瞬:2009年1月20日

アメリカの良き転換に期待、希望、そして責任を!





























[写真:ブッシュ政権よさらば_右上;オバマ新大統領誕生_左上;熱狂と感涙の参列者150万人_中右;オバマ夫妻のパレード_上 (©ABC News; New York Times)]

2009年1月19日月曜日

経済危機の禍根:その3

自動車産業、その驕りと低迷
高橋 経 (たかはし きょう) 2009年1月20日

(前稿『その台頭』からの続き)

人件費
フォード・モーターのT型モデルが好調に売れていた1914年、ヘンリー・フォードは工員の日給を従来の2ドルから5ドルに上げた。当時の工員の日給としては破格な賃金であった。この決定は労働基準局から命令されたものでも、労働者たちの賃上げ要求を呑んだのでもなく、純粋にヘンリー個人の決断だった点に意義があり、またこの昇給が及ぼした影響も甚大であった。つまり、これでフォード社の評判を高めたと同時に、優れた技術者や機械職人がフォードに集まったのである。競争他社も負けてはいられず、心ならずも工員たちの昇給に踏み切らざるを得ない羽目に落ち入った。

それから21年後、1935年5月に、かつて禁止されていた労働組合が着実に基盤を築き全米自動車産業労働者連合(United Auto Workers: UAW)と名乗り組合として発足した。彼らは個々の会社に属さず、独立した団体のように作戦を立て、行動した。主に「待遇改善、賃金値上げ」を旗印に掲げ、各個撃破を目標として経営者たちと交渉する。交渉が難航するとストライキを決行した。大抵の場合、ストライキ以前に交渉は「円満に」解決したが、時に無期限にストライキを敢行したこともある。

特に1967年、フォードを目標にした交渉は難航を極め、同年9月から翌年の2月まで半年に及ぶストライキが行われた。その間収入が途切れるわけだが、普段納めている組合費から何がしかの生活費が支給されていた。最終的に組合の要求が通って操業は再開された。アメリカ社会に階級システムがあるとしたら、大ざっぱに分類してホワイト・カラーの会社勤めが上級で、自動車の組み立て工場で働くブルー・カラーの工員が下級というのが目安である。当然会社勤めの方が工員より高給をとる、と相場が決まっているが、フォードのストライキ以後、工員の給金がホワイト・カラー並み或はそれ以上になってしまったのである。
今日、UAWはカナダ、プエリトリコも統合し、全地区に亘って約800の地域オフィスを設置し、2000人の常勤職員と3000人余りの契約交渉人を抱えている。

交渉で獲得した高賃金は必然的に製品の価格に反映し、アメリカ製自動車の価格は年々値が上っていった。

作業エレジー

チャプリンの『モダン・タイムス』をご覧になった方ならご存知だろうが、あのスパナーを唯一の工具としてベルト・コンヴェイァーで働く工員チャップリンと同じで、自動車の組み立て工場で働く一日は8時間前後というもの、同じ作業の繰り返しで、気が狂うとまでいかなくても、心理的な鬱病になる恐れは充分にあるし作業に飽きることもありミスも起こす。特に休み明けの月曜日にはそうしたミスがしばしば発生するので「月曜に完成した車は買うな」といった陰口が囁かれたものだ。(上は旧GM本社ビル)
人件費がかさみ非能率的な工員たちの問題を解決するために、ここでロボットの登場となる。経営者にしてみれば高価な投資だが、長い目で見ると、ロボットの作業は正確で同じ動作の連続でも鬱病にもならないし不平も言わない。そして何よりも良いことは、給料を支払う必要が全くないことだ。

経済摩擦とジャパン・バッシング日本叩き]
前稿で述べた1973年の第一次オイル・ショックの後、経済小型車の波がアメリカに押し寄せてきた。アメリカ車の値上げされた価格と、比較的安価だった日本車の性能向上が相乗効果をあげ、アメリカの消費者は徐々に日本車に乗り換えていった。(左は、フォード二世が建て、後年GMの手に渡ったビル群)

1980年の初頭、GM、フォード、クライスラーのビッグ・スリーは、夫々2つの顔を持っていた。
表の顔は、アメリカ車を日本の市場で売りたいが、日本政府の制定した輸入規定が厳 し過ぎるのは不公平であると公けに抗議し続けていたことである。ヘンリー・フォード二世(Henry Ford Jr. 創始者ヘンリーの孫)と、クライスラーの会長に移籍したリー・アイアコッカ(Lee Iacocca)の二人が『日本叩き』の先鋒だった。

別の顔は裏腹で、車の価格を抑えるために日本製の部品を購入して自社の車に取り付けていた。フォードは東洋工業の株を買い占めていたし、クライスラーは三菱からエンジンを仕入れていた。しかもアイアコッカは、クライスラー再建のためにという名目で、債務になっていた三菱への支払い金を無期の棚上げにしてしまった。GMは後に、いすず、トヨタ、すずき各社と緊密に提携している。

いずれも日本政府を公然と非難する資格はなかったのである。

また仮に日本の輸入規制が緩和されたとしても、アメリカの車は日本では売れなかったであろう。というのは、先ず高過ぎること、大型過ぎて日本の道路で操作し難いこと、左ハンドルを右に変える手間を省いていたこと、そしてアメリカの何倍ものガソリン代を支払っていた日本の消費者にとってアメリカ車は『ガソリン垂れ流し』の悪評判が高かったことなどである。 東京にGMの海外販売部門があり、それでも一年に400台位は売れていたようだ。どんな日本人が酔狂にアメリカ車を買うんだと疑問に思うかも知れないが、多分映画スターとかギャングとか派手な職業の400人が乗り回しているのだろうという噂だ。

悲哀のレイオフ
アメリカの自動車会社は、車が売れなくなると操業を短縮し、それに伴って工員達を休職させる。彼らの収入は途絶え、失業保険に頼るのみ、月賦の支払いに追われて貯金などないから生活が苦しくなる。その反面、経営陣の上に立つ会長とか社長は百万ドル単位の年俸やボーナスを受け取っている。レイオフされた工員たちの鬱憤は想像に絶する。アメリカ車の品質低下を忘れ、売れている日本車に逆恨みがこもる。鬱憤が溜まっている組合員が組合の集まりに出かけ、たまたま駐車場に日本車を見かけて怒り心頭に達し金棒か何かでその’車を叩き壊していまう、といった事件がしばしば起こった。

1982年のある晩、デトロイトのバーでやけ酒をあおっていたレイオフの工員がいた。そこへ来合わせたのが中国系アメリカ人のヴィンセント・チン(Vincent Chin)、鬱憤工員は、チンを日本人だと思って絡んだ。その挙げ句、工員は手元にあったバットでチンを撲り殺してしまった。工員は逮捕されたが裁判で無罪の判決となり他州へ引っ越してしまった。収まらなかったのがデトロイト周辺の中国系米人社会だったが、日系人始めアジア系アメリカ人が援助団結して再審を要求した。残念ながら今もってこの事件は未解決のまま燻っている。(続く)

2009年1月18日日曜日

経済危機の禍根:その2

自動車産業、その台頭
高橋 経(たかはし きょう)ミシガン州 2009年1月18日

[筆者は
1952年から1994年まで42年間、広告代理店のアート・ディレクターとして主に各種自動車の宣伝に携わってきた。]

揺籃期
『自動車』という乗り物が誕生したのは19世紀の後期から20世紀の初期にかけてであ
る。それまで、馬車が一般的な乗り物だったから、自動車を初めて見た人達は嘲笑をこめて『無馬車(Horseless Buggy)』と呼んだ。誰が最初に自動車を発明したかは不明だ。自動車は、多くの技術者たち創意が相互に啓発し合った綜合的な結晶だったからである。1906年、セルデン製(Selden)の無馬車が、走る人と同じ速度を出したことがニュースになった、と言うと今の若い人達は信じられないであろう。

20世紀初頭の自動車製造は、正にその戦国時代、群小の車製造会社が乱立し、多くが破産して泡のように消えていった。世界の(主に欧米の)技術者たちは改良に改良を重ねて実用に耐える乗り物を作り出した。アパーソン(Appersons)、ヘインズ(Haynes)、ラムブラー(Rambler)、オールズ(Olds)、リーヴス(Reeves)などの名は氷山の一角、今は亡き開拓者の名簿の一部に残っているだけだ。 動力の方法は多様で、機関車と同じ原理のスタンレイ(Stanley)の蒸気機関、バッテリーを搭載した電気自動車、などがパワーを争っていたが、最終的にガソリンを使った内燃発動機に軍配が上がった。その瞬間的な発進力、エンジン動力の強さ、持続力、そして補給の便利さ、において多の動力より遥かに優っていたからである。フォード社の創業者ヘンリー・フォード(Henry Ford)は、自動車戦国時代の勝ち残りの一人だ。自動車作りで生き残ったものの、もう一つの障害は生産価格を如何に引き下げるかにかかっていた。

大量生産で大量販売を
ある朝、オフィスの窓から工場を見下ろしていたヘンリーは、通勤してくる工員たちを眺め「今に我が社の工員達の全員が、自分の車で通勤してくるようにして見せる」と呟いた。これはヘンリーの右腕と言われた副社長チャールス・ソレンソン(Charles Sorensen)が自伝で書いている逸話だが、その言葉が社員を慈しんで洩らした言葉か、あるいは自動車販売で他社を出し抜く作戦を考えていたのか不明である。動機はいずれにせよ、ヘンリーは自動車製造を従来の高価な『手作り』車から、ベルト・コンヴェイヤー式の量産態勢に切り替え、製造価格の引き下
げを図った。 こうして1908年、フォード最初の量産車T型モデルが発進したのである。この生産計画は当たりに当たって1920年代の半ばまでに10,000,000台を販売し尽くした。この成功を他社が黙って見守ってはいなかった。高級車を含めて、全ての自動車製造会社が量産態勢に切り替えたことは言うまでもない。かくして、少なくともアメリカでは、自動車は確実に一般大衆の生活の一部に定着していった。第二次大戦が始まる当時には、シボレー(Chevrolet)、ビュイック(Buick)、クライスラー(Chrysler)、キャデラック(Cadillac)、オールズモビール(Oldsmobile)、ポンティアック(Pontiac)、スチュードベーカー(Studebaker)、ラムブラー(Rambler)、ハドソン(Hudson)、ジープ(Jeep)、リンカーン(Lincoln)、マーキュリー(Mercury)、ダッジ(Dodge)、プリムス(Plymouth)、などが争って販路を拡大していった。その後に続く合併劇については省略する。第二次大戦中は、乗用車の生産を中断して軍需車両の生産に切り替えたが、戦争終了後、再び乗用車の生産に立ち戻った。

より大きく、より強く
大戦直後の数年は、さすがのアメリカも供給不足に悩まされていたが、1950年前後には順調に生産態勢を整え需要に応えられるようになった。『一家に一台』の目標は疾うに達成していたので、次は『一家に二台』を目標とし、それを達成するのにはさほどの年月はかからなかった。販路を更に拡大する成り行きとして『成年一人に一台』が掲げられ、車種の多様性が提案された。つまり、高級車、経済車、大型車、中型車、小型車、スポーティ車、といった具合に階級、年令、職業、好みによって選択できる各種各様の車種を取り揃えたのである。 その一環として1950年代の半ば、クライスラーは巨額を投入し、人々が将来どんな車を要求しているか調査した。その結果「道路の混雑、駐車場のスペース、などを考慮すると将来の車は『小型』であるべき」という答えが出た。クライスラーは鬼の首でも取ったように、翌年のモデルとして小型車の生産に重点をおき大々的に宣伝した。だが作戦は見事に裏切られ、その年の販売は惨憺たるものであった。リサーチ会社は納得いかず、もう一度調査をし直し、人々が「、、、小型車が将来の理想」としたのは偽りのない本心からで、『他の』人々の車は小さい方がよく『自分の』車は例外だったのである。このリサーチの『読み違え』は業界に広まり、各社競って車の大型化に突入した。1950年から1960年代の半ばまでに、中型車は大型車のサイズに、大型車は更に巨大化し、宣伝でも「大型になった」ことをセリング・ポイントとして強調された。車自体が大きくなれば、より強力なエンジン馬力が要求されるのは当然の成り行きで、これも併行したセリング・ポイントとして声高に宣伝された。

『買い替え』のそろばん勘定
自動車製造会社のもう一つの『市場拡大』戦略に『買い替え』があった。「車は古くなるにつれて故障が起こったり傷み、それにつれて修理代が嵩むようになる。だから、本当に経費を節約する気があるなら、2年毎に新車に買い替えた方が経済的」といった手の戦略である。これも可成り成果が上がったようだ。 アメリカ車が『より大きく、より強く』育っている一方で、本心から『小型車』を望む消費者が「やむをえず国産でない」フォルクスワーゲンなどの外車に目を向けていた。1960年代の半ばあたりのアメリカ市場では、トヨタ、日産などの日本の車はまだ性能の点で認められていなかった。アメリカ人の大半は、『より大きく派手で、より馬力の強い』車を乗り回し、この世の春を謳歌していた。
我が社の方針は弱肉強食。」(from NEWYORKER)

オイル・ショック
だが突然、1973年10月15日、アラブの石油生産国(OPEC)がアメリカに対して石油の供給を中止した。アメリカが、彼らの敵国であるイスラエルを軍事的に援助しているから、というのが彼らの言い分であった。ガソリン・スタンドに車が行列して給油を待つという光景がアメリカ中で見られたが、しばしば、売り切れとなりドライバー達の間で給油を争い傷害事件まで起こるという事態まで招いた。ここで「地球の石油埋蔵量は無限」という神話は脆くも崩れた。奇しくも、それまで軽視されていた輸入小型車が脚光を浴びることになる。数年後には、品質向上が一般に認識されたトヨタ、日産が、フォルクスワーゲンの首位の座を奪い取った。 消費者ばかりか自動車製造会社も、改めて小型車や経済車を見直すことになるが『より大きく、より強く』という思想がしみ込んでいるビッグ3は巨大過ぎ、一朝一夕で方向を転換するのは至難の業務だった。そんな巨人たちが急造した小型経済車は惨憺たる失敗作に終った。(続く)

2009年1月16日金曜日

『世相』と『茹で蛙』

北村 隆司 (きたむら りゅうじ) ニューヨーク在住

[筆者は東京出身、1962年早稲田大学政経学部卒、伊藤忠商事(株)東京本社に入社。1965年の初駐在以来、通算26年ニューヨーク本社に勤務、北米機械部門を統括するシニア・ヴァイス・プレジデント(SVP)に就任。その間ハーバード・ビジネス・スクールAMP終了。システム・エンジニアリングを中核とする企業を創設し、結果として1500人を擁する会社に発展。1995年伊藤忠を退社後、幾つかの米国慈善事業団体(NPO)の理事を歴任。]

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『世相比較学会』も2003年に創立以来、満5年を経過しました。『世相』は多くの人々の人生や価値観に大きな影響力を持ちます。その割に世間の注目をあびる事も、研究の対象になる事も殆どありません。辞書を紐解いても、簡単に『世の中の有様』と記述される程度です。今年は、私が『世相』の影響力に関心を持った経過と昨年の感想に就いてご報告したします。

「世相」は外国ボケの病原体
1976年にニューヨークに2度目の赴任をした私は、異国生活で自分の考え方がどの位変るかをテストする為、(1)がん告知の是非(2)陪審制度の賛否(3)日米どちらの医療を信頼するか?の3項目に就いてリトマス・テストを試みました。
独身で駐在した前回と異なり、今回は教会、子供の学校、NPO活動などアメリカ社会との接触が濃厚で、世間から受ける影響の強さは比較になりませんでした。がん告知反対、陪審制反対、重病になったら日本に戻ると決めていた自分のリトマス試験紙は、たちまち変色し、日本的な価値観が音をたてて崩れる自分を実感しました。「外国ボケ」の始まりでしょう。『鈍感』な自分をこれほど早く変える「力」は何なのか?出した結論は「世相」でした。

「茹で蛙」現象とは
「蛙を、温度が緩やかに上がる水の中に入れると、水温の上昇に気が付かず茹で蛙になってしまう。人間は環境に適応できる能力を持っている為、ゆるい変化は、それが致命的なものであっても、受け入れてしまう傾向が見られる」(ウイキぺデイア)と鈍感力の危険性を指摘した学説とあります。

行政訴訟と世相
最近、日本の「行政訴訟裁判」の様相がが大きく変りました。永い間、門前払いが当たり前だった「行政訴訟」で、権力側の敗訴が急増しています。ハンセン氏病、水俣病、薬害被害、原子爆弾被災者問題などの逆転判決は、法律が変った為ではなく裁判官の「価値観」が変ったからです。世相の影響は確実に浸透しています。 日本人でこの変化に気がついている方は、意外に少ないように思います。これは、何事につけ変化のゆるい日本社会の「茹で蛙」現象ではないでしょうか? 

益川教授と外国
ノーベル賞受賞者の一人益川敏英教授は、「英語が出来なくとも、物理は出来る」と肩肘を張っていましたが、ストックホルムでは「英語を知っていると便利だ」と少し軟化しました。そこで、今年のレポートは簡単な英語のテストからスタートし、幾つかのジョークをご紹介したいと思います。

[ジョーク集]
■ 東は東、西は西

和文英訳:次の俳句を英訳せよ。 言うまいと思えど今日の寒さかな 
(回答:You might think but today’s some fish.)

英文和訳:以下の英文を和訳せよ。
To be to be ten made to be.
(回答:飛べ飛べ天まで飛べ)


■ スイスの海軍大臣、日本の経済財政担当相

スイスの海軍大臣がパリを訪問し、大きなパーテイーに出席した。司会者が「スイスの海軍大臣がお出でになりました」と紹介した。フランス人は皆、大声で笑い出した。その時、スイスの海軍大臣は少しも慌てず、「この前、あなた方の国フランスの大蔵大臣が、スイスにお出でになりました。その時、私たちは誰も笑いませんでしたよ。」
(ジョークに解説は野暮だが念のため:スイスに海はない。) 


[考察]爾来フランスも変りました。現在のフランスの大蔵大臣は、独禁法と労働法を専門とする国際的弁護士として活躍したラガルデ女史で、流暢な英語を駆使して危機対策でも國際的な指導力を発揮しています。一方、我が国の与謝野経済財政担当相は、100年に一度と言う世界的経済危機の最中に「増税論議」を持ち出した「特異」な大臣で、前述のジョークにあるスイスに出かけたフランスの大蔵大臣の有力な後任候補です。

■ 財政出動とケインジアン
モスクワの広い通りの真中で二人の労働者が働いている。一人が穴を掘る。もう一人がその穴を埋める。一ヵ所が終ると数メートル動いてまた穴を掘る。もう一人が穴を埋める。その繰り返しである。イギリスの観光客が不思議に思って尋ねた。「何をしているの。あんた達はケインジアンか?」労働者は答えた。「ケインズってなんだ。いつもは三人一組で働いている。一人が穴を掘って、二人目が苗木を植える。そして三人目が土をかける。今日は二人目の苗木の担当が風邪を引いて休んだから二人でやるしかない。」

[考察]日本政府が財政出動に踏み切った事は、正しい判断だと思います。只、国費の無駄では世界で断トツの日本が、定額給付金をばら撒いたり、無駄の元凶である特別会計に手をつけない事から、旧ソ連の「ケインジアン」を思いだしました。日本の財政出動は、最初から苗木を植える係りを端折っているのでは?これは私の勝手な疑問です。

■ 物造り地獄アメリカ
アメリカ人のトムは現在、失業中の身である。朝7時に時計(日本製)のアラームが鳴る。コーヒー・メーカー(台湾製)がゴボゴボいっている間に、彼は顔を洗いタオル(中国製)で拭く。電気カミソリ(香港製)できれいに髭も剃る。朝食をフライパン(中国製)で作った後、電卓(日本製)で今日は幾ら使えるかを計算する。腕時計(台湾製)をラジオ(韓国製)の時報で合わせ、クルマ(ドイツ製)に乗り込み、仕事を探しに行く。然し、今日もいい仕事は見つからず、失意と共に帰宅する。彼はサンダル(ブラジル製)に履き替え、ワイン(フランス製)をグラス(日本製)に注ぎ、豆料理(メキシコ製)をつまみながら、テレビ(インドネシア製)をつけて考える。「どうしてアメリカにはこうも仕事がないのだろうか・・・」 (左:1973年、NewYorker誌から「あれっ、メード・イン・アメリカだよ!」) 

[考察]このジョークは、物造り地獄アメリカの笑えぬ現実です。永年に亘って世界の製造業を牽引して来たデトロイトが殆ど崩壊してしまった事も、昨年の大きな事件でした。現在も止血剤を打ちながらICUに入っているデトロイトですが、アメリカの物造り衰退の現状をジョークでご紹介しました。

日本の信用危機
アメリカ発の金融危機は津波と雪崩れが重なった様な勢いで『信用社会』を襲い信用を完膚なきまで破壊してしまいました。この影響は、想像を超える速さと深刻さで日本を襲います。経済の世界化を実感させる出来事でした。
日本の信用は、<衣食住 すべてそろった偽装品>とか、<社長業 今や問われる 謝罪力>と川柳に詠まれた偽物ブームでも破壊されました。「金融の信用」と「物造りの信用」を二重に壊された日本のモラルの再建は急務でしょう。

■ 新製品が世に出るまでの四段階

先ず、アメリカの企業が新製品を開発する。次にロシア人が「自分たちは同じ物を、30年も前に考え出していた」と主張する。そして、日本人がアメリカ製より高い品質のものを造って輸出し始める。最後に中国人が日本製のものに似た偽物を造る。

[考察]100年前のT型フォードの超時代的な技術水準とウオレン・バフェット(Warren Baffett)が提唱した進歩の三法則[3つのI(Innovation, Imitation, Idiot)]は、昨年ご紹介しが、これに絡んで生まれたのが上記の「新製品が世に出るまでの四段階」です。このジョークに登場するアメリカと日本の役割が交替する日が近いことを期待しています。

■ 金融派生商品時代の農業
「まず、『デリバテリブ(delivertive)』で2頭の乳牛を3頭にし上場会社に売りつける。其の後、『デッド・エクイテイ・スワップ(dead equity swap)』を使って牛を4頭にして買い戻す。次に、政府に6頭分の牛取引の免税措置を講じて貰った上で、牛を『肉』と『ミルク』の二つに分け、6頭分のミルクを受け取る権利をケイマン諸島の系列企業に売りつける。勿論、買い戻す時には7頭分の権利になっている。最後に、全てのリスクはCDSでヘッジ(hedge)されている事をアナリスト(analyst)と格付け会社に伝え、年次報告に『8頭の乳牛を持っている』と記載し、更に『オプション(option)』でもう1頭持つ事も出来ると追記する。」


[考察]原始共産社会の酪農の原則は「2頭の乳牛を持っている農民が、その牛を隣人と一緒に育て、ミルクは皆で平等に分け合っていた」と解り易い単純な社会でした。処が、アメリカの技術革新の矛先が物造りから金融工学に変ると、上記のジョークが生まれます。世界金融危機を誘発したアメリカの悪しきイノベーションです。
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日本の多様文化?
最近ニューヨークの書店の辞書売り場を訪れました。普通の辞書以外に、『外来語辞典』『新語辞典』『カタカナ語辞典』『カタカナ語・欧文略語辞典』『四字熟語辞典』『KY語辞典』等やたらと日本語に関する辞典の多いのにびっくりしました。中には『日本語オノマトペ辞典』と言う『難語辞典』を引いても解りそうもない辞典も見かけました。これは日本語が多様化したのか、日本語が混乱したのか迷った瞬間です。私の『外国ボケ』は直りそうもありません。

指導者への期待
危機は偉大な指導者を育てます。真面目で品行方正、ジョークが作られ難いオバマ大統領の就任を迎える今年は、世界を基本に戻し危機に喘ぐ多くの人々に、感動と勇気を与える政策を期待したいものです。 四川省の大地震、北京オリンピック、世界的経済危機、デトロイトの崩壊、米国史上初めての黒人大統領誕生、4人の日本人が相次いでノーベル賞受賞、偽装食品の横行など昨年は文字通りの激動の年でした。今年こそ、豊かで平和な2009年を願いつつ、「世相比較学会」の年頭報告と致します。

2009年1月14日水曜日

経済危機の禍根:その1

住宅危機は救えるか?
ディック・クレマー (Dick Clemmer) 経済学者、ミシガン州
2008年11月2日

[筆者、Economist ディック・クレマー(Dick Clemmer)は、シカゴ大学経済学部卒業。長年セントラル・ミシガン大学(Central Michigan Univ.)で経済学の教授、2007年に引退。元HUD の委員。共著で『都市問題の経済』を出版。]
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1980年代の初期アメリカで、いわゆる『預金と貸し付け事業の危機』が生じた。多くの金融企業や他の「堅実」な銀行が経済的な窮地に立たされた。理由の一部は、こうした「堅実」な銀行が、当てにならない「ジャンク(価値のない)」債券などに投資し、リーガン大統領が住宅委員会(Housing Commission) の会長にウイリアム・マッケナ(William McKenna)を、会長補佐に前都市住宅開発部長官だったカルラ・ヒルス(Carla Hills)を任命した。私は住宅委員会の委員の一人で、都市住宅開発部(Department of Housing and Urban Development—HUD)の住宅購入者との貸し付け契約に関する委員会の報告書の作成にたずさわっていた。住宅購入者と貸し方の双方が直面していたのは、頭金の準備とそれに続く残高支払いの問題だった。借り方の事情は、当然ながらその家族の収入額に左右される。もし、借り方が失業して収入が無くなれば、月々のローンが払えず家を手放さなければならない。

私も身に覚えがあるが、多くの住宅購入者は、頭金を個人的に銀行や親戚かから借りたりして金策する。或はセンコンド・モーゲジ(二次的抵当)で頭金をやりくりする手もある。貸手は、購入者の借金状況(Loan)と家屋の価値(Value)との比率(L/V)が査定の鍵になる。要するに、LとVは対等の額でなければならないのに、LがVを超過したら、貸手としては抵当の価値が貸した金額より下がることになる。だから手堅い融資会社は、LとVの比率を0.9以下に(融資金額は家屋の価値より低く目に)、頭金は価格の1割以上払い込ませることを条件にしている。
こうした家屋購入者と金融業者との契約条件は、1930年代には明確な基準がなく、家屋の価値とか、借り手の収入事情など碌に考慮もせずに融資が行われていた。借り手が安普請の家を抵当に、不当な融資を受けることもできた。逆に豪邸を抵当にして抑え、僅かな融資をして高利をむさぼった挙げ句、借り手を支払い不能に追い込んで、邸を『合法的』に取り上げるケースもあった。こうしたケースは1930年代の映画の格好なテーマとなり、被害者は美貌で収入のない未亡人と相場が決まっていた。

その1930年代に、連邦住居管理局(Federal Housing Administration—FHA; 今日ではHUDの一部)が発足し、30年返済という長期ローンで、少額5パーセントの頭金で住宅が購入できるという制度が出来た。契約不履行に備えて、FHAは融資会社の損害に対して0.5%の保証料を取り立てることでFHAは収益を上げていた。その後徐々にMGIC (マジックと発音)など、民間の抵当保証会社が設立され低料金で保証を行った。

それから数十年後、住宅委員会に準じて抵当業務は全国的な規模となり、一般に金利が下がった。連邦全米抵当協会(The Federal National Mortgage Association—FNMA;ファニィ・メィと発音)が企業として創立され、全国的に共通する抵当権利書類の基準が設定された。FNMAは連邦政府機関の一部だったが、ベトナム戦争当時に売却され、その残存部門がHUDの一部となり、政府全米抵当協会(The Government National Mortgage Association—GNMA;ジニィ・メィと発音)と、小規模連邦ホーム・ローン抵当企業(The Smaller Federal Home Loan Mortgage Corporation; フレディ・マックと発音)となり、FNMAと同様の業務を行ってきた。大方の投資家たちは、中小の民間抵当会社には見向きもせず、ファニィ・メィに投資した。中小の民間抵当会社も次第にファニィ・メィに身売りし、かくしてファニィ・メィは抵当保証に関する市場をほぼ独占し、平均利率は更に下がっていった。
それから登場したのが『サブ・プライム(Sub-Prime)抵当』だ。この新型の融資条件は、貯えがなく固定収入のない人々を魅惑した。

私がHUDの仕事をしていた頃、FHAが、インフレの高騰に対処するため、漸増抵当支払い法(Graduated Payment Mortgages—GPMs)を開発した。つまり、インフレで物価指数が上がり個人の収入も増額された場合、それに従ってローンの支払いも増額する、というのが骨子だった。この支払い法は旨くいったかのようだったが、家屋の価値が下がりL/Vの基準1以上に上がってしまう、という不都合が生じた。結果として、住居を僅かな頭金で手に入れた人々の多くが返済不能に陥ってしまったのである。
こうした購入者が契約を済ませて入居し、やがて家屋の価値が下がり、借り手が月々のローン支払いが困難になった場合、貸方は家屋を抵当として取り上げ、入居者を追い出し、他に売却しても、貸した金額の穴埋めにならない。それでも家が売れれば良い方で、昨今は家の買い手がつかず、何ヶ月も投資金が凍結したままでいるケースが多い。 このサブ・プライム抵当が導入された時期、アメリカの住宅価格はインフレの上昇と相俟って上がっていった。過去の傾向として住宅価格の上昇がインフレの上昇を上回ると、その後は下降線を辿る。これが現在我々が見聞している現実である。住宅の価値が上昇している限り、投資家たちは利殖をむさぼっていられたが、住宅の価値が下がるにつれて、その損失は並々ではない。投資家たちとはファニィ・メィ、その株主、ウォール街の投資銀行のことである。 私はファニィ・メィを弁護するわけではないが、彼らは議会から住宅投資をするよう圧力をかけられていたにも拘らず、サブ・プライム抵当に関わったことはなかった。住宅ブームの2000年から2006年にかけて、サブ・プライム抵当は多くの銀行や融資会社を魅惑させていた。

だが2000年代の金融危機は、1980年代のそれといささか趣きを異にしている。1980年代には、住宅の価格とインフレの上昇が足並みを揃えていたからサブ・プライム抵当が順調に受け入れられ何の問題もなかった。しかし、2000年代、家屋の価格、インフレ、借手の収入、などの上昇に伴ってサブ・プライム抵当が著しく上昇したが、必ずしも均衡が伴う上昇ではなかった。
更に、住宅価値が下降線を辿ると同時に、L/Vの比率が過分数になってきた。先代連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン(右の写真)の言葉を借りれば、今日の株価の上下は「不条理な活気、、、」ということになる。 例の、議会が7000億ドルに及ぶ経済界の救済融資を決める以前、政府はファニィ.メィを買い戻し、巨大企業の保証会社AIGを救う工作をし、投資銀行リーマン・ブラザースを倒産させ、メリル・リンチ他の証券会社の人事改造案を同意させていた。

これほど乱れた経済界を7000億ドルで正常化できるかどうか、私は疑問に思う。連邦政府が他のトラブルにも介入し『崩壊した信用』を安易で高価なテコ入れをして経済市場の『信用回復』を図っても副作用が伴うのではないかと危惧している。
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寄稿の詳細については、左上の既刊『寄稿のご案内』をご覧ください。

2009年1月7日水曜日

切り捨て御免の派遣社員

2009年1月8日

企業の都合で人手の必要に応じて雇った派遣社員、期間従業員、非正規社員を、経営状態が悪化したなどの理由で、必要がなくなれば容赦なく切り捨ててしまう。こんな経営習慣は、アメリカだけの得意技だと思っていたら、終身雇用を建て前の美徳を誇っていた日本の企業まで、最近ではこうした労働力調節を「経済事情に即した」新しい経営方針として踏襲しているようだ。


企業に対する批判や住宅対策問題は、いずれ専門家に任せる。話題は、この寒空に仕事と住まいを失った派遣社員や期間従業員らを支援しようと、NPO法人や労働団体による実行委員会が『派遣村』なる施設を非常救済措置として創ったことだ。この事実は、無為無策の政府や自治体に愛想をつかしている国民に一脈の光明を与えたのではなかろうか。

それに関連して思い起こされるのは、今から134年前、後の小泉八雲ことラフカジオ・ハーン(Lafcadio Hearn)が新聞記者時代に書いた記事『煉瓦の床に寝る』のこと。 その記事で、「貧しき者を扶け、富める者を糾弾すべし」という昔気質なあるジャーナリストの言葉を、ハーンは記者の職務上の金言として胸に畳み込み、上の言葉にある貧富双方の実態を、如実に読者に訴えた記事である。全文をご紹介する。いつの世にも、どこの国でも、「貧困」と「救済」は背中合わせに存在しているようだ。
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煉瓦の床に寝る
1875年 (明治5年) 11月29日

もし、オハイオ州シンシナティ市(Cincinnati, OH: 写真上:1870年代の同市) のキリスト教青年会 (YMCA
: Young Men's Christian Association) の人達が、本気でこの世の中を善くしたいという理想を掲げ、他の青年達とその理想を分かち合う気持ちがあるならば、七面鳥の骨をしゃぶったり、無意味な詩を歌ったりするより、もっと世の為になる行動がとれるのではなかろうか。昨夕、ヴァイン通り(Vine Street) の一郭で、彼等がそのような行事を、暖かく明るい燈火の下で、楽しげに暇をつぶしていた頃、警察署本部の倉庫では他の集まりがあった。

 「鼻を突っ込んで、そこを覗いてごらんヨ」と、警部の一人が椅子にのぞけり、葉巻を吹かしながら、記者に声をかけてくれた。『そこを』とは中央にストーブが真っ赤に燃えている部屋のことで、およそ20人ほどの男や子供たちが煉瓦の床に雑魚寝していた。ドアを開け閉めする音や、屋外の木枯らしの悲鳴とが入り混じって聞こえる都度、半裸で寝ていた者達は震え上がり、寝返りをうち、もぞもぞと肌を掻きながら、再び眠りに戻っていった。 市庁舎は、一般市民にその扉を開いてはいるが、寝床まで与えようとはしていない。庁内の壁際にはベンチが設置されているが、たちまち誰かに占領され;最初に来た6人ほどがそこに寝てしまうと、遅れて来た者は煉瓦の床に寝ることになる。男や子供たち、10人以上がその部類で;そんな寝床ですら取り損なった不運な連中は街路で寝るしかないが、もしかしたら、留置場の寝床ならありつけるかも知れないと思い付く。いずれにしても皆シラミに取りつかれて惨憺たる体たらくだ。

   さほど酷くない風体でその部屋へ入って来た連中でも、 そこを出て行く頃には先住人たちと同じ有様になってしまう。彼等は寝ている間中、ボリボリと体を掻き続けている。イギリスでも貧困者の状態は似たように惨憺たるもので、ロンドンの浮浪者たちが教会の作業所で一夜の仮の宿をとり、翌朝出て行った後にはシラミと泥足の跡が残されている、という話を聞かされた。その教会では、寝場所が与えられる前に、頭から爪の先まで洗い落され、衣類は亜硫酸ガスの上でいぶされ、翌朝出て行く時には朝食が与えられ、それ相当の仕事が課せられる。

  我が市庁舎の倉庫に彼等が入ってくる時は、そのボロ服、汚れた体、それに不潔な腫物など、そっくり身に付けたまま;ある者は上着を脱ぎ、丸めて枕にしてベンチの下で寝たり;又ある者は下着以外はそっくり脱ぎ、できるだけストーブの近くに這い寄って寝る。全員入室し終ると、皆で体を寄せ合って横になり、人と人の間には足の踏み場もなくなる。窓もドアも閉め切ってあるので、雑魚寝する大ぜいの体温から発散する臭気が室内に充満し、ストーブの熱でその悪臭は増幅されて立ち昇り、層になって停滞し、さながらイタリア、カンパーニャ平野 (Campagna) のポンティノ湿地 (Pontine marshes) から蒸発する死臭もかくや、と思わせる酷さである。


  この連中は、朝になりその日が始まると追い出され、夜になると前の日と同じことが繰り返される。ジョン・ウイットフィールド (John Whitfield) とウォルター・マシュウ (Walter Mattew) が神父の職責を果たすためにその部屋へ行った時、そこへ通じるホールの明りは薄暗く、彼等が説教をした講堂は気味の悪い雰囲気で、まるで、貧民窟か犬小屋の中に立っているような心持ちだった、と言っている。二人が痛感したことは、救われるべき人々が、かえって焦熱地獄に堕ちている、ということだった。
 
  キリスト教青年会の会員たちが、その組織の存在理由を真剣に探究する気持ちがあるなら、貧困の分野に求めるべきであろう。その正しい解答は、彼等が日常生活の一部にしている、ガス燈で明々と照らされた図書室の本棚で探しても見つかるまい;本気で彼ら自身の存在理由を見つける気持ちがあるなら、市庁舎の失意に満ちた倉庫とか、ハモンド街 (Hammond Street) の警察署とか、その類の場所へ行ってみるがよい。彼等が目的を達成する意気込みが本当にあるのなら、小説本や絵新聞を買う替わりに、肘掛け椅子やじゅうたんを新設する替わりに、幹部会員に給料を払ったり、高額な事務所の賃貸料を払ったりする替わりに、そして、こうしたヴァイン通りのYMCAがやっている全ての行事の替わりに、シンシナティの警察署本部の煉瓦の床の上に雑魚寝を余儀なくされている貧困者にベッドを与えるとか、何か救済の方法をとる道があるのではなかろうか。
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■ラフカジオ・ハーン新聞記事原稿選集『「怪談」以前の怪談』より、高橋経訳:2004年、東京日本橋、同時代社刊